太っちょ貴族はグラシエと談義する
幼い子どもたちは礼拝堂で聖歌を歌っていたが、年長の子らは中庭に広げた布に座り、空を天井にしてサフランの授業を受けていた。
何度も書かれた文字が消え切らずに残っているような使い込まれた黒板に、聖書の一節を書き記し、その読み方や意味や解説している。
「ねえねえ、ミトロフって、グラシエおねえちゃんのかれし?」
ミトロフがやってきたことで、幼い子らは歌うのをやめてミトロフの周りに取り付いている。
子どもたちに混ざって授業を受けているミトロフに、隣に座った少女が耳打ちをした。片方の目を隠すように長く伸びた前髪と、好奇心にきらきらと輝く丸い目が特徴な子である。
「いや、友達だ」
「えー、ちがうの?」
「……その、なんだ、グラシエは、なにか言っていたか。ぼくのことについて」
「うん。言ってたよ。しりたい?」
「……そ、そうだな。参考までに聞いておくのもいいな」
「はい」
と、少女は手のひらを差し出した。ミトロフが首を傾げると、にっこりと目を弓なりにする。
「じょうほうりょう」
「情報料だと? タダで教えてくれるんじゃないのか?」
「ただほどたかいものはないんだって」
「むう……その歳でよく社会を知っているな……分かった。砂糖菓子をひとつでどうだ」
「みっつ!」
「それは吹っ掛けすぎだろう! ふたつで我慢してくれ。ぼくだってなかなか買えないんだぞ」
「ミトロフ、びんぼうなの? かなしいね……」
「ああ、悲しいんだ……」
「おぬしはなにを幼子と分かり合っておるのじゃ?」
「うおおっ!」
顔を寄せ合っていたところに、急に背後から声をかけられ、ミトロフは尻を浮かせるほどに驚いた。
慌てて振り向けば、ミトロフの大袈裟な反応にきょとんとした表情を見せるグラシエが立っている。
「いや、なんでもない。ああ、なんでもないとも。なあ?」
「うん、なんでもないよ! わたし、わるいことなにもしてないもん!」
グラシエは訝しそうにミトロフと少女のふたりを見つめた。
「なんじゃおぬしら、急に仲が良いのう……なにを話していたのか、わしにも教えてくれぬか」
「それは秘密だ。なあ」
「うん、ひみつ。じょうほうとりひきはしられちゃいけないんだから」
「情報取引?」
グラシエはきょとんと目を丸くした。
ミトロフと少女は顔を見合わせて頷き合った。生真面目なグラシエにバレると大変である、という見解は一致しているらしい。
「あ、グラシエだ! ってことはおやつ!?」
コウが声を上げた。おやつという言葉に子どもたちは火がついたように歓声をあげた。
「先生! おやつ!」
「おなかすいた!」
子どもらが思い思いに叫び、サフランは和やかに笑う。
「出来立てがいちばん美味しいからね。おやつをいただこうか」
そのひと声にやったー、と歓声が上がる。しかし年長の子が声を掛ければ、素直に従って立ち上がり、声を合わせて「サフラン先生、ありがとうございましたー!」と礼をした。
行儀が良いのはそこまでで、顔を上げれば我先にと教会の中に走っていく。
「騒々しくてすまんぬのう」
苦笑するグラシエに、ミトロフは真面目な顔で答える。
「美味いおやつを前にすれば当然のことだ。ところでぼくの分もあるかな?」
冗談とも本気ともとれる言いように、グラシエは思わず吹き出した。
「やれやれ、おぬしはまったく、面白い男の子じゃのう。おぬしが残していった銀貨で小麦と砂糖が買えたでな。感謝する。遠慮なく食べていくと良い」
「銀貨? 記憶にないな。食事が美味すぎて財布からこぼれ落ちたのかもしれない」
「戯れを言う」
ふふ、と笑みをこぼすグラシエの柔らかな視線がやけに気恥ずかしく、ミトロフは顔を逸らした。戦闘でもないのに鼓動が早くなり、背中に汗が浮かんでいるのが自分でも分かった。まったく、奇妙な現象である。
。
サフランのもとに、年長の子どもばかりが三人残っていた。真剣な様子で何かを訊ねている。サフランはひとりひとりに丁寧に答え、ときには黒板に文字を書く。ミトロフが気軽に声を掛けるのも憚られるほどである。
「あの子たちはひと際に真剣なようだな」
「ああ、サフラン殿曰くあの三人は自らの道を心に決めておるそうじゃ。レティはスコラ学派の私塾に通うことが決まっておる。ドゥンは数字に強くてな、表店を持つ立派な商会で奉公をするというし、ラナは美しい文字を書くゆえ書記の試験を受けるのじゃ」
挙げられたどの職も、気まぐれや思いつきでは目指せぬものばかりである。ミトロフが見たところ、三人は十を過ぎたばかりの歳に思える。その年頃で自らの進む先を定めることは容易ではないだろう。
