あなたの言葉に溺れたい
チャイナ・アスターが咲いた日に、この町の町長であるルーカス・グルーバー(Lucas Gruber)が突然倒れた。
町長の職務のひとつであり彼が一番好んでやっていた、町旗を掲揚したあとだったらしい。秘書が呼んだ救急車で、すぐさま病院に搬送されたことで一命は取りとめられたものの、それ以来、彼はベッドの上の住人となってしまっている。
「……もうすぐ六年、か」
ララ・オルソン(Lara Olsson)は、ルーカスの寝顔を見ながら、ベッドの横でため息まじりにつぶやく。
最初の二年間は、ずっと寝ていられないからと、ララが止めるのも聞かず、書類仕事をしたり副町長と秘書に指示を出したりしていた。次の二年間から、徐々に自分の力ではベッドから身体を起こすことができなくなり、ペンも持てなくなっていった。それ以降は、次第に他者との意思疎通も困難となって、ただ眠ったり起きたりを繰り返している。たとえ起きていたとしても、ずっと虚空を見つめていた。
入院三年目のとき、ルーカスは辞職願を提出する。彼が言うには、日に日に容態が悪化していくなか、その名前だけが町長の椅子に今後も座り続けることは、慕ってくれている町民たちに申し訳ないと思ったから、だそうだ。
そして現在、容態は安定しているとは言えず、いつ急変してもおかしくはないから覚悟しておくように、と医師は言う。
話しかけても反応を返してくれることはないが、ララは見舞いへ来るたびに根気強く彼に話しかけていた。
ララは同じ年数を重ねて皺が増えたルーカスの手を取り、トンツートントンとリズムをつけて軽く叩きながら、眠っている彼にささやきかける。
「何の夢を見ているの? 私のL――」
*
ルーカスが目覚めてまず思ったことは、見た夢の内容を覚えていないということだった。毎日夢を見るわけではないし時間が経てば忘れるのだけれど、起きてすぐは見た夢の内容をいつも覚えていた。
あくびをしながらベッドから出て身支度を済ませる。まだ少し眠いが、勉強をするために起きなければならない。
ダイニングルームに行くと、朝食の支度をしていた母が、手を止めずに静かに言った。
「おはよう。昨日、お隣に新しい人が引っ越してきて少し話したけど、もうすぐ挨拶に来られるそうだから、ルーカスもご挨拶しなさい」
「おはよう。わかったよ」
茹でた卵に衣をつけて揚げた、母特製の朝食を食べてしばらくした頃、男の人と女の子が訪ねてきた。
「昨日、隣に引っ越してきました、オルソンです。こっちは娘のララ。さっそく明日から、学校に通わせようと思っています。これからよろしくお願いします」
母が笑顔でにこやかに言う。
「こちらこそ、よろしくお願いします。このアパートメントには、うちのルーカスと同い年の子がいなかったから嬉しいです。この子、友達が少ないから仲良くしてやってね、ララちゃん」
「はい、もちろんです。よろしくね。これ、あなたにあげる」
そう言って元気よくララがルーカスに渡したのは、花だった。
アパートメントの前にある花壇の水やりだけはいつもしていたけれど、植木鉢に入った花のきちんとした世話の仕方や、この花の名前はわからない。あとで調べてみようと思い、頭の片隅に記憶する。
花をくれた女の子の、微笑みと長いブロンドが風と戯れていてきれいだと、ルーカスは思った。
ララは、明朗快活な少女だった。その言葉通り、明るく元気がよくてハキハキとしていたから、すぐに友達ができていた。彼女と違いどちらかと言うと陰鬱で、新学期に友達作りの波にうまく乗れなかったルーカスとしては、正直なところ羨ましい。
次の休日に町を案内してほしい、とララに頼まれて、ルーカスはひと通り町を案内することになった。
肉屋や魚屋、公園、その他公共施設などを巡り、最後に町役場へ行く。町の規模に合わせてそれほど大きくはないけれど、ルーカスは以前とてもお世話になったことがある。
「何か困ったことがあったら、ここに来るといいよ。ここの人たちはみんな力になってくれるから」
「わかった。あれは町の旗?」
ララが町旗を指さす。ルーカスはララとフラッグポールへ近づく。太陽がまぶしくて、目の前に手をかざしながら上を見る。今日も変わらず旗はそこにあった。
