太っちょ貴族は紹介される
やけに暖かい笑みで黙って見守っていた司祭の男性に、グラシエが話を通した。ミトロフとカヌレはグラシエに案内される形で教会の中に入る。
長方形に細長い教会の礼拝堂は、日向と影がくっきりと分かれていた。見上げる高さに縦長の窓が等間隔に並び、そこから差し込む鮮やかな陽光が壁に斜線を引いている。
真ん中に通路を挟んで、左右には使い込まれて色も変わった長椅子が並んでいる。しかしそのうちの幾つかは背もたれが欠けたり、腐り落ちたりしている。もとは白かったであろう壁も今ではくすんでいて、手入れだけではどうしようもない老朽があちこちに見られた。
グラシエについて歩きながら、ミトロフは天井を見上げた。空中に舞う塵や埃が、陽の光の中できらきらと瞬いている。光を透かすようにして、天井に描かれた絵が、ミトロフの関心を惹いた。
「––––美しい絵だ」
「ああ、天井画のことかの。立派なものじゃろう」
グラシエはあまり関心もない様子であるが、ミトロフは天井を埋める絵をじっと見上げた。
教会の中心に正円が枠を作り、その中で聖女と騎士と神々とが描かれている。竜殺しのために、騎士に聖剣を託す神々と、祝福を贈る聖女……聖書の中でも有名な場面である。
淡い色使いに柔らかな筆致は宗教画によくあるものだが、この天井画は他の宗教画よりも目を奪われる、とミトロフは思う。それはデッサンの確かさか、構図の巧みさか、あるいは廃れてしまった教会という場所によるものか。
ミトロフは右下に記されたサインを見つけ、目を丸くして納得した。
ミトロフ自身は敬虔な信徒ではない。教会で祈りを捧げ、司祭や神官の説法を厳かに聞くこともあったが、神の存在を感じたことも、そのために行いを正すこともなかった。
しかし今、ミトロフは言葉という形では表しようのない感覚を持て余していた。
そこに神を見たわけでも、落雷に打たれたように啓示を得たわけでもない。
ただ、神聖なものを前にしている、と肌で感じた。
美しいものには、人を厳粛にさせる力がある。
こんなものを人が生み出すことができるのか、その筆の運びひとつひとつに、神の意思が宿っているのではないかと。
教会という場所で、数多の人々が膝をつき、真摯に祈り、蝋燭を灯し……その姿を何千日、何十年、と見守ってきた時間の重み。
教会とは、ただの建造物ではない、とミトロフは理解する。この絵の下で、人は身を正すのだろう。見上げている今、絵ではなく、神に見つめ返されているような気さえする。
「ミトロフさま?」
「……ああ、すまない。居心地が良くてな」
カヌレの呼びかけに、ミトロフは顔を向けた。苦笑が浮かぶ。
これまでまともに祈ることもしていなかった。それが急に敬虔な信徒のようなことを考えている。自分の変わりようの、その都合のよさがおかしかった。
グラシエは長椅子の並びを過ぎて、横手の通路へ入った。ふたりはそのあとについていく。
奥には扉があり、その奥は狭いながらも来客室のように構えられていた。
グラシエが部屋の窓を開けると、光と共に風が入る。ローテーブルを挟むように、椅子が四脚ある。
グラシエと向かい合うようにミトロフが座る。その斜め後ろにカヌレが立った。
「なんじゃ、カヌレ。おぬしも座るといい」
「いえ、わたしは……」
「きみだけ立っていたら気になる」
「ミトロフさまがそう仰るのでしたら、失礼します」
カヌレが素直にミトロフの横に腰掛けたのを見て、グラシエは微笑を浮かべた。
「われがおらぬ間、うまくやっておったようじゃな」
「ああ、カヌレにはよく助けてもらっているんだ。彼女がいなかったら冒険者は続けられなかったろうな」
「……過分なお言葉です」
「よくミトロフの世話をしてくれたようじゃな」
「いえ。わたしの役目ですので」
カヌレの改まったような態度に、グラシエはわずかに首を傾げた。