「できるだけ早く働き、この院の助けになりたいと、常々言っておる。心意気は美しい。が、ちと寂しくもある」
「寂しい? 立派なことではないか?」
「あの子らも本当はまだまだ子どもでいるべき年ごろじゃろう。いちど大人になってしまえば子どもには戻れぬ」
その口振りにはグラシエ自身の経験を含むものがあるようだった。グラシエは父を亡くし、跡を継ぐ形で狩人になったのだと聞く。
望む望まないとを関係なく、そうするしかないという道が目の前にあるとき、それを選ぶだけの分別と、全うする意思力があるがゆえに、己の進むべき方向が強制的に定まってしまうことがある。
「心配しているのだな、あの子らが後悔しないかと」
「ん、む。老婆心というものかのう。あの子らが決めたことに口出しをするつもりはないのじゃが、つい、な。あの子らの未来のために、大人として、できることがあれば良いのじゃがと考えてはしまうな」
大人か、とミトロフは繰り返した。
人間族よりも寿命の長いエルフとて、グラシエはまだまだ若い年ごろのはずだ。それでも自らを”大人”と区分し、子どもたちの未来を憂うのは、彼女の性分というものだろう。
ミトロフはこれまで、自分を大人と思ったことがない。
貴族として生まれ、父の庇護の元に生活を送り、与えられた服や食事をただ消費していた。押し付けられた貴族の三男としての生き方と、認めてもらえない自分の在り方に不満を抱き、鬱屈していた。
けれど、自分はもう15になった、とミトロフは思う。
酒を飲むことが許され、政に参加したくば議員として立候補することもできる。貴族の当主となることもそう珍しいわけでもない。15とは、もう大人なのだ。
ミトロフはサフランに学ぶ三人を見つめた。
若くして新しい環境に挑むことに対する不安はあるだろう。緊張もするだろう。それでも、瞳の光は力強い。
「あの子たちは、あの歳でもう、自分で立とうとしているのだな」
「われには巣立つ姿を見送ることしか出来ぬが……せめて、帰る場所を守る手伝いは、したくてのう」
それがグラシエがここにいる理由であった。
身寄りを亡くし、社会的にも迫害されがちな子どもたちの居場所であり、姉の家でもあるこの教会を失いたくない。
その感情の一端に、ミトロフも触れることが出来たようである。
「きみは、立派な人だな」
「なんじゃ唐突に」
グラシエはまだ熟していない青い実を噛んだかのように、渋い顔を見せた。
「誰かのために考え、行動すると言うのは、難しいことだろう。思えば、きみは出会ったときからそうだった。迷宮でぼくの命を救ってくれたことは忘れない」
「……言ったじゃろう、迷宮では助け合いじゃ、と」
それにのう、とグラシエは柔らかな微笑みをミトロフに向けた。
「われもその言葉をそっくりお主に返したいわ。おぬしに出会えたことで、われは救われたような気持ちになった。大事な聖樹も枯れ果てずに済み、里の者らの暮らしも守られた。お主への借りは是非とも返さねばならんのじゃが」
それで、実はな……。
と、グラシエは急に言い淀んだ。
顔を俯け、腹の前で組んだ指を所存なさげに絡める。恥じらう少女の花のようであり、叱られることを分かって親に打ち明ける子のようにも見える。
言い出しにくいことがあるのか、とミトロフは考え、すぐにも察した。
前回、ここに来たとき、ミトロフはグラシエの姉・ラティエから頼まれごとをした。それはグラシエを迷宮という危険な場所に連れていかないで欲しいということだったが、その話をグラシエ本人にもしたのだろう、と。
「いいんだ、分かっている」
ミトロフは頷きを返した。
「わ、分かっておるじゃと!?」
「ああ、姉君から話は聞いている」
「姉上から!? い、いつの間に……」
やけに動揺するグラシエに、ミトロフは首を傾げた。真白い頬は陶器に差した紅色のような鮮やかに色づいている。
「ここはきみの家のようだ。姉君だけでなく、たくさんの弟や妹もいるんだな」
「……たしかに、家族のように思っておるの」
「グラシエ。きみが無理をしてぼくと来ようとしているなら、気にしないでいい。きみの生き方を制限するつもりはない」
ミトロフは視線を逸らし、サフランと子どもたちを眺めた。
「それは、われが必要ないということかの?」
「そんなことはない」
ミトロフは強く答えた。
「きみがいてくれたらどれほど心強いか。だが、ぼくはきみの助けになりたくて行動しただけだ。きみと借りだとか、貸しだとか、そういう関係ではいたくない。なんというか、対等でいたいんだ」
「……対等、か。そうじゃな、われもそうありたいと思う。じゃが、おぬし、本気でわれが貸し借りだけで決断したと思っておるのか?」