「うん。代々の町長の仕事で、毎日欠かさず掲揚するんだ。町長に事情があって掲揚できないときは、副町長とか代わりの人がやるんだよ。町民が亡くなったら、半旗が掲揚される」
この町ができるときに、初代町長がそう決めた。町の中心にあるこのフラッグポールは、以来変わらずここに鎮座している。
ララを促し、ルーカスは公園へ戻る。公園内にあるベンチに座り、少しの間休憩する。
「今日はありがとう。この町のこと、好きになれそう」
「それはよかった」
それからルーカスたちは様々な話をした。ララがこの町に来る前に住んでいた、ここより北にある場所のこと。お互いの趣味のこと。
現在ララはガーデニングに、ルーカスはモールス符号を覚えて使うことに熱中していた。今度、ララはルーカスに花の世話の仕方を、ルーカスはララにモールス符号を教える約束をする。
その流れで将来の夢の話になった。ルーカスには夢がふたつある。ひとつは建築士になることで、母も応援してくれている。でも、もうひとつの夢はいかにも子どもじみていて、今よりも小さかった頃、母や同級生たちに一笑に付されたことがあった。でもララなら、話しても真剣に聞いてくれそうな気がした。知り合ったばかりだからこその淡い期待だけれど。
「この前、将来の夢を話す授業があったよね。そのとき僕は建築士になりたいって言ったけど、実はもうひとつやりたいことがあるんだ」
「それはなぁに?」
「もうひとつはね、この町の旗を掲揚したいんだ」
「つまり、町長になりたいってこと?」
首をかしげながらララが聞いてくる。
「うん、そういうことになるね。毎朝旗を掲揚して、町とみんなの一日のはじまりを間近で見てみたいんだ」本当に子どもっぽい夢だよね、とルーカスは頭をかいて苦笑いする。
「あなたなら、どちらの夢も叶うのじゃないかな、きっと。出会ってまだ日が浅いけれど、そんな気がする。私は応援しているよ」と言って、子どもじみた夢でも笑わないで真剣に聞いてくれたララ。
彼女は勉強からスポーツまで、何でもこなしている。男子に混じってサッカーをして、ゴールを決めていた。多才なララをルーカスはもちろんのこと、クラスのみんながすでに一目置いていた。
そうした心の声が、いつの間にか漏れていたらしい。身体を相対させながら、ララが反論する。
「そんなことないよ。明るいだけじゃ、どうにもならないこともあるし。それにルーカスは、建築士と町長というふたつの夢を目指してしっかり勉強を頑張っているじゃない。人間、文武両道がいいからって父に言われて、将来のためにと思って色々なことをやっているけれど、どれもこれも中途半端にかじっているだけの私とは大違いだよ。将来の夢なんてまだないし」
ララの言葉を聞いて、今頭に浮かんだことをルーカスはそのまま言う。
「ほんの少しだとしても、色々なことができるのはすごいよ。僕なんて、スポーツとかはからきしダメだし。たくさんのことをやるうちに見えてくるものや合わさるものがあって、ひとつの道になっていくんじゃないかな」
ララがまじまじとルーカスの顔を見つめてくる。何か顔についているのだろうか。
「どんな子かなぁって考えていたの。新しい家の隣には、私と同い年の男の子がいるって父が言っていたけれど。いじわるな子だったりしたらいやだな、って思っていて。でも引っ越してきた当日、新しい家の窓から外を覗いたら、ひとりの男の子が花壇の花に水をやっていたの。隣の家の子だな、ってすぐにわかった。花を大切に思っていることはその表情や仕草を見ていたらわかった。だから、マネッティアの花を買って渡したの。その花言葉のとおり、たくさん話しましょう、という願いを込めて」
そう話すララの横顔は、夕日に見つめられていて、その相貌は光と影に彩られていた。
*
自らが勢いよく息を吸う音で、ララは目を覚ました。いつの間にか少し眠ってしまっていたらしい。身体が今にも椅子から落ちそうになっていたので、腕を使って座りなおす。
その拍子に、かけられていたブランケットが肩からずり落ちた。手にした見慣れた病院のそれは、ルーカスの具合を見に来た看護師がかけてくれたようだ。
斜め上を見ると点滴が交換されていた。おそらく、いつもの若い男の子だろう。あとでお礼を言わなければ。
