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7話 2人きりの夜、涙を見せた君

 カツンカツンと足音が反響する。横に見える講堂は、昼間と打って変わって静かであった。今まであまり見たことない姿に、俺はなんとなくテンションが上がる。


 本日は6月9日、時刻は7時20分。俺は今、校舎の3階にある自習室へ向かっていた。これまでの利用経験はない。最近勉強のやる気が出ないと千歳に相談したところ、「自習室使えば?」と言われたので、試しに行ってみることにしたのだ。


 教室の電気はほとんど消えていたが、各学年の自習室が並ぶ東棟の3階だけは、それぞれの教室が煌々(こうこう)と光を放っていた。下駄箱の中に靴を入れ、スリッパに履き替える。そして、真ん中にある2年の自習室の扉を、ガラガラッと開けた。


 扉の音に反応して、中にいる何人かがこちらの様子を伺う。知っている顔がちらほら見当たるな。2年の6月という微妙な時期なのに、勉強熱心なことだ。とりあえずウインクをしておこう。嘔吐のジェスチャーを返された。解せぬ。


 ぐるっと教室を見回して、自分の座る席を探す。知り合いに近いと話してしまいそうだから、できるだけ誰もいないところへ行こう。そう思い、端っこの方へ座った。


 よしっ、化学の問題をやろう。理論化学の液体の問題だ。この辺の範囲がマジでわかんないんだよな。蒸気圧降下だの浸透圧だの難しすぎる。


 応用問題に悪戦苦闘しながら勉強を進める。疲労が体と脳にのしかかり、瞼が重い。あくびを噛み殺しながらシャーペンを走らせる。文章読解、立式、計算、答え合わせ、文章読解、立式、計算――。






「――くん、七篠くん、もう21時だよー」


 声に反応し、ガバっと頭を上げた。あれっ、名前呼ばれた?というか、9時?いつの間にそんな時間経って?


 混乱する頭の中に、クツクツと笑い声が入り込んでくる。聞き覚えのある声だ。持っていたシャーペンを机の上に置き、声がする方へ顔をゆっくりと向けた。


「……どうも、弥生さん」

「うん」


 声の正体は、やはり弥生さんだった。彼女は相好を崩し、ポニーテールをゆらゆらと揺らしている。俺の反応がよほど面白かったらしい。


 ついでに周囲を見渡すと、がらんとした様子が目に入る。自習室には俺と彼女以外残っていないみたいだ。


「みんなはもう帰ったよ。自習室は21時までだから」


 俺の疑問に先回りするように、弥生さんが現状を説明する。時計を見ると、確かに9時を少し回っていた。どうやら俺は30分以上寝てしまったらしい。やっちまった。


「マジでありがとう。起こしてくれなかったら閉じ込められるところだった」

「いえいえ。でも、私が起こさなくても事務員さんが気づいたと思うよ」


 そそくさと机の上の勉強道具をまとめて、カバンの中に放り投げる。弥生さんは既に退出の準備をしていたみたいで、教室の電気を消しに行ってくれた。


「消すよー」

「オッケー」


 パチッとスイッチが押され、教室は暗闇に包まれた。3年の自習室からは依然として光が漏れ出ている。さすがだな。


「痛っ!」

「んふっ。き、気を付けてね」


 机の角に太ももをぶつけて、思わず悲鳴を上げてしまう。3年生に感心している場合じゃなかった。


 その後俺たちは、せっかくなのでと一緒に帰ることにした。万が一誤解を招くことがないように別々で帰ろうかと提案したが、別に大丈夫みたいだ。もしかしたら気を遣われたかもしれない。だけど、まぁ、そうだったとしたらご厚意に甘えるとしよう。この時間に女子1人で帰すのはあんまりよくないしな。


「自習室にはいつぐらいに来たの?」

「えーっと、8時前とかかな」

「それまで部活?」

「うん」


 弥生さんいわく、バレー部は8時くらいまで練習していたみたいだ。部活が始まるのは4時過ぎとかだから、ざっくり4時間やってるってことか。すごいな。


「……もう、新体制での部活、始まった?」

「うん、もう代替わりしたよ」


 バレー部は先日インターハイの県予選が行われ、決勝戦で敗退したらしい。どうやらレギュラーメンバーが直前で故障したらしく、全力を出せないままストレート負けを喫したみたいだ。

