王宮の地下がダンジョン化していることすら気づかず、幼馴染を優先する無能な第一王子に見切りをつけた筆頭魔導官は、迷宮の主である第二王子殿下に再就職を勧められました
結界更新の儀は、王宮でもっとも重要な儀式のひとつだ。
王都の全域を覆う大結界の要を、年に一度、王族の魔力を触媒として編み直す。
筆頭魔導官である私が三百二十七の術式を組み上げ、第一王子アルヴィス殿下が魔力を注ぐ。
二人でなければ、術者の命を削らずには成立しない儀式――のはずだった。
「殿下は、本日はお越しになりません」
中枢室の扉の前で、殿下付きの侍従が深々と頭を下げた。
「聖女さまが、今夜の観劇にどうしてもとお望みで……。殿下は『エルシアなら一人でどうにかするだろう』と、そのように」
ああ、またか。
驚きよりも先に、そんな言葉が胸に落ちた。
怒りでも悲しみでもない。
ただ、乾いた納得だけがそこにあった。
「……分かりました。下がってよろしい」
侍従が逃げるように去っていく。
私は一人、中枢室の扉を開けた。
天井まで届く水晶柱の間に、大結界の中枢が淡く脈打っている。
王都に住まう五十万の民の頭上を守る、光の網の心臓部。
本来、王族の魔力なしにこれを編み直せば、術者の魔力はほとんど空になる。
下手をすれば命に関わると、歴代の筆頭魔導官は皆、記録に残している。
それでも、やらないという選択肢はなかった。
結界が更新されなければ、ほころびから魔物が入る。
真っ先に犠牲になるのは、城下の民だ。
(大丈夫。去年も、一昨年も、一人でやり遂げたのだから)
そう。
殿下が儀式に立ち会ってくださったのは、婚約が調った最初の年だけだった。
二年目は、聖女マリエルさまの祝福巡礼に付き添うからと。
三年目は、マリエルさまが熱を出したからと。
そして四年目の今夜は、観劇。
理由は年々、軽くなっていく。
私は袖をまくり、中枢に両手をかざした。
水晶柱の光が、王宮の北西へ向けて一瞬だけ不自然に沈み込んだ。
疲労で霞んだ目のせいだと思い、私はその違和感を見過ごした。
「――起動。第一階梯より、編み直しを開始します」
誰に聞かせるでもない宣言とともに、術式が展開する。
三百二十七の術式を、一つずつ、丁寧に。
王族の魔力の代わりに、私自身の魔力を燃やしながら。
儀式が終わったのは、夜明け前だった。
指先の感覚はとうになく、立ち上がろうとした膝が水晶の床に落ちる。
冷たい床に頬をつけたまま、私はぼんやりと天井を見上げた。
編み直されたばかりの結界が、頭上で静かに輝いている。
綺麗だ、と思った。
そして、その輝きを――私以外の誰も、見ていないのだとも。
殿下は今ごろ、観劇の余韻に浸りながら、マリエルさまと楽しい夜を過ごしているのだろうか。
あるいは、何も知らずに、もう安らかな眠りについているのだろうか。
(私は、いったい誰のために働いているのだろう)
四年間、心の奥に沈めてきた問いが、静かに浮かび上がってきた。
そして今夜、その問いに答えが出てしまった。
少なくとも――あの人のためでは、もうない。
◇◆◇
翌朝、私は執務室でアルヴィス殿下に辞表と、婚約解消の申立書を差し出した。
「筆頭魔導官の職を辞します。あわせて、殿下との婚約も解消させていただきたく」
殿下は書類を一瞥して、困ったように眉を下げた。
昔は誠実に見えたその表情が、今はただの癖なのだと、もう知っている。
「昨夜のことを怒っているのか? 悪かったよ。でもマリエルは聖女として気を張り詰めているんだ。息抜きくらい、させてやらないと」
「怒ってはおりません。ただ、限界なだけです」
「エルシア」
殿下は書類を机に置き、諭すような声を出した。
「君は強い。魔導の才も、心もだ。だからマリエルのことも、儀式のことも、君なら大丈夫だと思っていた。君なら怒らないと思っていたんだ」
――ああ。
その一言で、最後に残っていた何かが、音もなく折れた。
強いから、後回しにしていい。
怒らないから、約束を破っていい。
大丈夫だから、一人で命を削らせていい。
この人の中で、私はずっと、そういう存在だったのだ。
