太っちょ貴族はボスファングと戦う
大丈夫だ。落ち着いている。
ミトロフは奇妙なほど冷静でいる自分に驚いている。
ととん。
と、ステップを踏む。それは自分と相手との立ち位置を変えるための歩法である。
ミトロフは空中にいるファングの横手に回るように調節し、膝をわずかに落とした。踏み込む力と、重心とを乗せて、膝を伸ばす。腕を伸ばす。剣は点を貫いて押し出される。
手応えがある。
ファングの下顎から刺しこんだレイピアは、その頭を貫通した。
ミトロフは素早く剣を抜く。
ファングは跳んだ勢いのまま、さっきまでミトロフがいたはずの場所の空を切って、地面を転がった。
弓に矢をかけたまま、グラシエがファングの様子を睨む。
野生の獣は手負いがもっとも危険だ。仕留めたと確信していたとしても、迂闊に近づかないのは狩人の鉄則だった。
通路に静寂。
それからグラシエがそろそろと近づき、ファングを確認する。
死んでいた。
「一撃か。見事な腕前じゃな、ミトロフ」
「僕も驚いた。昨日はゴブリン相手でも、もっと焦りや恐怖があったんだ。でも、いまはすごく冷静だった」
「昨日とは違うのか。慣れた、ということではなく?」
「うん。昨日とはまるで違う自分になったみたいで……あ」
そして思い至る。
「これが昇華の影響、なのか?」
「力ではなく、精神を成長させた、ということかの」
なるほどな、とグラシエは頷いた。
「昇華についてはわれも詳しくは知らぬ。じゃが、ミトロフがそう感じているのならありうる話じゃの」
ミトロフには自分の力が増したという実感はない。
昇華とはその程度の変化しか起こさないのかと思っていた。だが、今の冷静さは、ミトロフにとって大きな実感をともなう成長だった。
二人はファングの死体から剥ぎ取りを行う。
ファングでは毛皮や牙、内臓の一部などが買取の対象となっている。
しかし毛皮を剥ぐには手間がかかるし、内臓を得るためには解体する必要がある。
「大人数のパーティにもなれば、専門の解体人や荷運び人を雇ったり、荷車を持ち込んで丸ごと持ち帰ったりもするという。しかし今のわれらには重荷になるだけじゃ。牙だけもらっていくしかないの」
「解体にも手間と時間だけかかって、得るもののほうが少なそうだしね」
それからも数度、ファングの襲撃を受けた。
たいていはグラシエが先に発見し、矢で先制を奪う。一発で仕留めることもあるし、距離があれば二矢で動きを奪い、とどめだけを行うこともあった。
通路の先には小部屋があり、そこでは三頭のファングが群れを作っていた。
群れを発見したら逃げる。
事前に二人はそうした取り決めをしていたが、今回は状況が悪かった。ほとんど偶発的な鉢合わせになってしまった。
逃げるには距離が近い。こちらを見つけている獣に、背を向けて逃げることは悪手でしかなかった。
「ミトロフ、逃げられぬ! やるぞ!」
素早く決断したのはグラシエだった。狩人の経験から、戦うしかないと見切った。であれば先制を取るべきである。
流れるような動きで矢を二本取り、連射した。一発は頭に、もう一発は脚に。一頭は倒れ、もう一頭は警戒するように下がった。
残った一頭はひと回りも身体が大きい。それが群れのボスであるようだった。
襲いかかってくる動きは素早く、それでいて威圧感がある。
グラシエが再び一射する。しかしその矢を、ボスファングは避けた。
ボスファングは牙を剥き、低空を滑るようにミトロフの腕を狙った。
ミトロフはその動きを冷静に見つめていた。どう身体を動かすべきかを考える余裕もある。
ファングを相手にするには、横手に回るのが最もやり易い。これまでの戦闘で身につけた動きで、ミトロフはステップを踏んだ。
そして横合いからボスファングの顔に向け、刺突。
が、避けられる。ボスファングは前足で跳ねるように後ろに跳んだのだ。
「ミトロフ、気をつけろ!」
前傾に身体が伸びたミトロフの横合いに、後脚に矢を生やしたファングが飛びかかった。
連携している!
やられた、とミトロフは舌打ちした。
ボスファングは最初からミトロフを仕留める気はなかったのだ。だから攻撃を容易に避け、退くことができた。こちらの攻撃を誘い、その隙にもう一頭が喰らいつく。
まさに群れとしての狩りである。
ファングは牙を開き、剣を持つミトロフの腕を狙っていた。
避けられない、と覚悟したその時。
「動くでないぞ!」
とグラシエの鋭い声。
昇華によって強化された精神のおかげで、ミトロフはグラシエの言葉に従うことができた。
矢が掠める。
ミトロフ顔の横を風が通り抜ける。腕のわずか上を過ぎた矢は、今、まさに噛みつこうとしていたファングの赤い口内に突き立った。ファングは頭を叩かれたように回転してその場に落ちた。
助かる……!
ミトロフは腕を引き、体勢を整える。
ボスファングはすでに追撃に向かってきている。
逃げることよりも戦うことを選んだのは、迷宮に住まう魔物としての本能だろうか。
ミトロフはボスファングと真正面から対峙した。
右斜め前にレイピアを払い、眼前に掲げる。貴族としての決闘の儀礼である。
狙い定めるように切先をボスファングに向ける。そのときにはもう、ボスファングは飛びかかっている。
ミトロフは足を捌く。幼いころに教え込まれた動きを身体が覚えている。牙を避け、横に位置をとる。
ボスファングが一瞬前にミトロフがいた場所へ着地する。前足の爪が地面に噛んだ瞬間に、ミトロフはレイピアを突いた。
一刺。
それはボスファングの首を貫通する。厚い皮と硬い筋肉の手応えが重い。
ミトロフの方が押し負けそうになる。ボスファングが暴れれば、レイピアの細い剣身が折れるだろう。
ゆえに、突いた剣は同じ速さで抜き戻さなければならないのだ。
ミトロフは肘を引く。
レイピアがボスファングの首から戻り、赤い血が噴いた。
動脈を断った。狙い通りだった。
しかし、ボスファングはまだ生きている。
四肢で地面を握り、首を振り、ミトロフに飛び掛かった。ボスファングは巨大な矢であり、砲弾となった。
ミトロフは避けるつもりはなかった。自分の重すぎる身体では無理だ、と悟った。
脚を踏ん張り、覚悟を決め、レイピアを突き出した。
剣はボスファングの口中に突き立った。その勢いは止まらない。剣に貫かれながら、ボスファングはミトロフに食らいつこうとする。
牙が暴れる。レイピアが激しく揺れる。ミトロフは瞬間的に柄を強く握りしめた。
どん、と衝撃がきた。
ミトロフはボスファングの体当たりを受けて立った。右足が浮いた。跳ね飛ばされそうになって、堪えた。だん、と、強く右足を踏み込んだ。
剣ごと押し込まれたために、右腕の肘は胸に引きつけられている。
眼前に真っ赤な口が開いていた。
牙がミトロフの肩に刺さっていた。
巨大な顔。その瞳。ミトロフはじっと見据えている。
最後に荒い呼吸を残して、ボスファングはだらりと崩れ落ちた。