 それで、3年生はインハイ予選きりで引退するようだ。漫画だと春高に向けて3年が部活を続行したりするのを見るけれど、うちの高校ではそれはないらしい。仮にも進学校だからな。その辺は厳しいみたいだ。


「部長、選ばれたんだよね」

「うん」

「どう?やってけそう?」

「うーん……。まだわかんないかな」

「そりゃそうか。まだ一週間も経ってないからね」


 そして案の定と言うべきか、弥生さんはバレー部の部長に選ばれたらしい。やっぱり部活でもみんなから頼られているんだな。さすがだ。


 でも――。


「でも、大変だね。クラスでも委員長だし、部活でも部長なんだから」


 俺は少し踏み入った質問をした。


 弥生さんは俺から見て、少し無理をしているように感じた。彼女が直接的に言っていたわけじゃない。あくまで推論だ。外れているなら問題ない。


 ただ、実際問題この頃の委員長の仕事は増大していた。文化祭を1か月後に控え、クラス展示の準備が始まったからだ。期末テストも月末にある。そして新体制になった部活動。


 おそらく弥生さんは、すべてに対して全力で取り組んでいるだろう。少なくともクラス展示に対しては、クラスの誰よりも働いていた。今本人から聞いた感じ、勉強も部活も手を抜いているとは思えない。


 隣で信号を待っている弥生さんは、しかし、俺の言葉を聞いてニッと笑った。彼女があまりしないような表情。こちらの心配を吹き飛ばすような力強い笑みだ。


「全然大丈夫だよ。私、慣れてるし」


 夜間ゆえに、声の大きさは控えめだった。それでも、その声は芯のあるものだった。


 やはり杞憂だったか。まぁ、2か月関わった程度で本心を見透かそうだなんておこがましいことだしな。何はともあれ、元気なのが一番だ。


「それに、全部私がやりたいって言ったものだし。だから……」


 しかし、ふと彼女の言葉が途切れた。信号が青に変わり、車道の車が動き出す。そのことに弥生さんは気づいていないみたいだ。


 辺りは静まり返っている。車はしばらく通っていない。日中は元気な信号の電子音も、今はすっかり鳴りやんでいた。


「だから……」


 声が、絞り出すようなものへと変わっていく。弥生さんの顔は、だんだんと下を向いていった。まるで何かを隠すような、そんな動き。


「……ごめん。やっぱり、大丈夫じゃ、ない、かも」

「……そっか」

 

 彼女の声は震えていた。


 きっと、誰かにその苦しみを伝えるつもりはなかったのだろう。少なくとも、ここで俺に弱みを見せようとは思っていなかったはずだ。そのために、彼女は気丈に振舞おうとしていた。しかし、弥生さんを覆う仮面は、どういうわけか崩れ落ちた。


「……ごめんね。おかしいよね。自分でやるって言いだしたくせに」

「おかしくないよ」


 無意識のうちに、言葉を発していた。


 はっきりと否定されるとは思っていなかったのだろうか。弥生さんは思わずといった様子で顔をこちらに向けた。


 相談する時ってのは、自分の意見を聞いてもらいたいだけの時がけっこうある。だから俺は相談を受けるとき、なるべく自分の意見を出さないで聞き役に徹することにしていた。でも、それは否定させてくれ。


「全然おかしくないよ。自分でやるって決めたからって、つらいと思っちゃいけないなんてことは、絶対ない」


 弥生さんの顔を見ると、呆けたような表情をしていた。急に、今自分が言ってることは彼女が求めていない言葉なんじゃないかと不安になる。弥生さんは叱咤激励してほしかったんじゃないか。俺は余計なお世話をしているんじゃないか。


 しかし、その気持ちは胸の奥へとしまい込んだ。伝えるべきだと思ったなら、伝えろ。


「正直、相当面倒くさいよ、委員長。文化祭準備はやること多いし。インハイ時期に何でこんな資料作ったりしないといけないんだよって割と思ってる。期末も文化祭の2週間前とかだしさ」


