二刀流の猛虎 タイガースの猛将 景浦将
戦前のタイガースにも大谷翔平に負けないクオリティを持つ、投打二刀流のスーパースターがいた。景浦将は戦争の犠牲にさえならなければ、巨人の川上哲治をしのぐ打撃人としてタイガースの黄金時代を築いていたかもしれない。
アメリカ球界最大のスターであったベーブ・ルースは、長らく保持していたMLB記録のほとんどを塗り替えられ、今日では、通算長打率と1921年度の得点および塁打数記録にその名を留めているに過ぎない。それでも彼が『球聖』と称えられているのは、その卓越した長打力のみならず、投手としても一流だったというまさに野球の申し子のような存在だったからである。
投手から野手に転向し、一流の打撃人として名を成した選手はメジャーリーグの中にも少なからずいるが、投打の両方で個人タイトルを手にしたのはベーブ・ルースをおいて他にない。
往年のタイガースの強打者景浦将は、ベーブ・ルースばりのフルスイングの迫力から『右のベーブ・ルース』と称されたこともあるが、景浦の凄さを例えるうえで忘れてはならないのが、本家と同様に投打で一流だったことである。活躍期間が短く、職業野球草創期の選手とはいえ、プロで「エースで四番」の重責を全う出来たのは景浦だけである。
これほどの選手であれば、少年野球時代から「エースで四番」が指定席かと思いきや、元は剣道少年で、運動神経の良さに目を付けられて野球部にスカウトされたのは、松山商業3年の時であった。しかも、当時の景浦は痩身短躯で性格的にもやや気弱なところがあり、後年の豪気な面影などみじんもなかった。そのせいか、彼がレギュラーの座を手にしたのは最上級の5年(旧制中学)になってからである。
長年剣道で鍛えただけあってリストの強さには定評のあった景浦は、身体の成長とともに見違えるほど逞しい身体つきになり、持ち前の強肩を生かして三塁を守る一方、木工所の経営者だった父親手作りの重い桜の木のバットを軽々と振り回すほどのパワーヒッターへと転身を遂げていた。昭和7年春の選抜で松山商業が優勝した時には五番、同年夏に準優勝した時には六番を打ち、時にはリリーフとしてマウンドに立つこともあったが、チームの主役はエースの三森であり、景浦は強豪チームの脇役の一人に過ぎなかった。それでも、夏の決勝戦で大会屈指の豪腕吉田正男(中京商)から二本の三塁打をかっとばしているあたりに、未完の大器の片鱗が伺える。
そんな彼の天与の才能が開花するのは、立教大学に入学した昭和8年春のリーグ戦で、投手兼外野手として久々の優勝に貢献した頃からである。このシーズンは投手としても4勝1敗の好成績を残したが、エースは後にタイガースで同僚となる菊谷だったため、定位置は外野だった。守備範囲はそれほど広くはなかったが、外野の定位置からホームまでストライク返球を難なくこなしてしまう鉄砲肩は六大学随一を謳われるほどで、他チームからは「景浦のところに外野フライが飛んだが最後、三塁走者がタッチアップから本塁生還することは不可能」と恐れられていた。
それにも増して凄かったのがその猛打ぶりである。裸になると仁王像のようだったというごつい体格(173㎝80㎏)の景浦は、利き腕の握力は80㎏を超え、りんごを握りつぶすことなど朝飯前。タイガース時代には、主将の松木と飲んでいる時にからんできた地回りをいきなりつかみ上げるや、頭から真っ逆さまにゴミ箱にぶち込み、ゴミ箱ごと肩に担いで最寄りの交番まで運んだほどの馬鹿力の持ち主だった。
グリップエンドを左の掌で包み込むようにして握るという独特の構えで1㎏を超える重いバット軽々と操れるのは、この腕力あってのことである。投球動作と同時にタイミングを合わせるかのようにバットを頭上で一回転させながらスイングに入るのが特徴で、遠くから見ている観客にも景浦の打席であることは一目瞭然だった。
身体をねじ切らんばかりに腰を目一杯回転させたスイングフォームは、まさしくベーブ・ルースばりで、フォロースルーのよく効いた打球はスピード、飛距離ともに日本人離れしていた。
当時の立大のグラウンド場外にはホームプレートから120メートルのところに小川が流れており、景浦はその対岸にある桜の木に打球をぶつけたという立大野球部史上に残る逸話を残している。それから二十数年後にそれを再現してみせたことから『景浦の再来』と騒がれたのが、立大の後輩にして後にミスタージャイアンツと謳われた長嶋茂雄である。全力で空振りした時の長嶋のスイングフォームは景浦と瓜二つで、この二人には不思議な縁を感じてしまう。
