太っちょ貴族は懐かしい声を聞く
揺れている、とコウはぼんやりと思う。
暖かく、柔らかい何かに身体を運ばれている。汗臭さと、深い森と花のような香りがする。これは石鹸という匂いだとコウは知っている。
足がふわふわと浮き、歩いてもいないのに前に進んでいく感覚。
ずいぶんと昔に、同じことをされていた気がする。目がだんだんと覚めていく。もう少しだけ微睡んでいたいという気持ちがある。懐かしさに浸っていたい。現実よりもそっちの方がずっといい……。
「とうちゃん––––」
「ぼくは婚姻もまだだ。気が早い」
背負った少年に軽口を返せば、ううん、と呻く声。やがてもぞもぞと動きだし、目が覚めたのだと気配で知れる。
「……なんだこの頭」
「運んでやっているんだぞ。起きたなら降りろ」
「……なんでおれがおんぶされてるんだ?」
きょとんとした声にはあどけなさがある。今ばかりはかわいらしいものだ、とミトロフは苦笑した。
「コウ! 目が覚めた!? 頭とか痛くない?」
「あたま? 痛いわけが……いてえ!」
額をさすってたんこぶを刺激したらしい。盛大に打ちつけたようで、コウの額はぷくりと膨らんでいる。
「ど、どうなってんだ? おれ、誘拐されてるのか!?」
「そんなことをするのはよほど見る目のない誘拐犯だろうな」
「お、お前! おれをどこに連れていくんだよ!」
「コウ、落ち着いてよ! この人たち、気絶したコウを院に運んでくれてるんだよ」
「はあ!? ばか! 院に知らないやつを連れてくるなって言われてんだろ!」
「仕方ないじゃんか! あんなとこでコウを置きっぱなしにできないんだから!」
起きるなり騒がしい子どもふたりに、ミトロフの唇はへの字を描く。不本意なのはミトロフも同じである。カヌレがくすりと小さく笑う。
知らぬとはいえ、意識のない子どもを裏通りに放置することはできなかった。どこか安全な場所に届けようと訊けば、カイが言い出したのが”院”という場所だっただけである。
「……それで、あとどれくらいだ?」
「あ、もうすぐです。そこの角を曲がったら」
コウの意識がないうちに、ミトロフたちとカイはいくらか打ち解けていた。カイの話によれば、”院”には”先生”がおり、子どもたちが集まって暮らしているという。
すでに入り組んだ道をずいぶんと奥まで入ってきてしまった。戻り道が分からないほどである。
カイが指さした角を曲がると、ミトロフは目を丸くした。
これまでずっと狭く薄暗い道であったのに、そこだけにぽかりと陽だまりが落ちていた。
朽ちかけた教会のようである。空き地を囲うように木の柵が巡り、手入れのされた植木に花がついている。その植木越しの庭に物干し竿が何本もかかり、そこにシーツや子ども服が所狭しと干されていた。
近づくと、子どもたちのはしゃいだ声が聞こえてくる。それからチェンバロが弾かれる音。音量が一定で音は間延びしていない。裏通りには似つかわしくない朗らかな場所だった。
「ぼく、先生を呼んでくる!」
カイが駆け出した。鉄の門扉を押してあけ、中に入っていく。
ミトロフはゆっくりと歩いて向かいながら、チェンバロの音に耳を澄ませていた。よく知られた童謡だ。音がいくつか外れているのは、奏者の腕ではなく、チェンバロ自体の調律がズレているからだろう。ファの音は完全に鳴らなくなっているらしい。
ミトロフとカヌレが門の前に着くころ、カイがひとりの大人を連れて出てきた。ひょろりと背の高い初老の男性である。着古されてはいるが、それは司祭の服に間違いはない。
男性はミトロフと、その背にいるコウを見やると、落ち着いた所作で深々と頭を下げた。
「うちの子がご迷惑をかけたようですね。申し訳ない」
「……先生、ごめん」
コウがやけに素直に謝る。
先生と呼ばれた男性は顔を上げ、コウを優しく見つめた。
「謝る相手が違うだろう。わかるね?」
「……太っちょ、ごめん」
こら! と先生が叱るが、ミトロフとしてはそれで充分である。