 一呼吸おいて、言葉を続ける。


「だから、大変だよ、本当に。自分で選んだかどうかに関わらずさ、大変なことに変わりはないよ。少なくとも委員長に関しては、絶対に大変だと思う」


 大変、大変、大変。伝えたいという気持ちが前のめりになりすぎて、文章が怪しくなる。まとまってなくて不格好。自分の気持ちを伝えるなんて全然してこなかった弊害がもろに表れていた。でも、伝えたい。だからこのまま話すしかない。


「俺は、弥生さんが委員長になってくれて、本当に助かったと思ってるよ。弥生さんじゃなかったら、もっとグダグダになってただろうし、俺のやんなくちゃいけない仕事も増えただろうから。本当に感謝してる」

 

 事実、弥生さんが捌いてくれたおかげで楽になった部分はたくさんある。クラス展示の内容決めとか、俺は落としどころが分からなかったからな。だけど――。


「だけど、大変だったら遠慮なく頼ってよ。頼られても俺は嫌な思いなんてしないから。一度自分で決めたことだからって、無理しないでいいんだよ」


 ふっと息をつく。言葉を、気持ちを、吐き切った。伝わっただろうか。伝わってたらいいけど……。


 弥生さんは涙を溢れさせ、片手で目元を覆った。覆い切れていない口元から、荒い息遣いが聞こえてくる。ハンカチを差し出そうとしたが、ポケットには何も手ごたえがない。しまったな。ジャージには入れてないや。


 間抜けにも自転車かごに入れたカバンから制服を抜き取り、ポケットからハンカチとティッシュを取り出す。それを差し出すと、弥生さんはありがとうと言って受け取ってくれた。そしてそっぽを向く。顔を取り繕うみたいだ。


「ごめんね、気を遣わせちゃって」

「いやいや、全然大丈夫だよ」


 信号が何回か入れ替わるほどの時間が経ち、弥生さんの様子は元通りになった。第一声が謝罪とは、なんというか彼女らしいな。ちなみにハンカチは洗って返してくれるらしい。さすが。


「ありがとう、七篠くん。やっぱり、なんだか無理してたみたい」

「うん」

「無理してそうな雰囲気出てた?」

「うーん、いや、そんな風には見えなかったけど……。でも、弥生さんって心配しすぎちゃう人だなとは思ってたから、ちょっと聞いてみただけ」

「そっか」


 弥生さんの声は、なんというか、温かかった。いつもの凛とした鋭さがない感じだ。もしかしたら、普段から気を張っていたのかもしれない。


「でも、嬉しかったよ。七篠くんがこんなに気持ちを伝えてくれるなんて、思ってなかったから」

「……やっぱり変だった?」

「ううん。でも、意外だった。あんまり自分の気持ちを言ってるイメージがなかったから」


 ばれてたのか。気持ちを伝えたことがあんまりないってこと。


「その、なんというか、弥生さんにはちゃんと言わないとって思っちゃうんだよね」

「えっ⁉私ってそんなに圧あるの⁉」

「いやいやいや、そうじゃなくって」


 弥生さんが思ったより驚いたので、思わず苦笑してしまう。確かに俺の言い方だと、弥生さんに言わされてるみたいになっちゃうな。


 何で弥生さん相手には伝えたいと思ったか。それはまだ、俺の中でもはっきりとわかっていなかった。適当なことを言いたくなかったってのはある。でも、普段の俺ならここまでしなかったはずだ。


「ごめん、わかんないわ」


 おどけたように原因不明と言い放つ。俺たちは2人で顔を見合わせて、わけもなく笑いだした。なんでだろう。でも、まぁいいや。


 俺たちの進行方向の信号が、何度目かの青色を照らす。時計を見ると、時間は20分程経過していた。


「そろそろ行こっか」


 そう言ってペダルに足を乗せる。一度止まった俺たちは、再び前へ進みだした。

次回 8話 『君は信頼され続けてきた』

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