「殿下。三年前の私の誕生日、湖畔の離宮で過ごすと約束してくださいましたね」
「……それは、マリエルの巡礼と重なって」
「二年前、亡き母の形見の魔導具を、私に無断でマリエルさまに貸し出されました」
「彼女がどうしても必要だと言ったんだ。君なら分かってくれると」
「先月、私が三日徹夜で仕上げた防護術式の功を、宮廷会議でマリエルさまの祈りの成果として報告なさいました」
「あれは……その方が、皆が納得すると思って」
一つずつ、指を折るように数え上げる。
殿下の顔から、余裕が剥がれていく。
「私は一度も、マリエルさまを恨んだことはありません。彼女が特別なのは、本当なのでしょう」
息を吸う。
四年分の言葉を、最後の一つに込める。
「ただ、殿下。あなたの隣に立つ限り、私は一生、特別ではないのです。それだけのことに、気づくのが遅すぎました」
「エルシア、待て。話せば分かる。君がいなくなったら、王宮の魔導管理は」
「後任の育成資料は、すべて執務室に残してあります。……四年前から、少しずつ作っておりましたので」
殿下が絶句する。
四年前から。
つまり私は、婚約が調ったその年から、いつか去る日のための準備をしていたのだ。
自分でも、今初めて気づいた。
私の心は、頭よりずっと早く、答えを知っていたらしい。
一礼して踵を返したとき、扉の向こうから軽やかな足音がした。
「アル! 昨日の劇、本当に素敵だった――あら、エルシアさま」
純白の聖女衣をまとったマリエルさまが、小鳥のように首を傾げる。
「まあ、お辞めになるって本当ですの? わたくし、てっきりエルシアさまなら許してくださると思っていましたわ。ね、アル?」
悪意はないのだろう。
この方は本当に、ただ無邪気なだけなのだ。
無邪気なまま、人の四年間を踏んで歩ける――それが「特別」ということなら。
「ええ、本当です。お二人とも、どうぞお健やかに」
私は、生まれて初めて心からの笑顔で、二人に別れを告げた。
◇◆◇
荷物は、旅行鞄ひとつに収まった。
筆頭魔導官として四年、婚約者として四年、この王宮で過ごした歳月の軽さに、少し笑ってしまう。
最後に、王宮の外周をぐるりと歩いた。
感傷ではなく、職業病だ。
自分の張った結界の状態を、最後に確かめておきたかった。
その足が、旧棟の前で止まった。
「……何、これ」
王宮の北西、今は書庫としてしか使われていない古い棟。
その地下へ続く階段の奥から、結界の網目が――ねじれている。
正確に言えば、ねじれているのではない。
私の張った結界の内側に、まったく別の法則で編まれた「領域」が、静かに口を開けていた。
濃密な魔力。
明らかに、自然のものではない構造化された魔素の循環。
そして階段の奥から漂う、地脈そのものが呼吸しているような気配。
(これは――迷宮?)
王宮の地下が、ダンジョン化している。
馬鹿な、と思った。
迷宮の発生には強大な魔力の澱みが必要で、王都のような結界都市では理論上あり得ない。
しかも、この規模。
魔力の層の厚みから見て、発生は昨日今日ではない。
少なくとも、二年。
いや、三年は経っている。
背筋が冷えた。
三年間、王宮の誰一人として、足元のこれに気づかなかったのだ。
……いいえ、違う。
気づける人間が、一人しかいなかったのだ。
王宮の結界を毎日その手で維持し、魔力の流れのわずかな変化を肌で読める人間が。
そして皮肉なことに、その一人は今日、この王宮を去る。
(放っておけば、いずれ領域は王宮を呑む。報告するべき。でも――)
誰に?
「君なら一人でどうにかするだろう」と言った、あの人に?
私は階段の奥の闇を見つめた。
不思議と、恐怖はなかった。
むしろその闇は、どこか懐かしい色をしている気がした。
この魔力の質を、私は知っている。
ずっと昔、どこかで――。
気づけば、私は階段を降り始めていた。
筆頭魔導官としての最後の仕事。
そう自分に言い訳をしながら。
◇◆◇
迷宮の内部は、異様なほど静かだった。
石壁は淡い燐光を放ち、通路は明らかに知性ある設計で編まれている。
魔物の気配はそこかしこにあるのに、私の前には一体も現れない。
それどころか。
(……道が、開いていく?)