ほぼ毎日ルーカスのお見舞いに来ているので、医師や看護師たちとはすっかり顔なじみになっている。件の男の子は――もう二十代後半らしいが、ララからすると十分に男の子と言える――再会した頃のルーカスに似て、静かな目で周りを見て、よく考えてから話をしていた。
ルーカスを見ると、彼は目を覚ましていた。
「おはよう、ルーカス。何の夢を見ていたの?」
陽気にララはルーカスへ話しかけるが、反応が返ってくることはない。元気なときの姿を知っているだけに、筆舌に尽くし難い。
「こんなことになるなら、一緒になればよかったかな、僕のL」
入院してしばらくしたある日、ルーカスが弱々しい笑みを浮かべながら言ったその言葉が、ララの脳裏に浮かぶ。
ふたりともずっと、心のなかでわかってはいたが、なんとなく避けてきた話題だった。
「前にも言ったけれど、私はもう誰とも一緒になる気はないのよ。この関係性にはっきりとした名前なんてつけなくても、それで私たちの関係が変わることはないでしょう?」
ルーカスの髪をツーツーと撫でながら、ララは諭すような口調で優しく話す。
「それに、私はただ、月を眺めているだけで満足なの。目の前に、どこへも行かない月があるって、わかっているだけでいいの」
ルーカスは、とても大事なことを打ち明けるような声音で言った。
「ああ、そうだね、ララ。僕もだ。太陽はどこにいても、あまねく世界を照らしている。それを、独り占めしてはいけないね」
最初で最後の言葉遊びのような掛け合いは、それで終わりだった。
ララはふっとカーテンが開けられている窓の外を見る。歳を重ね身体の節々が時折痛んでくるが、目と耳だけは加齢に伴って悪くなることはなく、よい状態を保っていた。
ルーカスの病室から、たなびく旗は、よく見えた。
町旗は、現町長――前の副町長――が今は掲揚している。
この町がある限り、あれは太陽に焼かれ雨風にその身を晒しながらも、町民たちを見守り続けることだろう。
旗を見ているといつもルーカスを思い出す。フラッグポールのようにまっすぐで何事にも芯が強かったが、それでいてときに旗のようにゆらゆらとして、周囲との調和を保たせていた。
こんな、雲ひとつなく太陽が照りつけるだけの日は、彼と再会したときのことを思い出す。
*
ララはそのとき、自宅で遅めの朝食を作っていた。
玉ねぎをみじん切りにする。目がしみて涙が出てきたのでタオルで拭う。次によく洗い水気を拭いたジャガイモ、ソーセージと豚肉もサイコロ状に切る。それからフライパンにバターを敷き、切った材料をそれぞれ塩と胡椒で炒める。少しだけ、味見と称してつまみ食いをする。うん、おいしい。少し作りすぎた気がするけれど、明日また食べればいいかと思い、炒め終わったそれらを二枚のお皿に盛り付ける。空いたフライパンで目玉焼きをひとつ焼く。今日は少し半熟にしよう。焼けた目玉焼きを、先ほど盛り付けたお皿の上にひとつ乗せパセリを添えれば、完成だ。
おいしそうな匂いに、早く欲しいとお腹が主張する。さっそく食べようとしたそのとき、来客を知らせるインターホンが鳴った。
「はーい」
名残惜しいがララは玄関へ行く。このアパートメントは古くて、壁は薄いしドアは開けるのに少しコツがいる。
ドアを開けると、外に背の高い男性が立っていた。
「昨日、隣に引っ越してきました、グルーバーです。よろしくお願いします」
まるで、鏡を見ているかのようだった。いつかの自分の姿を映し出す鏡を。
「私は、オルソンです。ララ・オルソン。こちらこそ、よろしくお願いします。……あの、違っていたらごめんなさい。もしかして、ルーカスじゃない? あなた、ルーカス・グルーバーでしょう」
自信がなかったけれど、半ば確信を持って目の前の男性に尋ねると、彼は相好を崩した。
「やっぱり、君だったんだね、ララ。昨日、引っ越し作業中に見かけてね。雰囲気でもしかしたら……って思っていたんだけど。よかった、また君が隣で」
ルーカスは、最後に見たときと容姿が変わっていた。それもそのはず、ふたりともあの頃はまだ十代で若く、今はもう三十代も前半だった。
「久しぶりだね、L。元気だったかい」
懐かしい呼び方を十数年ぶりに耳にして、子どもだった頃の記憶が一瞬蘇った。互いに名前のイニシャルが同じだから、ララたちは時折そう呼び合っていた。
元気だと伝えようと口を開きかけたとき、ララのお腹が鳴った。