「そうは思わないが……だが、きみは狩人だろう。迷宮に潜る必要はないはずだ」
「迷宮? なんの話をしておるんじゃ?」
「なにって、ぼくらとパーティに戻って迷宮を探索する話だろう。きみをそんな危険な場所に送り出したくはないと、姉君から打ち明けられたが」
グラシエは目を丸くして、口を小さく開いた。呆けていたかと思えば急にぎゅっと顔をしかめ、「ううう」と唸ってそっぽを向いてしまった。
「––––ああ、そうか! そういう話じゃったか! そうじゃったな、そうとも、迷宮探索の話じゃな!」
「きみの方こそなんの話をしていたんだ……?」
「いいや、その通り! 迷宮探索の話じゃ! そうよな、姉上は反対するであろうな! 優しい人じゃが、昔から心配性でのう!」
途端にわたわたと挙動不審になってしまったグラシエを、ミトロフは訝しげに見る。その視線を感じながら、グラシエもまた慌てふためいている自分をおかしく思った。
頬も赤いままに「ごほん」とわざとらしく咳払いをして、グラシエは腰に手を当てた。わずかに胸を張って、平然とした風を装ってはいるが、瞳は閉じられたままである。
「……たしかに、姉上が反対する気持ちも理解できる。しかし、われがちゃんと話せばわかってくれるであろう」
グラシエは軽やかな口調で言うが、果たしてそうだろうかとミトロフは思う。
ラティエは、グラシエを守るためならば自分の身を差し出すとまで言ったのだ。それほど大事に思っている妹が、命の危機ばかりの迷宮探索に潜ることを、快く思えるはずがない。
むっつりと黙り込んだミトロフに、グラシエは細く瞼を開いて視線を送る。難しい顔をしている、とグラシエは細く息を吐いた。
「……薬を探すために迷宮に入った折にも、姉上には随分と心労をかけた。それが分かっておるから、なかなかここにも来れなんだのじゃ。しかしの、ミトロフ。われはお主と迷宮に潜りたいと思っておる」
語りかけるような口調に、ミトロフも視線を合わせた。
「たしかに危険じゃが、迷宮に潜り、共に戦い、時間を過ごすことは……心が踊るのじゃ。われはまるで幼子のように、わくわくするのじゃよ」
頬を上気させて、グラシエは微笑んだ。
「じゃからの、そうつれない顔をせんでくれ。われはわれの意思で、迷宮探索を続けたいのじゃよ」
「……そうか」
グラシエのその言葉を、ミトロフは素直に受け止められなかった。
それはあの”魔族”と出会ってしまったからに違いない。あまりに異形で、そして強い。自らの力の及ばぬ存在が迷宮にはいる。そんな当たり前のことを、いまさらに気づいてしまった。
ミトロフはグラシエを見る。彼女は良い人だ。大切に思う家族があり、慕う子どもらがおり、死んでしまってはいけない人だ。
彼女を迷宮に連れて行くことは、本当に正しいのか?
彼女を、ぼくは守れるのだろうか。
「ここの問題を疾く片付けて、日常に戻らねばな」
屈託ないグラシエの声に、ミトロフは悩みを呑み込んで頷いた。
「そうだな、この教会は守らなきゃならない。だがマフィアとの問題なのだろう? 解決の方法は考えているのか?」
グラシエは人差し指で下唇を押し上げ、なんと言ったものか、と視線を逸らした。
「われはさっさと乗り込んで頭目と話をつけようと思っておったのじゃが……」
「勇壮すぎる。あまりに無謀だ」
「姉上にもしこたま叱られたわい。解決法を探ってあちこちに行ってもみたのじゃが……先ほど、サフラン殿がもうすぐ片が着くから安心して良いと言われての。取り立てに来た男と何か話しておったようなのじゃが……」
先ほど出会った”兄ィ”の姿をミトロフは思い出した。
「具体的には聞いていないのか?」
「話すべきときに話す、と濁されてしまってな」
ふたりは揃ってサフランに目を向けた。ひょろりとした長身に柔らかな目元は優しげな雰囲気を纏うが、マフィアとの問題をひと息に解決するような頼もしさとは言えない。
ミトロフとて詳しくはないが、裏町の一角を取り仕切るような組織を相手に交渉をするとなれば、厄介という言葉ではどうにもならないように思える。権力でも暴力でも、対抗するには同じだけの力が必要になるはずだ。
詳しく聞くべきではないかとミトロフは思案するが、サフランは自分とは比べられないほどに立派な人格であるし、彼がミトロフよりも短慮であるとは思えない。彼に案があるというなら、疑うことは失礼だろうか。
「ミトロフ?」
グラシエの声かけに、ミトロフは張り詰めた息を抜いて顔を戻した。
「いや、なんでもない。中に入ろう。お腹がすいた」
「おぬしは食に目がないからのう」
グラシエはころころと笑う。