私が進む先だけ、隔壁が音もなく開き、燐光が足元を照らす。
まるで迷宮そのものが、私を最奥へ招いているかのように。
警戒するべきだった。
罠を疑うべきだった。
けれど四年間、魔力を読み続けた私の直感が告げていた。
この迷宮に、敵意はない。
それどころか、この魔力は――泣きそうなほど、私を歓迎している。
最後の扉が開いた。
そこは、大聖堂のように高い天井を持つ広間だった。
中央に、大樹の根のように床から隆起した水晶の玉座。
王宮の地下深く、誰も知らない場所で脈打つ、迷宮の心臓。
その玉座に、一人の青年が腰かけていた。
宵闇を溶かしたような藍の髪。
整いすぎて作り物めいた、けれど確かに見覚えのある面差し。
そして、こちらを見た瞳――深い金色の虹彩に、術式に似た光の紋様が、静かに巡っている。
人のかたちをして、人ならざる気配をまとう存在。
けれど私の口から零れたのは、悲鳴ではなく、三年間封じていた名前だった。
「……リュカ、殿下?」
三年前、十九歳で「行方不明」となった第二王子。
国葬も出せぬまま、王宮の誰もが口にしなくなった名前。
私の魔導学の同期であり、たった一人、私の術式を「綺麗だ」と言った人。
青年は目を見開き、それから、泣き笑いのような顔をした。
「ああ――やっと来てくれた。三年間、君の魔力ばかり聴いていた僕の身にもなってほしいな、エルシア」
◇◆◇
リュカ殿下は、玉座から降りて自ら茶を淹れてくれた。
迷宮の最奥に応接卓と茶器がある時点で色々とおかしいのだが、指摘する気力はもうなかった。
「三年前の話をしよう」
殿下は静かに切り出した。
「王宮の地下には、古代の魔脈の結節点がある。建国の頃に封じられて、存在自体が忘れられていたものだ。それが三年前、限界を迎えた」
「限界……」
「封印の劣化だよ。僕は魔力視の体質だったから、兆候に気づいて父上と兄上に報告した。魔脈が暴走すれば、王都ごと吹き飛ぶと」
私は息を呑んだ。
そんな報告、宮廷の記録のどこにもなかった。
「兄上は言ったよ。『古文書の解釈違いだろう。大事にすれば民が怯える。それに、何かあってもエルシアの結界がどうにかするさ』と」
「――そんな」
「父上は半信半疑で、調査は先送りになった。だから僕は、一人で地下に降りた。応急の封じ直しくらいはできると思ったんだ。……甘かったけれど」
殿下は自分の胸に手を当てた。
その指先で、金の紋様が衣の下から淡く透ける。
「封印は目の前で砕けた。あの規模の魔力を止める方法は、一つしかなかった。――器になることだ。僕自身を核にして、暴走するはずだった魔力を『迷宮』という構造に編み変えて、循環させ続ける」
迷宮とは、澱んだ魔力が生む災厄だと教わってきた。
けれどこの迷宮は、逆だったのだ。
災厄を、飼い慣らすための檻。
この人は三年間、たった一人で、王都五十万の命を抱えて地の底に座っていた。
誰にも知られず。
行方不明という不名誉だけを、地上に残して。
「どうして、地上に知らせなかったのですか」
「核になった直後は、人のかたちを保つだけで精一杯だった。ようやく安定した頃には――」
殿下は少し笑った。
「地上の魔力がよく聴こえるようになっていてね。兄上が僕の部屋を早々に片付けさせたことも、僕の捜索より聖女の歓待に予算がついたことも、全部分かってしまった。戻る場所なんて、もうないと思ったんだ」
言葉が出なかった。
この人の三年間の孤独を思うと、自分の四年間など、と思いかけて。
「でもね、一つだけ、楽しみがあった」
殿下の金の瞳が、まっすぐに私を見た。
「毎晩、決まった刻限に、結界を巡回する魔力があった。丁寧で、誠実で、まるで祈りみたいな術式だった。年に一度は、王族の供給もなしに、たった一人で大結界を編み直す。……無茶をするたび、僕は地の底で、勝手に君の心配をしていたよ」
「見て、いたのですか」
「聴いていた、が正しいかな。三年間、ずっと。僕を人間の側に繋ぎ止めていたのは、半分以上、君の魔力だ」
――誰も見ていないと思っていた。