公式のリーグ戦でも10年秋の明大一回戦で神宮球場左中間上段に運んだ大本塁打によって、翌年から発足することになった職業野球のスカウト連中を色めき立たせた景浦は、東京六大学史上最大のスーパースター宮武三郎を彷彿させる長打力でたちまち人気選手となったが、家業がうまくゆかなくなった実家の借財を返済するため、3年で大学を中退してタイガースに入団することになった。契約金3900円は、東京の一等地に豪邸が建つほどの金額だった。
タイガース入団後の景浦は、『東の沢村、西の景浦』と並び称される職業野球草創期の二大看板として野球人気の立役者となったが、この二人は『投の沢村』対『打の景浦』の一騎打ちに留まらず、エース対決としても巨人・阪神伝統の一戦を大いに盛り上げた。景浦は『猛将』のニックネームが示すように、強打者としてのイメージが強いが、プロ入り当初は投手としても沢村に匹敵する逸材だった。それも、投手に専念していれば沢村を越えたかもしれないという声もあったほどだ。
南海の国久松一と並んで戦前最高の強肩と評されている景浦の遠投能力は110メートルを軽く超える。つまり、国久と景浦が揃えば、甲子園のホームプレートと外野フェンス手前でキャッチボールが出来るということになる。もし阪神・南海戦の試合前にこれを披露していれば、最高のアトラクションになったに違いない。
各チームとも選手層の薄い時期だけに、強肩の景浦を外野手に専念させておくのは宝の持ち腐れで、タイガース入団時も投手兼野手として登録されていた。本人にとっては余技のつもりだったかもしれないが、当時の野球中継に携わっていた志村正順アナから『スモークボール』と形容されたほどの豪速球を武器に、先発、リリーフとして活躍していたところが凄い。
チーム随一の強打者の景浦は、通常は三塁手か外野手としてスタメンに名を連ねていたが、わずか5~6球の肩慣らしで全力投球出来るという仕上がりの早さを生かして、自軍のピンチとなるとほとんど投球練習もせずにマウンドに立ち、それこそストレートだけで後続を片付けてしまう一流のリリーフエースであった。
職業野球が始まった昭和11年は、エース候補として景浦以上の破格の待遇で入団した法大のエース若林が不調だったため、景浦はローテーションの谷間に先発も務めていたが、当時の品質が悪く瞬発力の低い硬球では、沢村ほどの球速はないものの、球質の重い景浦のストレートを外野に飛ばすのは至難の業だった。
11年度の被安打率が‘128の景浦が同年に記録したWHIP(イニングあたりの出塁率)0.72は、令和5年に同じ阪神の村上頌樹が0.74まで迫ったものの、塗り替えることはできず(最終的にはセ・リーグ記録)、いまだに日本プロ野球記録となっている。短期シーズンとはいえ、6勝0敗、防御率0.79で防御率、最優秀勝率の投手二冠を獲得した景浦は、名実ともにタイガースのエースとなった。
エースという重責のせいか、プロ初年度の景浦は打者としてはあまり振るわなかったが、巨人とのプレーオフ第一戦で沢村の豪速球を捉えた一打は、洲崎球場の左翼席でワンバウンドした打球が、そのまま場外の東京湾に飛び込むというもの凄い当たりで、11年秋の最多勝投手にして被本塁打ゼロの巨人のエースも脱帽だった。
同年に韓国京城で行われたセネタース戦では、推定飛距離500フィート(158m)の場外弾を放っており、非公式ではあるが、この一撃が戦前のプロ野球の最長飛距離と見なされることが多い。
景浦が縦縞のエースの座にあったのは昭和12年春のリーグ戦までで、以後は控え投手としてローテーションの谷間に投げるだけで、もっぱら打撃に専念することになったが、12年春は防御率が沢村に次ぐ第2位でありながら、打撃ベストテンでも第4位を占め打点王のタイトルも獲得している。選手層の薄い時代とはいえ、投打で同時にベストテン入りした選手は景浦の他には、セネタースの野口二郎と巨人の藤本英雄しかいない。また、投打でタイトルを獲った選手となると景浦の他には野口明(名古屋・12年秋に最多勝、18年に打点王)がいるだけだが、彼は肩の故障で投手を断念した後に捕手となった選手であり、主戦投手とレギュラー野手を兼任していたわけではない。