窓際の席には陽光が朗らかに降り注いでいる。グラシエの肩に流れた銀の髪が、首の傾ぎに合わせてさらりと揺れ、その筋がきらきらと光の粒を弾く。グラシエの瞳は透き通るように青く、まさに今の空と同じ色をしていた。
うつくしい人だ、とカヌレは思う。
騎士であったカヌレは、主人に付いて社交界に赴くことも多かった。そこでは飾り立てた貴族の夫人や少女を存分に見た。
幼きころから心身を磨き抜かれた彼女たちは確かに華と呼ぶに相応しい美を備えていたが、エルフという種族と比べてしまえば、違いは誰にでも分かる。銀と鉄が似て非なるように。
「話を進めましょう」
と珍しくカヌレが舵を切った。
「……そうじゃな。ここに至って、もはや逃げも隠れもせぬ。われの事情を話そう。正直、これは聖樹の思し召しかとも思っておる。坩堝のようなこの街で、示し合わせたわけでもなくおぬしらに再会できたのじゃ。ひとりで悩まず話をせよということかもしれん」
グラシエは目を閉じて苦みを噛むように笑い、目を開いて教会の壁を見上げた。
「見ての通り、ここは教会じゃ。すでに打ち捨てられた廃墟、とも言えるがの」
「きみは、ここに住んでいるのか?」
ミトロフの問いにグラシエは頷いた。
「半月には及ばぬがな。縁があってここで生活をしておる……そうじゃった、報告が遅れてしまったが、聖樹は無事に病を克服した。おぬしらの助力のおかげじゃ。改めて礼を言わせてほしい」
グラシエは深々と頭を下げた。
彼女は元々はエルフの里の狩人であった。その里で管理する聖樹が枯れ病に冒されたために、迷宮に治療薬の材料を見つけるためにこの街に来ていたのである。三人は協力してその薬を手に入れ、グラシエが里に帰っていったのが、数ヶ月と前のことだった。
「無事に治ったか。それは安心した」
「里の者たちも、ふたりによくよく感謝しておる。公にはできぬ話ゆえに、われがまた遣わされたのじゃ。感謝の証を届けるためにの」
そこでグラシエはいくらか口籠もる。こほん、と咳払いをする。
「感謝の証? 貰えるものは嬉しいが」
「……そうかの。おぬしがそう思ってくれるなら、われも助かるが」
「あとで丁重にいただくとして、そこからどうしてグラシエがここにいることになった?」
「丁重にいただく!? ああ、いや……そうじゃな、そこからが問題に関わる話になる」
ん、ん、と喉を鳴らして声を整えると、グラシエはふたりの顔を交互に見た。
「––––ときに、おぬしら、カイとコウの顔を見たか?」
「––––見た」
ミトロフは率直に答え、カヌレは頷いた。
グラシエはほう、と息をはき、ならば話も早かろうと肩をすくめた。
「ここは”烙印の仔”が住まう孤児院なのじゃ」
「……そうか。そんな気はしていた」
気絶したコウを背に負うとき、ミトロフはフードの下にあるその顔を見た。半獣、と表現すべきか。コウは人の顔ながら、鼻先だけが犬のように尖り、獣の口をしていた。
「”烙印の仔”は迷宮から産出された遺物による呪いや、魔法の影響を受けた者を指す」
「わたしのように、ですね」
「ああ。じゃが古来の意味はそうではない。人ならざる者……多くの者が自分らとは違うと線引きをした者を総称して、烙印の仔と呼んできた」
「なるほど、奇種の者たちか」
「これ、ミトロフ。その呼び方は控えよ」
「ただの区分けの名称だろう? ぼくは本でそう読んだが……」
「無味な文字も、人が口にすれば意味を持つ。奇種という響きはこの辺りでは好まれておらぬ。まだ烙印の仔のほうがマシ、とな」
「そうか。それはぼくの不明だ。教えてもらって助かった。感謝する」
ミトロフは小さく頭を下げた。こればかりは自分の世間知らずを反省するべきだろう、と素直に受け止める。
率直な態度に、グラシエは柔らかな眼差しを向ける。
「とかく、迷宮の呪いを継いだもの、病、混種、怪我……それぞれに持たざるを得なかった荷物のために暗がりに押しやられてしまった子らを、ここの司祭殿は世話しておるのじゃ」
「……立派なことだ」
ミトロフは重々しく言う。