誰にも届かないと思いながら、それでも毎晩張り直した結界を。
命を削った、あの夜明け前の光を。
たった一人だけ、地の底で、ずっと聴いていてくれた人がいた。
視界が滲んで、慌てて俯く。
四年間、殿下に何をされても出なかった涙が、こんなところで零れるなんて。
リュカ殿下はしばらく黙って待ってから、そっと言った。
「昨夜の儀式も聴いていた。今朝、君の魔力が王宮から離れようとしているのも分かった。……だから迷宮に、少し無理を言って、君の通り道だけ入り口を開けさせた」
「道理で、都合よく見つかったはずです」
「うん、実は誘拐に近い。ごめん。……本当は君を引きずり込むつもりはなかった。あの頃の君には、地上での居場所も、兄上との婚約もあったから。けれど今朝、君がそこを去ろうとしていると知って――今だけは、手を伸ばしてもいいと思ったんだ」
そう言って、殿下は少しだけ困ったように笑った。
「エルシア・ヴェルメイユ筆頭魔導官。単刀直入に言う。――王宮から去るくらいなら、こちらで働かないか」
「……迷宮で、ですか?」
「僕の補佐として。君の力が必要なんだ」
殿下は広間の壁を示した。
燐光の中に、迷宮全体の構造が浮かび上がる。
「僕一人の制御では、循環しきれない魔力が年々増えている。迷宮が領域を広げているのは、そのせいだ。放っておけば数年で王宮を呑み、いずれ君の大結界とぶつかる。――でも、君の結界術があれば」
「……外周に調律結界を張って、余剰魔力を地脈へ逃がす。領域拡大を止めた上で、迷宮を安定循環に移行できる」
術式の構造が見えた瞬間、勝手に口が動いていた。
殿下が、心底嬉しそうに笑う。
「即答で正解を出す魔導官が、君以外にこの国にいると思うかい? 給金は王宮時代の三倍。住居つき、魔導研究は自由、命を削る単独儀式は禁止。雇用主は部下に仕事を押しつけて観劇には行かない」
「最後の条件が一番魅力的ですね」
「だろうね。……返事は、急がない。君はもう、誰かの都合で生きなくていいのだから」
その一言で、決まってしまった。
ああ、この人は分かっている。
私が欲しかったのは、地位でも給金でもなく、そういう言葉だったのだと。
「お受けします、殿下。――ただし雇用契約書は私が作成します。王族の口約束は、もう信用しないことにしておりますので」
「厳しいな。うん、それでいい。それがいい」
こうして、元・筆頭魔導官は、迷宮の主のもとへ再就職を果たした。
王宮を辞めたその日のうちの、あまりに早い転職だった。
◇◆◇
新しい職場は、快適だった。
朝、迷宮が私の起床に合わせて廊下を照らす。
調律結界を一枚張るたび、迷宮全体の魔力がやわらいで、壁の燐光が礼を言うように瞬く。
――働きが、目に見えて返ってくる。
王宮で四年、当たり前と黙殺され続けた私の仕事に、この迷宮は毎日、律儀に応えた。
魔物たちですら、通路ですれ違うと道を譲ってくる。
筆頭魔導官時代より、明らかに丁重な扱いだった。
「迷宮は僕の半身だからね。僕が君に感謝している分だけ、素直に出る」
と、雇い主は涼しい顔で言う。
その「素直に出る」の主語が迷宮なのか殿下ご自身なのか、時々分からなくなるのが困りものだった。
執務も、驚くほど噛み合った。
私が術式の設計図を広げれば、殿下は魔力視で欠陥を一目で指摘する。
殿下が循環経路の構想を語れば、私が数式に落として実装する。
魔導学の同期だった頃、図書室で夜まで議論した、あの続きのような日々。
「エルシア。ここの第七節、負荷が偏ってる」
「わざとです。偏らせた分を、こちらの増幅陣で――」
「ああ、なるほど。……やっぱり君の術式は、綺麗だ」
金の瞳が、術式ではなく私を見て言うものだから、羽根ペンを取り落としそうになる。
この雇い主は、三年間人間と話していなかった反動なのか、そういう言葉を息をするように口にした。
「今日の調律、見事だった」
「君が来てから、迷宮の底が静かなんだ。……僕も、よく眠れる」
「その髪飾り、術式の光と合うね」
一つずつは、些細な言葉だ。
けれど、約束を破られ続けた四年間と、当たり前を拾い上げてもらえる日々と。