「この子は足を挫いた上にしたたかに頭をぶつけてな。休ませたほうが良いと思う」
「それはまったく、ご親切に感謝するばかりです……受け取りましょう」
近づいた男性に、ミトロフは背を寄せる。
コウは両手を伸ばして先生の首にしがみついた。あれほど強気に騒いでいても、親のような存在を前にするとしおらしい。
「ベッドに運んで参りますので、どうかここで少々お待ちいただけますか?」
「いや、役目も終わった。ここで失礼しよう」
「ですが、礼も詫びも満足にできておらず––––」
「ミトロフ!?」
急に名前を呼ばれ、驚いたのはもちろんミトロフである。
声に誘われて顔を向ければ、建物の横合い、洗濯物が干されていた庭に繋がるほうからやってくる人がいる。腕には洗濯物の残った籠を抱えている。
今度こそ間違いなく、それはグラシエであった。
「––––グラシエ、やっぱり君だった」
ミトロフは笑みを浮かべた。半年と経っていないのに、ずいぶんと懐かしい気持ちがする。
しかしグラシエが浮かべる表情は、喜びばかりではない。戸惑い、バツの悪さ、そしてどこか困ったような……。
「……グラシエ、そうか、見つけてしまったんだな」
ミトロフは貴族である。幼いころから読書に観劇にと、物語に親しんできた。それゆえにグラシエのその表情や態度から、すぐさまに真実を見抜いてしまったのである。
「いや、いいんだ。ぼくのことは気にしないでくれ……ぼくらが結んだ再会の約束、それがいま果たされた。それでぼくは満足だ。果たされぬ約束ほど虚しいものはないからな。たとえ約束の先に続きがなかったとしても」
ふう、と物憂いにため息をついて、ミトロフは額に手を当てた。
「……おぬし、何を言うておる? 勘違いしておらんか?」
「何って、見つけたんだろう、真実の愛を」
「ばかめ」
グラシエは手短に切って捨てると、深々と息を吐いた。
こめかみに白い指を当て、眉をきっと吊り上げてミトロフを睨めあげる。彫刻のように端正な顔立ちが遠慮もなく不愉快さを表現すると、それは神の彫像に見下されているかのような迫力をともなうらしい。
ミトロフは背筋がゾゾっと痺れた。
「なんでそんなことを考えたのか、言うてみい」
「……昨日、顔を見るなりきみは逃げただろう」
「うむ。逃げた。あんな場所で会うとは思わなかったでな。動揺してしもうた」
「いま顔を合わせたとき、きみは複雑な表情を見せた。手放しで喜んでいるとは言えない」
「そうじゃな。驚きもした。よもやここにふたりがやってくるとは夢にも思わなんだゆえ」
「女性が男に対してよそよそしい反応をする。それは往々にして、別に真実の愛を見つけたからだと決まっている」
「なんでそうなる?」
目を細めたグラシエが、呆れた声音で訊いた。
「……劇だと、そうだから」
「劇ぃ? おぬし、創作物と現実の区別もつかんのか!」
「し、しかしだな、現実の人間の個性を強調して描かれた人物たちが織りなす劇とは、つまり現実に起こりうる悲喜交交を凝縮したもので、人と人との関係のあり方をぼくはそこから学んだんだ」
「じゃからおぬしは純粋というか、世間知らずというか。良し悪しじゃのう……」
グラシエは呆れながらも、ふっと力を抜いて瞳を和らげた。
「劇の女子がどうかは知らん。じゃがわれはわれじゃ。どこぞの女で物を測るでない。われを見て測れ」
「う、うむ……そうだな、それはそうだ」
ミトロフはふんふんと頷く。
では、なにか事情があるのか、と訊けば、グラシエは仕方あるまいと首を振った
「実は少々、問題を抱えておる。おぬしに話せば必ず手を貸してくれるじゃろう。解決するまでは会えぬと思っておった。われはすでに大きな借りがある。まずはこれを返さねばならぬ」
「なるほど。話はよく分かった。きみの問題に手を貸そう」
「話を聞いておったか? 理解はできておるか?」
呆れた様子のグラシエに、ミトロフは胸を張って見せた。
「都合のいいところだけ聞いた」
「……ばかもの」
グラシエはふっと息を抜くように笑った。