「いやいや、自分にできることをさせてもらってるだけですよ」
部屋の奥の扉から、先ほどの男が姿を見せた。カップとティーポットの入った盆を持っている。あの先には水回りなどの生活空間が繋がっているらしい、とミトロフは推測した。
教会と言えど、司祭や修道女などが住み込みで生活するための設備は必要だ。
「これはすまない、サフラン殿。気を使わせてしまった」
「友来たる、また楽しからずや。良い客人をもてなすのは、私の楽しみにもなります」
席を立って盆を受け取ろうとしたグラシエに座るように促しながら、サフランはテーブルに茶を並べていく。
「と言っても、お出しできるのはこの庭で採れたハーブティーと、ささやかなクッキーだけなんだ」
「飲み食いできるだけでありがたい。見ての通り、いつも腹を空かせているのでな」
鷹揚に答えたミトロフの態度に、サフランは目尻に皺を浮かべた。
「このハーブは珍しい物でね。楽しんでもらえると嬉しいが、口に合わなければ紅茶を用意しよう」
「われはこの茶がすっかり気に入ってしまっての。ミトロフは……ああ、失礼した。サフラン殿、これがミトロフ、こっちがカヌレじゃ。ふたりとも、こちらがサフラン殿じゃ。この教会を運営されておる司祭さまじゃ」
グラシエさんからお話を聞いておりました、とサフランは穏やかに笑う。
教会を差配する司祭ともなれば従者もつく地位であるはずだが、ポットからお茶を注ぐ所作には手慣れた様子があった。
「グラシエが貴方にぼくたちを紹介することになった経緯を聞いていたところだ」
サフランから差し出されたカップをミトロフが受け取る。貴族の茶会では、誰が初めに茶を飲むかという小難しい作法がある。毒が入っていないことを示すためにもてなす側が初めだったり、疑うつもりもないと示すために客側が飲んだりする。
ミトロフはいまだ染み付いた貴族の習慣により、まず初めに茶を飲むことにした。
それはサフランの精一杯のもてなしであることと、珍しいハーブで淹れたものであるという言葉を受けての行動である。客人である自分がまず茶を飲み、まったく不服なく満足であると示すことが良かろう、との判断だった。
ミトロフはわずかに目を伏せ、カップの中を覗いた。紅茶と言えば赤や茶、ときに黄色といったところであるが、ハーブティーは夏の新緑の芽を溶かしたように鮮やかな色をしている。
鼻を寄せれば香りは薄い。しかし悪い匂いではない。すっとした清涼を感じる。
ひと口含めば、ずいぶんとぬるい。司祭ともなれば教養は深かろう。茶の淹れ方が分からないわけはない。紅茶が沸騰したお湯を使うのに対し、これは意図して冷ましてあるらしい。火傷をすることもなく、茶は長く舌の上に残った。
まず感じたのは、眉間に皺が寄るほどの渋味と独特の苦味。しかし喉まで飲み下したあとには奥深い甘みが見つかった。
なるほど、これはぬるい方が良かろう、とミトロフは頷いた。紅茶と同じ熱さで飲めば苦味と渋味も減るが、この繊細な甘さは消えてしまう。
「初めて飲む味の茶だ。これは味覚が楽しい」
素直に感想を告げたミトロフに、サフランは柔らかな笑みで頷いた。
「ずっと東の国で飲まれている茶だそうでね。こちらでは普及していないが、私は好きなんだ」
ごゆっくり、と言い残してサフランはまた奥の部屋に戻っていった。
ミトロフとグラシエは緑茶で喉を潤し、カヌレは緑の茶に興味深げに顔を寄せ、少しの休息となる。
「続きを話そうかの」
グラシエの声に被さるように、野太い男の声が窓から遠く聞こえた。
「サフランさぁん、いらっしゃいますかぁ」
低く間延びした声。グラシエの眉頭がきゅっと寄り合い、眉間に深い皺が生まれた。聞かずとも好ましい客ではないらしい、とミトロフは察する。
「……説明の手間が省けて良いかもしれんな。われがここにおる理由は、まさにあの声のせいじゃ」
やれやれとグラシエは立ち上がる。ミトロフとカヌレもそれに倣い、三人は連れ立って教会の表門に向かう。