どちらが人を生かすのか、私はもう、身体で知ってしまっていた。
(――いけない。これは、職場の雰囲気に絆されているだけ。そうよ、絶対にそう)
婚約解消から、まだふた月と経っていないのに。
私の心は、我ながら現金にできているらしかった。
◇◆◇
その報せが迷宮に届いたのは、再就職から二月ほど過ぎた、雨の朝だった。
「地上の結界に、穴が開いた」
朝食の席で、リュカ殿下が静かに言った。
金の瞳の紋様が、忙しなく巡っている。
「北の第三区画。君が残した結界の、更新期限が切れた箇所だ。ほころびから下級の魔物が市街に出た。死者はまだない。――けれど、王宮の対応が酷い」
「後任は、引き継ぎ資料を」
「読んでいないだろうね。魔導官長代理が三人、二月で辞めている。君の業務は五人分割されて、誰も全体を把握していない」
分かっていたことだった。
私一人に依存した体制の危うさは、何度も上申した。
そのたびに「君がいるから問題ない」と流したのは、他ならぬあの人だ。
「それから――これは、笑うところかもしれないけれど」
殿下は、地上から届いた報告書を差し出した。
「兄上は、聖女の浄化で結界の穴を塞ごうとした。結果、マリエル嬢の力の正体が、宮廷魔導院の観測に掛かった」
報告書に走り書きされた観測記録を読んで、私は目を疑った。
「……祝福特化。攻性・防性の対魔術式、いずれも構成不能。それどころか」
「そう。彼女の『祈り』は、高純度の魔力を対象に注ぎ込む力だ。傷を癒し、作物を実らせる。素晴らしい力だよ。――ただし、魔物に注げば」
「餌に、なる」
背筋が冷えた。
これまで彼女の「浄化」が成果を上げてきたのは、常に宮廷魔導院の討伐部隊が同行していたからだ。
そしてその討伐術式の大半を設計したのは、報告書の上では祈りの引き立て役だった、私だった。
「魔物は聖女の魔力に誘引されて、かえって市街に集まった。兄上は今、貴族院から追及を受けている。三年前の魔脈報告の握り潰しも、僕の目撃記録ごと掘り返されてね」
「掘り返され……誰にです?」
「僕に」
雇い主は、実にいい笑顔で言った。
「迷宮の主を三年もやると、地上への郵便くらいは工夫できるようになる。貴族院の良識派に、証拠を少々ね。――言っておくけれど、僕のための復讐じゃないよ。半分は」
「半分は?」
「半分は、君のための復讐だ」
悪びれもしない金の瞳を、私はしばらく見返して。
結局、笑ってしまった。
四年間、私の代わりに怒ってくれる人は、どこにもいなかったのだ。
地の底に、一人いたことを除いては。
◇◆◇
三日後、迷宮の入り口に、王宮の使者が立った。
使者――というには、あまりに見覚えのある金髪だった。
アルヴィス殿下は、供も連れず、雨に濡れて旧棟の階段の前に立っていた。
「エルシア。ここにいるんだろう。頼む、戻ってきてくれ」
迷宮の壁越しに、声が反響する。
私の隣で、リュカ殿下が「どうする?」と目で問うた。
会う義理はない。
けれど、逃げも隠れもする理由も、もうない。
私は入り口まで上がり、彼と向き合った。
二月ぶりに見る元婚約者は、ひどく痩せて、目の下に濃い隈を作っていた。
「エルシア……! 良かった、無事だったのか。まさか本当に迷宮にいるとは」
「ご用件を」
「結界だ。第三区画のほころびが広がっている。魔導院では手に負えない。君が必要なんだ。役職も戻す。給金も倍にする。だから」
「お断りします」
一秒も迷わなかった。
我ながら、清々しいほどに。
「な……ぜだ。王都の民が危険なんだぞ。君は、民を見捨てるのか」
ああ、この人はまだ、その言い方が私に効くと思っているのだ。
四年間、その一言で私に何もかも背負わせてきたから。
「民は見捨てません。ですから、今夜のうちに第三区画の応急封鎖の術式図を、宮廷魔導院に直接送付します。魔導官が五人いれば展開できる、誰にでも扱える形式で」
「な、なら」
「ですが、あなたの下には戻りません。殿下。結界のほころびは、天災ではありません。更新体制の構築を四年間怠り、警告を握り潰し、一人の人間に全てを負わせて『どうにかするだろう』と目を逸らし続けた――人災です」
