太っちょ貴族は諦めない
震える足を強く踏みつけ、ミトロフは刺突を向けた。
騎士は避ける。
ミトロフは斬り払い、突き込み、振り下ろす。がむしゃらと呼ぶほどに荒々しく振るう剣は、しかしすべてが空を切る。
騎士は足捌きだけで躱している。ミトロフの剣が触れたら負け。その条件を分かっていてなお、切先のわずか先にいる。剣筋を完璧に見切られている。
ミトロフは次第に息が上がる。汗が流れている。
体重を乗せた突きを躱されたとき、騎士の腕が動いた。ミトロフは咄嗟に小盾を構えた。
衝撃。
「ぅぷっ」
踏ん張る、ということができない。下段からの剣は、盾ごとミトロフを跳ね上げた。足が浮いた。継いで、身体が地面に引き寄せられ、たたらを踏んでミトロフは転がった。
すぐさま立ち上がる。剣を構える。騎士は動かずに待っていた。
「まだやるか?」
「––––当然だ」
ミトロフは駆け出した。
剣を突き、払う。ミトロフにはそれしか出来ない。剣は届かない。
騎士は思い出したように剣を振るう。ミトロフはそれを愚直に盾で受け止める。その度に身体は跳ね飛ばされ、惨めに地面を転がった。
身体中が砂に塗れて汚れ、手足を擦りむき、それでもミトロフはすぐに立ち上がる。
四回、五回、六回……十を越えて、ミトロフは転がった回数を数える余裕がなくなった。
息が落ち着かない。
喉が掠れ、肩が上下し、顔中に汗が噴き出して顎から滴り落ちている。
また転がり、うつ伏せて止まる。盾を地面に押し付けるように身体を起こす。騎士は立ったままミトロフを見下ろしている。
ひぃ、ブヒ、ぜひゅ……。
口の中に土を噛んでいる。つばを吐き出す余裕もない。
呼吸は荒く、早く、鼻も口も開きっぱなしだ。口の端に泡が浮かび、流れ出た鼻水すらそのままである。
ミトロフは重たい身体で立ち上がり、それでも剣を構える。
「貴公は」
と、騎士が口を開いた。
「戦い方が貴族らしくないな。誰に学んだ?」
「……ひっ、冒険者の、はぁ、男だ……っ、ぶひ……」
「冒険者か。道理で泥臭い剣を使う」
幼い頃のミトロフは、剣に夢中だった。かつては貴族が須く身に付けるべき教養であった決闘儀礼も、今の世では誰も重視しない。貴族はもう決闘などしない。
故に、ミトロフにあてがわれた家庭教師は、家令が見つけてきたどこぞの者ともしれない男だった。
冒険者だったという男は、しかしミトロフをよく鍛えた。
何度となく、遠慮もなく、ミトロフを打ち転がした。
「ぶひぃ、ぶひぃ……ブヒ、ひ、ひっひ……」
思わず笑う。
ああ、懐かしいな、とミトロフは思い出す。疲れ果てた身体と、足りない酸素と、全身の痛みに、意識がゆるく解けている。普段は見つけることのない過去の記憶が、思いがけず鮮明に蘇っている。
あの頃もこうして、地面に転がって、それでも立ち向かっていった。父に顔を顰められ、乳母に心配され、家令にそれとなく止められようと、辞めなかった。
「あれはきっと……好き、だったのだろうな……」
剣が? 違うな……。
ミトロフの中で言葉が踊っている。ふわふわと。
重たい足を引っ張り、ミトロフは挑む。騎士に向けて剣を突き出し、避けられ、再び打たれる。
無意識に盾を挟む。講座でソンに散々に教え込まれたことである。
そういえば、あの時もこうして地面を転がされたな、ソンも強かった。
地面を転がりながら場違いなことを考えた。もはや痛みも衝撃もよく分からない。
ごろごろと転がって、仰向けに止まる。
空を見上げ、ああ、夕暮れだなと考えた。迷宮の中で見る茜色とは、やはり色合いが違う。けれどこの夕暮れに、なぜか見覚えがあった。ずっと昔に同じ空がある。
ひどく眠かった。全身がそのまま泥のように溶けてしまいそうだ。
もう充分、やったんじゃないか。自分に言い聞かせる声がする。
––––ふと、寝転んだ自分を覗き込む顔がある。
男だ。髭面で目つきの悪い男が、焼けるような夕暮れを背にして、呆れた目で自分を見ている。
「どうしたお坊ちゃん。もうおしまいか?」
「……身体が重いし、眠いんだ」
「やれやれ、それじゃあこの剣はやれねえな」
男が握っているのは刺突剣だった。いや、それはぼくの剣のはずだ……。
「……無理だ、ぼくは子どもだぞ、大人のお前に勝てるわけがない」
「勝てとは言ってねえだろ、勝てとは。先っぽかすめりゃお前の勝ちだっての」
「……それだって無理だ」
「これだから貴族のお坊ちゃんは困る。良い言葉を教えてやろう––––”一刺報いる”。どんなに困難でも、一刺なら届く。大事なのは」
「……大事なのは?」
「根性」
「……根性論? 非合理的だ」
「––––さま! ミトロフさま!」
像が重なる。髭面の男の輪郭が、そのまま黒いフードに変わっていく。