そこではすでにサフランがいた。ふたりの男が立っている。見るからに屈強な熊顔を見上げるように、サフランが言葉を交わしているようだ。
その斜め後ろに、小柄ながらに目つきの鋭い男が立っていた。こちらは人間のようである。
「何度も来ていただいて申し訳ないが、答えは変わらなくてね。この教会を売るつもりはないんだ」
「しかしね、サフランさん。こっちも頼まれてやってるもんでね。苦情が来ているんですよ。あんたらみたいなのがここで生活していると、これが怖くて仕方ないってね。分かるでしょう? 俺たちは街の治安を守る義務があってね」
「もちろん分かります。住民の方たちにご迷惑をかけるのは、私も不本意なことです。しかし話し合い、知っていただければ分かり合えることもありましょう。ぜひその住人の方々と対話の機会をいただけませんか?」
「あんたもしつこいね、何度も何度もそう言うが、こっちも答えは変わらないんですよ。住民の皆さんは、あんたらの顔も見たくないって言ってるんだ」
口調は丁寧なようでいて、内容はひどく粗暴である。ミトロフは眉をひそめた。明らかに乱暴者という風である。
ミトロフの腰が引けているのを気にもとめず、グラシエはずんずんと進み、サフランの横に立って腕を組んだ。
「……まぁたお前かよ」
呆れたような声音で熊男がぼやく。
「ほとほと嫌気がさすとでも言いたげな顔じゃのう。安心せい、気持ちはわれとて同じじゃ」
「お前さんは関係ないだろうが。教会の関係者か? この男の娘か? 違うだろ? おとなしくしててくれ、な?」
「わしは幼子ではない。自分の意思でここにおる。不当な立ち退きの要求など、われがおるうちは認めさせぬでな」
「不当じゃねえって言ってんだろ。このあたり一帯の土地はウチが正当に買い上げたんだ。そこに住もうってんなら、それなりの金を払ってもらうのが当然って話だろ? 金も払えねえってんなら、そりゃ出てってもらうしかねえよ」
「教会の建つ土地を買い上げた? ここは神の住む家じゃぞ。ちゃんとした認可はおりておるのか?」
毅然としたグラシエの態度に、熊男は眉尻をハの字に下げた。
小柄なグラシエながら、整った容貌で目つきも鋭く睨め上げれば威勢も良い。大きな身体をどこか居心地悪げに揺らし、熊男は後ろに顔を向けた。
「……兄ィ、どうしやしょう」
兄ィと呼ばれた小柄な男は、退屈そうにグラシエを見た。それからサフラン、ミトロフ、カヌレと視線を巡らせたかと思うと、欠伸をした。
「帰るぞ。今日は客で賑わってる。邪魔しちゃ悪い」
「へっ、あ、兄ィ!?」
呼び止める声に振り向きもせず、男はさっさと歩いて行ってしまう。
熊男はその背中とグラシエとに慌ただしく視線を悩ませてから、「ま、また来るからよぉ!」と言い残して駆けて行った。
悪人のようでいて、どうにも奇妙な二人組を見送って、ミトロフはグラシエの隣に並ぶ。
「この孤児院は、地上げの対象になっているのか?」
「うむ。あやつらはこの辺りを纏める狼藉者よ」
「裏街を取り仕切る非合法の集団があるという話は聞くが……なんだってきみが対抗しているんだ」
ミトロフがグラシエに顔を向けた。ちょうどその時に、会話に声を挟んだ者がいる。
「サフランさま、いま、どなたかいらっしゃいませんでしたか?」
教会の横手、庭に繋がる小道から姿を見せたのは、黒のローブに身を包んだ修道女である。女性は壁に手を当てたままこちらを見ているが、その目元は黒衣で覆われている。
弱視か盲目か、と推測したミトロフは、フードに隠されてはいてもその女性の耳が長いことに気づいた。
「グラシエ、そこにいるの?」
「うむ。面倒な客が来ておったがな、いま帰ったところじゃ」
とグラシエは答え、目を丸くしているミトロフに顔を合わせてから悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ミトロフ、紹介しておこう。姉上じゃ」