雨音の中で、アルヴィス殿下の顔が歪んだ。
「わたしが去ったから穴が開いたのではありません。あなたが、私一人で塞がれていた穴を、四年間見ようとしなかっただけです」
「……マリエルのことを、まだ怒っているのか。彼女なら、聖女の位を返上することになった。辺境の療養院で祝福医療に従事すると――もう君の目障りには」
「殿下」
遮った声が、自分でも驚くほど静かだった。
「最後まで、お分かりにならないのですね。私はマリエルさまに負けたのではありません。あなたに、四年間、一度も見てもらえなかっただけです。……それだけの話に、聖女さまを言い訳に使うのは、おやめください」
そのとき、迷宮の入り口の燐光が、ふわりと明るくなった。
私の斜め後ろに、足音もなく、彼が立った。
三年ぶりに地上の光の下に姿を見せた、藍の髪の迷宮の主が。
「久しぶりだね、兄上」
「リュ……カ? 生きて――その、目は」
「僕の可愛い迷宮の話は、貴族院の召喚状で読んだだろう。それより兄上、うちの筆頭魔導官を困らせるのは、そのくらいにしてもらおうか」
リュカ殿下は、私の半歩前に立った。
守られている、と分かる立ち位置。
けれど私の前を、完全には塞がない立ち位置。
「彼女はもう、僕の補佐で、僕の迷宮の要だ。地上の尻拭いなら、正式な依頼として、対価を揃えて出直すといい。――ヴェルメイユ魔導官の雇用主として、法外な額を請求させてもらうけれど」
「ふざけるな、リュカ。お前、三年もどこで何を……今さら現れて、まさか王位でも狙うつもりか」
「王位?」
迷宮の主は、心底おかしそうに笑った。
「いらないよ、そんなもの。玉座ならもう持ってる。王都五十万の命を、足元から支え続ける地の底の玉座をね。これ以上の責任はご免だ。――王位は、貴族院と父上が決めることだろう。もっとも」
金の瞳が、すっと細められた。
「三年前、魔脈暴走の警告を『大事にするな』と握り潰した第一王子に、その資格が残っているかは、知らないけれど」
アルヴィス殿下の顔から、血の気が引いた。
それが、答えのすべてだった。
◇◆◇
一月後、国王陛下が直々に、旧棟の階段を降りてきた。
護衛は二人だけ。
迷宮の主が調えた応接の間で、老いた王は深く、頭を下げた。
王族が臣下に、まして地の底の息子に頭を下げるなど、建国以来なかったことだろう。
「リュカ。……すまなかった。お前の警告を軽んじ、三年間、探すことすら諦めた。この国はお前の犠牲の上で、何も知らずに眠っていた」
「顔を上げてください、父上。過ぎたことです。それに、僕は取引に応じてもらいたいだけです」
取引の内容は、殿下と私が二月かけて練り上げたものだった。
一つ。迷宮を王国公認の「魔力調律庁」とし、王都の地脈管理と大結界維持を正式な公務として委託すること。
一つ。相応の予算と人員、そして王宮側に二度と単独依存の体制を作らせないための監査権を認めること。
一つ。筆頭魔導官エルシア・ヴェルメイユの四年間の功績を、記録の改竄を正した上で、公式に認定すること。
「三つ目は、僕の個人的な絶対条件です」
と、殿下は涼しい顔で付け加えた。
私は隣で、書類を落としそうになった。
陛下は、すべてを呑んだ。
そして裁定が下った。
アルヴィス殿下は、三年前の報告隠蔽と魔導管理の怠慢の責を問われ、王位継承権を剥奪。
辺境の魔導研究塔で、十年の勤務に就くという。
皮肉なことに、その研究塔の日常業務の手引きは、私が四年前に書いた基礎資料だそうだ。
あの人は辺境の地で、私の書いた手順書を読みながら、初めて「誰かが当たり前に回していた仕事」の重さを知ることになる。
それでいい、と思った。
憎しみは、もうどこにも残っていなかった。
地の底の新しい日々が、あまりに満ちていたから。
◇◆◇
すべてが片づいた夜、リュカ殿下は私を迷宮の最上層へ連れ出した。
旧棟の屋上――地上と地下の境界に、彼の作った小さな庭がある。
