太っちょ貴族は”昇華”に憧れている
多少のすり傷、切り傷であれば、血止めをして包帯を巻けば動くのに支障はない。
小刀兎を相手に苦戦していたときでも、ミトロフはいくつもの生傷を負ったまま迷宮に潜っていた。
迷宮から産出された薬草で作られた軟膏はよく効くのである。
しかし腕の筋を違えた痛みはなかなか引かなかった。
外傷よりも、見えない怪我の方がタチが悪いということか、とミトロフはため息をついた。
一日を休みにしてなお、ミトロフの右腕は元通りになっていない。しかし動かすたびに激痛が起きる、というわけでもない。
休むにはもったいないという意識もあり、ミトロフは結局、無理をしない程度に探索をしよう、と考えた。
カヌレと合流し、今日も今日とて迷宮に足を踏み入れる。それは冒険者の仕事であり、ミトロフのやるべきことだった。
迷宮は地下にある。晴雨雪霰雷と天気に左右はされないが、体調ばかりは如何ともし難いものがある。
ミトロフは左手で右腕を揉みほぐしながら、地下へと地下へと進んでいった。
「ミトロフさま、ご無理はなさらないでくださいね」
カヌレの心配とも釘刺しとも取れる言葉を受け取りながらも、魔物から逃げてばかりもいられない。どうしても戦わねばというときには、ミトロフは剣を抜いた。
これまでに数え切れぬほど地上と地下を往復するうちに、上層階の魔物にはすっかり慣れている。あれほど苦戦した小刀兎ですら、いまのミトロフは軽々と躱し、空中で斬り落とすこともできる。
しかし斬るにも突くにも、腕の痛みが伴う。
小さな相手であればまだマシだが、大きな相手となるとひと苦労だった。7階を過ぎてついに、ミトロフの腕が限界を迎えた。急に力が入らなくなった。刺突剣を握れず、取り落としてしまったのである。
「……これは、まずいな」
「撤退しましょう」
カヌレはすぐさまミトロフを庇い、ふたりはそろそろと迷宮を戻ることになった。
幸い、階段を降りて間もなかったため、休憩部屋にすぐに辿り着けた。ふたりは荷物を置き、カヌレがミトロフの腕を触診する。
「……医術の心得があるのか?」
「応急処置程度です。訓練でよく怪我をしたので」
カヌレはミトロフの腕に痛み止めの軟膏を塗り、大鞄から包帯を取り出した。肘関節の上下に、8の字になるように巻き付ける。慣れた手つきである。
「これで多少は楽になるかと」
「……本当だ。これならいくらでも戦えるな」
「お戯れを。地上に戻って施療院で診ていただきますよ」
口調は優しいが、反論は認めぬという強い決意を感じさせる。その声が恐ろしくもあり、世話焼きが嬉しくもある。
ミトロフは腕を何度か曲げ伸ばしする。みっちりと肉を締める包帯で動きが補強されているように感じる。
「だいぶ楽になった。礼を言う」
ミトロフとカヌレは荷物を取り立ち上がる。ミトロフが剣を振れぬ以上、今日の探索はここまでとするしかなかった。
カヌレに戦闘を任せながら、ミトロフは地上に戻ってきた。包帯と薬草のおかげで寝ていれば治ると言ってはみたものの、控えめな性格のカヌレにしては珍しい強引さでミトロフは施療院の世話になることになった。
また支払いが重なるが、幾日も迷宮に潜れない日々を無為にするよりは、さっさと治してもらったほうが良いのはたしかである。
施療院では重傷者優先の規則が定められている。迷宮からいつ急患が運び込まれようと、すぐに対応するためだ。
そのため、治りかけや軽傷の人間はずいぶんと待たされることになる。腕の筋を痛めた、というだけのミトロフも、椅子に座ったきり長々と時計の針を見送ることになった。
付き添うと言って聞かないカヌレも隣に座っていた。迷宮の中では平然と話せる相手であるのに、こうして環境が変わって二人並べば、不思議と会話は弾まない。
ミトロフはどうにも緊張を抱えて、頭の中で話題を探してみては自分で却下するという行為ばかりを繰り返してしまう。
社交場での淑女に対する失礼のない会話術であるとか、食事の席で心をくすぐる褒め方の定型文を暗記してはいても、施療院の待合室で隣り合ったときの話題などは教わっていない。
知識はあっても経験がまったく足りないのがミトロフなのである。
ようやく順番が来たとき、ミトロフは背中に汗をびっしょりとかいていた。
「そうですか、では見てみましょう」
今回の担当は灰色に白髪の混ざった初老の女医師であった。ミトロフの腕を痛めた原因の話や症状を聞くなり、女医師は腕を取った。
巻いていた包帯をほどき、ミトロフのふっくらした腕を揉んで確かめると、次第に二の腕と関節の継ぎ目にぐいぐいと指を押し込みはじめた。
マッサージというには力が強く、拷問と呼ぶには手加減があり、治療と納得するには痛みが強すぎる。
