太っちょ貴族は迷宮の現実を少し見る
ミトロフはレイピアを抜いて、思い出したように息を吸った。心臓が急激に鼓動を早めた。額に背中にと汗が噴き出している。
「ミトロフ! 無事か?」
グラシエが駆け寄ってきた。
ミトロフは頷いた。
グラシエはミトロフを押して下がらせると、ナイフを手にしてボスファングの様子をうかがう。呼吸もなく動かないことを確かめて、改めてミトロフと向き直った。
「怪我は、ないな。肩は服を裂かれただけじゃ」
「うん、危なかった。すごい執念だった」
「獣は死に際がもっとも恐ろしい。それにしたってどうして剣を離さなかったのじゃ?」
たしかに、とミトロフも思う。
ボスファングの口にレイピアを突き刺したあと、手を離すことはできた。しかし本能的に、意識するよりも早く、手は柄を握りしめてしまった。
「昨日も話したけど、僕は貴族だ。貴族は決闘をする。剣を離したら、決闘は負けなんだ。貴族としてまず初めに教え込まれるのは、死んでも剣は離すな、なんだよ。命より名誉が大事な民族でさ」
グラシエはひどく理解し難い、という風に眉を潜めた。呆れた、とでも言いたそうだった。
「名誉を大事にするのは分かる。じゃが、魔物はおぬしの名誉など考えはせぬぞ。その調子じゃ命がいくつあっても足りぬじゃろうて」
「わかってる。気をつけなきゃ」
ふう、ふう、と鼻息も荒く、ミトロフは頷いた。汗が止めどなく流れている。
「……それに、もう少し贅肉を落とした方が動きやすかろうの」
と、グラシエはひどく真剣な目で言った。
要は痩せろと言っているのだが、それはみっともないと馬鹿にするのではなく、戦うのに邪魔だろう、という合理的な判断によるものだった。
だからこそミトロフも、それは確かに、と素直に頷ける。
腹回りについたたっぷりとした贅肉は、自分の足元すら見えない。ステップを踏むのにも動き出しは遅いし、踏み込みにも間ができる。
レイピアという武器と、この重量級の身体は相性が抜群に悪いのだ。
「……でも、ほら、この重さのおかげで、ボスファングの体当たりにも押し負けなかったからさ」
言い訳のように言ってみる。
重さは力である。もしこの贅肉がなければ、ミトロフは容易に弾き飛ばされ、今よりも重傷を負っていたかもしれない。
グラシエもそこは認めつつも、
「その戦い方は盾の役目じゃろう。そうなりたいのか?」
「……保留で」
たしかにこの体型はパーティの盾となって魔物の攻撃を堰き止めるタンクに向いている。問題はミトロフにその技術や心構えがいっさいないことだ。
貴族としての決闘剣術を習い覚えたミトロフにとって、攻撃とは避けるものである。ただ、贅肉が邪魔をして、そうできなかっただけで。
痩せるか、戦い方を変えるか。
このまま迷宮に挑み続けるのであれば、その方向性は考えなければならないだろう。
ミトロフの息が落ち着くのを待ってから、ふたりは二頭のファングから牙を回収した。ボスファングはひときわ立派な毛皮をしている。
持ち帰れば良い価格になりそうではあるが、巨体ゆえに、毛皮を剥ぐのもかなりの手間だった。
買取価格と手間と時間を天秤にかけ、やはり泣く泣く、牙だけを回収した。
「ボスファングとはいえ、毛皮を剥ぐ時間で他の小物を倒すほうが効率がいいじゃろうな」
とグラシエは言う。
「ちょっと残念そうじゃない?」
「いや……そう、じゃな。ミトロフが貴族の誇りによって剣を手放さなかったように、われにも狩人の誇りがあるのかもしれぬ。狩った獣から牙だけを奪い、あとは放置するというのは、どうも得心できぬ。むずむずする。解体したい」
ごく真剣な顔で言うので、ミトロフは何も言わなかったが、ちょっと引いた。
整った顔の美少女の口からは聞きたくない言葉かもしれなかった。
ボスファングを置いてその場を離れ、通路を曲がる際に、グラシエはボスファングがいた辺りをじっと見据えた。
「やっぱり戻る?」
「……いや、良きかな。こうしてわれたちが獲物を残すことで生きる者もおる」
「どういうこと?」
「見えぬか?」
言われてミトロフも目をこらすが、通路の暗闇は深く、ボスファングの死体さえどこか分からない。
「”落穂拾い”と呼ばれる人々よ。怪我をした冒険者や、職を失ったが魔物とは戦えない者たちが、ああして残された死体を糧にしておる」
なるほど、と頷きつつ、ミトロフはじっと探してみる。やがて壁にかかったランタンの灯りに、人影が映ったように思える。
死体にはまだ価値がある。毛皮や骨や、時には内臓。
多くは持ち帰れずに、その場に置いていくことになる。
そうした物を集めて生活をする人がいる。
それもまた、迷宮という場所を構成する歯車のひとつなのだろうとミトロフは理解した。
「さ、行くぞ」
グラシエが先導し、ミトロフは付いていく。
自分がいつ、落穂拾いになるか。その仮定は冷たい現実味を持って、ミトロフの胸に落ちた。