顔から火が出る。まさかこのタイミングで、十数年ぶりに再会した人の前で、自分のお腹が鳴るとは。
「――ご存じのとおり、私は元気。あなたは?」
「元気だよ。僕のお腹が鳴ったかと思ったよ、実はまだ何も食べていなくてね」
笑いを含んだ目と声でルーカスは答えた。
それをきっかけにして、十数年空いた距離が縮まった気がした。
「あなたさえよければ、今から私の家で、ご飯を一緒に食べましょう」
いいのかい? と彼は片眉を上げた。
「少し作りすぎちゃったから、食べてくれると嬉しいの」あなたの口に合うかわからないけれど、とララは言いながら、月のように優しい人を家のなかへ招き入れる。
幸いにして、作った料理はまだ冷めてはいなかった。
ルーカスの分の目玉焼きを作り、並べていたお皿のひとつに盛り付け、ふたりで食事をした。
食事のあとはルーカスが入れてくれたコーヒーを飲みながら、これまでの来し方について、空いた隙間を実際に埋めるかのようにたくさん語り合った。
ルーカスは語る。進学のためにこの町を離れて、建築士になる勉強をし資格を取得。卒業後就職し、経験を積んだのちに、数年前独立したそうだ。この町で仕事の依頼があって帰ってきた、などと話した。
次にララが語る。仕事でこの町に立ち寄った人と結婚して町を出たものの、三年で失敗しその後町に戻ってきたと話した。たくさんの理由が重なった結果だけれど、家にいることを望むかつて夫だった人と、外で働きたかった自分とでは、たった三年でも持ったほうだろう。若気の至りだったと、今では思っている。
過去にやっていた色々なことが役に立ち、今は様々な場所でそれを活かす仕事をしていて、それが楽しいしもう結婚はこりごり、と肩をすくめながらルーカスに話すと、彼は笑った。
「僕もだよ、仕事が恋人って感じかな。まだもうひとつの夢も叶えられていないしね」
「町長になるって言っていた話?」
ルーカスがコーヒーを一口飲む。
「覚えていてくれたんだ。そう、今は本業に集中する時期だと思って、充電中および準備中だけどね」
「何か手伝えることがあるなら、言ってね。前に言ったでしょう、応援するって」
「ありがとう」
ララは、カップに残っていたコーヒーを飲み干す。
ややあって、ルーカスは隣へ帰って行った。
帰り際、次の休日に散歩がてら町を案内してほしい、とルーカスに頼まれた。この十数年で変わったものが何か知りたいから、と。
あのときのルートをもう一度辿ろう、とララは思った。
変わらないものもあれば、変わったものもある。肉屋や魚屋は食料雑貨店としてひとつになり、公共施設は無くなったり、新しくできたりしている。
変わらないものの筆頭としては、やはり町旗だ。フラッグポールは、老朽化により新設されたが、それでも変わることなく旗は毎日掲揚されている。
変わらないものは、もうひとりいた。
ララは、さっきルーカスがくれたオレンジ色のガーベラを見つめる。テーブルに置いているだけだけれど、周りを明るく照らすように咲いていて、とてもきれいだ。
「変わらないものは、私も同じか」
ララは苦笑し、椅子から立ち上がり、ルーカスがいる側の壁へ歩いて行く。
そして、昔もよくやっていたように壁越しに合図を送る。トンツートントン、と。
すると、返事がきた。ララは再び指でリズムをつけて壁を叩く。
今日、夕食も一緒に食べましょう、と。
*
ルーカス・グルーバーは、薄れゆく意識のなかで思っていた。
ひとりの例外もなく、人間はいずれ死に至るが、それに赴く瞬間は一体何を思っているのだろう。何を考えているのだろう。夢を見るのか。自分の人生を回想し、走馬灯を見るのか。
いずれにせよ、愛しい人に永遠の別れを告げなければならない。それはとても、悲しいことだ。どうしようもなく。
ああ、愛しい人が泣いている。自分の手で触れて、慰めることができないのは悔しい。まだ一緒にいたかった。どうか、泣かないで。心配しなくても、きっとまた会えるさ。だからそれまで待っていてほしい――。
チャイナ・アスターが咲いた日に、この町の町長であったルーカス・グルーバーのために半旗が掲揚された。
『アンソロジ光』(2019)寄稿作品
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