ミトロフが口の端からか細い悲鳴を漏らしても遠慮なく、骨に張り付いた腱や筋肉を親指の先でゴリゴリと抉るように弾く。
その度に肩から首、そして後頭部にびりびりと雷のように痛みがほとばしった。
ミトロフの額に汗が玉となり、鼻水が顎まで垂れ始めてようやく、女医師は手を離した。
一転、張り詰めた緊張を揉み解すように優しい手つきで腕を触診すると、ぽんと二の腕を叩いた。
「これでいいでしょう。腱を弾いて戻しました。そうですね、一週間は剣を握らぬように。無理をしなければ違和感もすぐになくなります」
「こ、これでいいだって……? これで治るわけが……っ、あれ?」
ふと、右腕にあった痛みが大人しくなっていることに気づく。
ミトロフは目を丸くしながら腕を動かし、肩を上げる。
痛くない。よく動くのである。
「な、治った!」
と勢いよく素振りの動作をすると、ぴき、っと肘の内側に痛みが響いた。
「痛い!」
「人間の身体はそう便利にできてはいませんよ。無理をすれば長引くだけですからね」
女医師は表情も声音も変えず、淡々と言う。呆れた様子すら見せないのが、かえってミトロフの心を締め上げた。
「……わかった」
肩を小さくしておとなしく頷き、ミトロフは診察室をあとにした。
待合室ではカヌレが背筋を伸ばして座って待っている。
「いかがでしたか」
「かなり楽になった。ただ、一週間は剣を握るな、と」
「それがよろしいかと思います。休暇と致しましょう」
「ついこの間も休んでいたが……」
「これまでの無理が積もり重なったのではないかと。急に迷宮に潜り、慣れぬ剣を振り、これまで平然としてらっしゃったことの方が驚きです」
む……? とミトロフは首を傾げた。
「剣を振るには身体の力、迷宮に潜るには心の力。どちらも欠かせぬものでしょう? ミトロフさまは精神力は充分すぎるほどですが、身体のほうが、その……前途があまりに有望ですので」
「気を使いすぎて貴族流の嫌味になっているぞ。素直に鍛え方が足りないと言ってくれ」
無言で会釈をするカヌレに、ミトロフは苦笑を返した。
「たしかに、鍛錬は足りないな。これまでも疲労で引き返すことが何度もあったしな……」
カヌレという頼もしい盾役がいることでミトロフの負担は大きく減っている。それでも探索時間が延びるにつれ、ミトロフの体力的な問題で探索を断念することが増えてきた。
ミトロフが使う刺突に特化した細剣は、冒険者が一般的に好むような剣よりははるかに軽い。それでも筋肉より贅肉の方が割合の多いミトロフには、やはり重い。
「精神も同じように疲労しているはずだが……ぼくはあまり感じないんだ。”昇華”のおかげかもしれない」
迷宮探索中にはとかく精神が張り詰める。暗闇、洞窟のような圧迫感、襲いくる魔物……あらゆる要素が冒険者の心を摩耗させていく。
安寧と堕落の生活をしていたミトロフであるが、そうした精神の摩耗という感覚に襲われることがない。
ミトロフが”昇華”によって得た精神力の強化という効能は、戦いの最中だけでなく、探索の合間にもミトロフを支えているようである。
「”昇華”ですか。話ばかりには聞きますが、不思議なものですね」
「ああ。ぼくとグラシエはコボルドを倒して得たが……あれ以来、どんな魔物を倒しても起きないな。ぼくもカヌレも、それなりに魔物を倒してきたと思うが」
「わたしは、例外かもしれませんが」
苦笑するような含みの声には、諦めのような色がある。期待をすることに及び腰になっているような。
カヌレは”昇華”とはまた別の迷宮の神秘……古代から残された”呪い”により、骸骨の姿になってしまっている。言わば魔物に近しい存在に変質している以上、”昇華”という現象が起こり得るのかは分からないことだった。
「大丈夫さ、きみにも起こる。”昇華”が得られれば、探索はずいぶん楽になるんだけどな」
”昇華”を得る方法があれば、誰もがこぞってそれを行うだろう。
しかし未だはっきりとしたことは分かっておらず、口勝手にそれぞれが迷信のような方法を語っているばかりである。
ミトロフもいくらか噂を聞いたが、どれも信憑性は薄く、かといって否定する根拠もない。現状、”昇華”が起こるかどうかは”運次第”ということになっている。
だからこそ、多くの冒険者の心を騒がすことになっているのだろう。誰にでも起こりうる現象であり、ひとつ、ふたつと手に入れただけで、迷宮探索は一変する可能性があるのだ。
参加無料で大当たりの籤引きがあれば、誰だって夢を見て手に取るものだろう。
「この肉がなくなる”昇華”でも起きないものかな」
ミトロフはぽっちゃりとした自分の腹を撫でながら、夢見るように呟いた。




