後悔にある価値
日本語練習用で書いたエッセイです!(⌒▽⌒)
時間があるからこそ私たちは存在し、しかしその価値は人それぞれ異なる。
それを一分たりとも監視しないことのない人とそれを空気のように思わない人はいると言うまでも無いが、それはどうしてか?
人には未来を操る力を持っている。それが全部操れるわけがなくとも、その力の程度は個々に異なるとしても、人類はポテンシャルの意味を知っているはずだ。
ただ、皆はそれをちゃんと理解しているわけではない。それを理解している人と理解していない人の違いを区別するのは難しくはない。
目立つのは時間の使い方。
12歳のとき、卓越に鍛えた体はかっこいいと思って学校が終わる前18歳を締め切りに、運動し始めている。このエッセイを書いている時期、もうすぐ高卒になる。夢に近づきているが、想像したのは以下の体躯。
努力したことは足りないのだと自分を責めているわけではない。過去のことは仕方がないんだからね。でも正直に言うと、真剣にしていなかったんだよ。真面目だったら今はもっとのはずだと思う。
どうして真剣ではなかっただろうと思い巡らすところ...自分のポテンシャルはわかっていたけど、それだけでは足りなかったのだという事実が、遠慮がまったくなく拳を握って私の顔を強く殴った。
ポテンシャルをあまり信じなかった。
それがきっかけで、時間の無駄使いは良くないと思っていても、本当のこと、少しでもご機嫌悪かったら言い訳でずっと嘘をついていたんだ。
私の時間は嘘を肯定するために使っていた。
私の時間の価値は嘘に基づいてきた。
私の存在は嘘で成り立ってきて、「私」の意味もだ。
その嘘を見透かした今の私は思うだけで疲れるほど後悔している。時間を無駄にしなかったら今はきっとより上の位置に立っているのだろうと。
でも、ひとつのことに気づいた。
時間の無駄使いは良くないだけでなく、後悔するべき。
しかしそれ以上に、後悔しているからこそ時間の無駄をしないから後悔することをちゃんと大事にするべきだ。
未来を操る力を知っていた私は、存在にある価値をわかっていたが、信じていなかった。それを全然知らなかったとしたら...一体生きることには意味がちゃんとあるのか?
「自分はこんなすごい人になれるのに知らなかったから、
意味あることは何もしなかった。」
そういう野望のない人の人生には、意味はなく、ただ水の流れに続く。生きる意義が薄すぎて、ただ存在するだけでは満足できないだろう。
今の私は、何かをする際にストップウォッチを付ける。理由は聞くまでもないのだろう。