迷宮の燐光を編んで咲かせた、光の花畑。
「調律庁の設立、正式に決まった。初代長官は僕。筆頭魔導官は、君だ。……肩書きが、元に戻ってしまったね」
「いいえ」
私は首を振った。
「同じ肩書きでも、まるで違います。ここでの仕事は、ちゃんと――見てもらえますから」
燐光の花が、夜風に揺れる。
殿下はしばらく黙って、それから、ぽつりと言った。
「三年間、地の底で、君の魔力だけを聴いていた。あの頃の僕にとって、君は毎晩昇る星のようなものだった。……でもね、エルシア。この二月で、困ったことになった」
「困ったこと、ですか」
「星は、遠くで見ている分には安全だったんだ。近くに来たら、駄目だった。君が朝の茶を淹れる音で目が覚めて、君が術式を組む横顔で一日が始まって、君が笑うと迷宮中の燐光が明るくなる。――僕の半身は迷宮だから、隠しようがない。この庭の花が咲いたのも、君がここへ来てくれた日からだ」
金の瞳が、まっすぐに私を見た。
人ならざる光の紋様を巡らせた、けれど誰よりも人間らしい、まっすぐな目が。
「愛している。三年分と、二月分。……僕は半分、人ではなくなった身だ。地上で君に約束できるものは多くない。それでも、一つだけ誓える。僕は生涯、君を一番にする。君の仕事も、君の時間も、君自身も――二番目に落とすことは、絶対にない」
ずるい人だ、と思った。
この人は知っているのだ。
私が四年間、豪奢な宝石でも甘い睦言でもなく、ただその一言だけを、ずっと待っていたことを。
「……一つ、確認させてください」
「うん」
「もし将来、私との約束と、迷宮の緊急事態が重なったら、どうなさいますか」
「両方取る。僕を誰だと思っているの。迷宮の主だよ。緊急対応しながら君との夕食に出られるよう、この三年で分体制御を覚えた」
「模範解答すぎて、逆に不安になりました」
「じゃあ、こう言い換えよう。――そのときは、君に相談する。勝手に決めて、笑って済ませたりしない。絶対に」
ああ、もう駄目だ。
降参の代わりに、私は自分から、彼の胸に額を寄せた。
迷宮の主の心臓は、人と同じ速さで、けれど少しだけ大きな音で鳴っていた。
「お受けします、殿下。――ただし婚約の契約書は、私が作成します」
「王族の口約束は信用しない?」
「ええ。……信用してしまいそうで、怖いので。せめて書面で、逃げ道を塞いでおきたいのです。あなたの逃げ道ではなく、私の」
頭上で、彼が息を呑む気配がした。
次の瞬間、私は光の花畑ごと抱きすくめられていた。
「――迷宮の主の求婚を受けた魔導官が、どうなるか知ってる?」
「存じません」
「僕も知らない。前例がないから。……これから二人で、作っていこう」
その夜、王都の人々は、大結界がひときわ美しく輝くのを見たという。
地の底からあふれた祝福の魔力を、筆頭魔導官の編んだ光の網が、王都の空いっぱいに広げたのだと――知る者は、まだ誰もいない。
◇◆◇
後日談を、少しだけ。
魔力調律庁は発足から半年で、王都の魔物被害を過去最少に抑え込んだ。
辺境から届いた某元王子の手紙(手順書三十七ページ目の解説を求める内容)は、開封されないまま資料室に整理された。
マリエルさまの祝福医療は療養院で本当に多くの人を救っているらしく、それについては、素直に良かったと思う。
そして私はといえば。
「エルシア、今日の調律も綺麗だった。それで、結婚式の術式装飾なんだけど、僕としては迷宮の燐光を全面的に」
「殿下。その前に、本日の決裁書類が三十二件です」
「……うちの筆頭魔導官が今日も厳しい」
「ええ。なにせ雇用主が、書類より口説き文句を先に寄越す方ですので」
地の底の職場は、今日も平和である。
かつて誰にも見られなかった私の仕事は、今、この国でいちばん深い場所で――世界でいちばん、大切に見守られている。
【了】
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。
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