ルースは数々の打撃タイトルの他に、投手時代には最優秀防御率のタイトルも獲得しているため、投打でタイトルホルダーとなった唯一のメジャーリーガーとなっているが、さすがに規定投球回数をクリアしたうえで打撃タイトルを獲得したシーズンはない(2022年の大谷は15勝、34本塁打で規定投球回数と規定打席を同時にクリアしたMLB史上初の選手となったが、投打いずれのタイトルとも縁がなかった)。
対する昭和12年度の景浦は、年間通算成績でも防御率、打率、打点の三部門でリーグ1位の成績を残しており、大谷を除けば、この記録に並ぶ選手は今後も出ないと思われる。
打撃に専念してからの景浦は、エース時代の12年春の打点王に続いて12年秋に首位打者、13年春にも打点王のタイトルを獲得し、投手タイトルを含めると入団以来四シーズン連続でタイトルホルダーになっており、戦前では巨人の主砲中島治康と並ぶ記録である。
二刀流景浦の活躍でタイガースは昭和十二年度、十三年度とプレーオフで巨人を撃破し、二連覇を達成したが、景浦の打棒は、天才にありがちなムラっ気の多さが災いし、以後の選手生活では実力を発揮できたとは言い難い。
例えば彼の売り物であった本塁打にしても、13年春と14年にいずれも一本差でタイトルを逃しているが、戦前の最多本塁打記録を持つ巨人の中島を上回る力量を持ちながら、一度も本塁打王になっていないというのは球界の七不思議でさえあるのだ。
戦前の通算本塁打数は中島が44本でそれに次ぐのは景浦の25本である。ところが、当時は両翼78メートルしかなく、一試合当たりの本塁打数が一本だった巨人のホームグラウンド後楽園に比べると、ベーブ・ルースを主将とする全米選抜軍でさえ一発もスタンドインできなかったマンモス球場甲子園(今日より広かった)は、14試合に一本の割合でしか本塁打が出ず、景浦にある程度のハンデがあったことは考慮すべきだろう。しかしそれ以上に景浦の足を引っ張ったのは、その気まぐれな性格だった。
基本的には目上の人間を立てる従順で律儀な男なのだが、気分が乗らないとそれがプレーにも出るため、職業野球の草創期における貢献度からして、野球殿堂入り間違いなしと見られながらも、選考委員の中からはその不真面目ゆえに反対の声も挙がったという。
外野守備ではヤル気のない時は打球を追わず、守備範囲の広い中堅山口に任せてしまうことがある一方で、打席でも報奨金が出る時やチームメイトと賭けをしている時は凄い集中力を見せるが、監督に対する面当てのように淡白なバッティングでファンを失望させることもしばしばあった。性格的に子供っぽかったのだろう。
景浦が球史に名を残すほどの活躍を見せたのは、昭和11年から14年までの四年間に過ぎない。15年の最初の応召時に軍で手榴弾投げの模範演技を散々やらされたあげくに肩を壊してしまったのだ。そのため18年の夏前に除隊して復帰した時にはかつての強肩の面影はなく、守備範囲も狭くなっていた。応召前とはうってかわって、景浦が三塁を守っている時は相手チームが三遊間を狙ってきたというから、さすがの景浦も自己嫌悪に陥ったことだろう。除隊後はあまり活躍できないまま、18年度のシーズンを最後に縦縞のユニフォームを脱ぎ、家業を手伝うために松山に帰郷した。
それでも18年末に後楽園で行われた東西対抗戦(今日のオールスター戦に該当)では、二試合連続ホームランをかっ飛ばし、有終の美を飾っている。
郷里松山に戻ったのも束の間、戦局の悪化により再度応召された景浦は、そのまま帰らぬ人となった。
景浦の晩年の姿は、フィリピン戦線に配属される前に満州に駐留していた時、仲の良かった同郷の力士前田山(当時大関)ほか何名かの元職業野球選手が目撃しているが、げっそり痩せて歯も抜けてまるで別人のようだったという。
昭和20年5月20日、フィリピンのルソン島カランブランで景浦の所属部隊は米軍に包囲され、身動きが取れなくなった。そこで危険を承知で食糧を探しに一人で出かけた景浦曹長は、機銃掃射を浴びて戦死したと言われるが、確かな証拠はない。
誰からも死に様を見られることなく姿を消したところは、ある意味“伝説の猛虎”らしいと言えるかもしれない。
肝いりの虎ファンなら景浦のことは御存じだろうし、それほど目新しい資料を提供しているわけではないが、大谷が平和な時代に思う存分プレーできることを思うにつけ、時代がそれを許さなかったがゆえに現代では滅多に語られることのない景浦のことも、先人として評価してもらいたいのである。