タバコの香り
「いらっしゃい」
軽いドアベルの音とともに深い渋みのある声が私を迎える。
レトロで落ち着いた店内に流れるシックな音楽。お昼の繁忙期を過ぎているためか店内はガラガラで、テーブル席に数人いるのみ。
そこで、私は誰も座っていないカウンター席へ。
微かに白髪が混じった黒髪をきっちりと撫でつけ、整った顔立ちは年齢を重ねた大人の男の雰囲気が漂う。広い背中に、しっかりとした体躯。そこに、清潔感が漂う白いシャツに黒のベストと腰エプロンは妙な色気も。
大きな手で水が入ったグラスを置きながら、私を見て目を細める。その目尻には軽いシワ。
その笑みにドキリとしながら私はメニューに目をむけて訊ねた。
「あ、あの、本日限定ランチ、残ってます?」
オフィス街でも隠れ家的なこのカフェは知る人ぞ知る場所。味も値段も手ごろで、特に本日限定ランチは争奪戦。お昼をとっくに過ぎたこの時間だと残っていない。
それでも、ダメ元で訊ねると意外な返事が。
「あるよ。休みの日に多めに下ごしらえしておいたからね」
驚きとともに顔をあげると、そこには悪戯をした子どものような笑顔を浮かべるマスターが。
「美玖ちゃんは毎日きてくれる常連さんだから。それに最近は忙しそうだったし」
高い位置にあった顔がカウンター越しに近づく。
「他のお客さんには内緒だよ?」
そっと耳元で囁かれた言葉と、僅かなタバコの匂いに私の顔は熱くなる。
(あぁ!!!!!!!!! 最高の癒しボイスを、ありがとうございますぅぅう!!!!!!!!)
私はマスターが背をむけたところで、しっかりと悶えた。
~
薄暗い夜のオフィス街。土曜日なので、余計に人の気配がない。
そんな場所に私がいる理由は、昼に仕事のトラブルで呼び出され、ついさっき終わったから。さっさと家に帰るために駅へむかっていた……のに。
(なんで、こんなことに……)
近道をしようと裏路地を通ったのが間違いだった。
「一杯だけだからさ」
「明日は休みなんだろ?」
私はガラの悪い酔っ払いに絡まれていた。
カラーリングに負けたパサパサ金髪で無駄にピアスを多くあけた二人組。顔を赤くして、酒の臭いをさせながらウザ絡みしてくる。
裏路地の先にはネオンが輝く繁華街。そこへ私を誘導しようとする。
「あの、私は帰るので……」
「そんなこと言わずにさぁ」
男の一人が私の腕を掴む。
「ちょっ、離し……」
慌てる私に耳に不機嫌な低い声が触れる。
「嫌がる女の子に無理やり手を出してるんじゃねぇよ」
「はぁ!?」
怪訝な声とともに男たちが振り返る。
そこには、ボサボサ頭で無精髭を生やし、タバコを咥えた中年男が。
「おっさんが正義の味方気どりか?」
男が私から手を離して中年男に詰め寄る。
しかし、中年男は怯む様子はなく、黙ったまま無言で見下ろしており。
「なんか言え!」
金髪男の怒鳴り声にも無言。
長い前髪の隙間から鋭い眼光が浮かぶ。
指一本動かさず、タバコから白い煙がくゆりと上るのみ。空気が重く、嫌な緊張感が漂う。
ピリピリと刺すような気配に、二人組の足がジリジリと下がり……
「チッ、口だけのおっさんがウザいんだよ」
男たちが負け台詞を吐きながら去っていく。
まさかの展開に呆然としていると、中年男が踵を返した。
そのことに慌てて声をかける。
「あ、あの、ありがとうございました」
私の声にピクリと肩が跳ねたが、そのまま振り返ることはなく。
「……帰らないのか?」
ぶっきらぼうに言われたが、よく見れば中年男が足をむけているのは駅の方で。
「か、帰ります!」
中年男の半歩後ろを歩く。
無言のまま駅へ向かうが、沈黙が気まずいため何とか話題をひねり出す。
「お、お仕事帰りですか?」
「……あぁ」
ぼさぼさの黒髪に無精髭という風貌の割に、服はシワ一つないカラーシャツに黒のスラックスという、どこかアンバランスな感じ。しかも、よく見ればイケメンというかイケオジな顔。
それからも、いろいろ話しかけたが返事は少なく会話が続かない。
話のネタが尽きてきたところで駅が近くなり、人が増えてきたところで、中年男が足を止めて私に声をかけた。
「ここでいいだろ」
これだけ人がいれば、下手に絡まれることもないだろう。
私は慌ててもう一度頭をさげた。
「ありがとうございました」
軽く手を振って来た道を戻っていく中年男。それはカフェがある方向で。
ここで、ふと広い背中に既視感を覚えた。
「……あれ?」
カフェはオフィス街で働く人を相手にしているため、客が少ない土日祝は定休日。そして、私が絡まれたのはカフェの近くの裏路地。
しかも、休みの日には料理の下ごしらえをしていると話して……
「まさか」
遅れて漂ってきたタバコの香りが鼻をくすぐった。
~
「いらっしゃいませ」
月曜日の昼。
恐る恐るカフェのドアを開けると、いつものように深い渋みのある声に迎えられた。
妙にドキドキしながらカウンターの席に座る。
「あ、あの本日限定ランチありますか?」
私の問いにマスターが笑顔で答える。
「あるよ」
「じゃあ、本日限定ランチをください」
「少し待ってね」
穏やかな声に、優しい会話。うっとりと癒される。
(土曜日のぶっきらぼうな人とは違うよね)
うん、うん、と一人で納得していると、水の入ったグラスが置かれた。
(……ん?)
大きな手が引っ込む瞬間、微かに感じたタバコの香り。それは、ぶっきらぼうな中年男と同じ匂いで。
「……まさか?」
キッチンの方へと歩いていく広い背中を呆然と見つめた。
~その裏では~
水を出した後、本日限定ランチを準備しながら、こっそり女性の様子を覗き見するマスター。
「……あの時は休日で髭を剃っていなかったし、髪もボサボサだったから焦ったが、意外と気づかれないもんだな」
そう呟きながらランチの仕上げをしていく。
若い頃にいろいろあったが、今はのんびりとカフェをしている。たまに昔の関係の仕事が舞い込むため、土日祝日は自由に動けるように店を定休日にしていたりと、ちょっとした謎のあるマスターだった。