少女が、自分を見下ろしている。長い白金色の髪が垂れ下がり、毛先がミトロフの鼻をくすぐった。少女の白く滑らかな頬には涙の筋がある。水をたたえた瞳の透けるような黄色は、まるで––––
「君の瞳は、”甘い蜜”のようだ」
「––––ミトロフ、さま?」
ふっと像が鮮明になる。フードの奥に白骨の頭蓋がある。
「……カヌレ、きみはずいぶん美しいな」
「な、何をおっしゃるんですか!? お気を確かに! もうお辞めください、これ以上は、どうか……!」
「そうだな」
と答えて、ミトロフは立ち上がる。膝が震える。それでもまだ、手は刺突剣を握れる。
「ミトロフさま! 無理なのです! 兄には勝てません!」
「ああ、ぼくは勝てない」
「ではどうして……っ!」
カヌレの声は震えていた。その頬に涙が流れているのを、ミトロフは夢うつつに見たようである。
カヌレはもはや縋り付くようにミトロフの腕を押さえた。
「ぼくは、知っているんだ」
ミトロフは言った。擦りむいた頬から血が流れている。盾をぶつけたために左目が腫れ上がり、視界は塞がりつつある。
「勝てなくとも、一刺は届く」
ミトロフは剣を見せる。無骨な刺突剣である。
貴族の剣でありながら魔物を打つために拵えられた変わり種。美麗な装飾もない無骨な塊。それはかつて、ミトロフの師であった男が持っていた剣だ。
「これは、ぼくの証なんだ。すっかり忘れていた。この剣は、ぼくが唯一、自分の手で掴んだものだった……届くんだ。どんなに不可能に思えても、どんなに無様でも、挑めば、いつかは届く––––”一刺”、それでいい」
ミトロフはカヌレの手を見る。片手の手袋はまだミトロフの懐にある。カヌレの骨の手は剥き出しになっている。その手に、ミトロフは自分の手を重ねた。
「ぼくは……諦めていた。何もしようとしなかった。与えられた世界で生きているだけだった。でも、ぼくはずっと、挑みたかったんだ。自分にできないことをしたかった。勝てなくとも、不可能と思えても、挑めば手に入るものがあると、あの時に知ってしまった」
ミトロフはカヌレを見る。もうあの幻覚は見えない。それでもそこに、カヌレの瞳があることを分かっている。
「カヌレ、きみは”剣”を持っていない。だから諦めてしまうんだ……ぼくが見せてやる。一刺は届くんだ。ぼくらは、挑んでいいんだ。誰に言われようと、何も諦めることはない……だから見ていろ、ぼくを」
ミトロフの頭はぼやけている。何を話しているのか、自分でも分からなくなっていく。胸の奥から溢れたものをそのまま吐き出している。
ミトロフはカヌレを押し除け、騎士に向かう。騎士は変わらず、揺るぎもせず、立っていた。
「待たせた」
「構わない」
ミトロフは剣を払う。弧を描いて回し、眼前に掲げる。重みに手が震え、カタカタと剣身が鳴った。
「貴公は––––きみは、どうして他人のためにそこまで戦う? その振る舞いは、貴族というよりは古い騎士かのようだ」
「知らん」
とミトロフは言い捨てた。
「貴族だろうが騎士だろうが、どうでもいい。ぼくは、ぼくがやりたいことをしているだけだ」
ミトロフは足を踏み込んだ。力はもう、いくばくも残っていない。それでも残っているものがある。
「––––大事なのは、根性」
「根性論ではどうにもならん」
細剣は空を刺す。騎士は剣を振るっている。ミトロフには見えている。”昇華”によって得た思考の冷静さが、小盾を掲げろと言っている。
しかし、腕があまりに重い。間に合わない……。
「––––ッ」
そこに割り込む影があった。カヌレだ。
騎士の剣を丸盾で弾き、押し返した。騎士は軽やかに後ろに引いた。
「騎士たる者が決闘に割り込むとは」
「––––わたしは、もう騎士ではありません」
カヌレは丸盾を手に、ミトロフと騎士の間に立つ。ミトロフはその小さな背が震えているのを見た。
「わたしは……まだ、ここにいたいのです。騎士としてではなく、カヌレとして、この方をお守りしたいのです」
カヌレは残った手袋を抜く。白骨の両手が露わになる。その手袋を、騎士の足元に投げ捨てた。
「––––”決闘”を、申し込みます。わたしはミトロフさまの盾。共に戦います」
「兄である私と戦う、と?」
「はい」
「お前は何を賭けるというんだ?」
「この命を」
決然とした声だった。
騎士はしばし黙り込み、やがて、手袋を拾い上げた。手の中を見つめ、わずかに一度握ったかと思うと、それを投げ返した。
「よかろう。ふたり同時に来い」
そこで初めて、騎士は剣を構えた。
「ミトロフさま、勝手をお許しください」
カヌレが盾を構えながら呼びかけた。
「でも、これはミトロフさまのせいですからね」
「……ぼくのせい?」
「わたしにお与えくださったからです」
「何も与えた覚えはないんだが」
「いいえ、いいえ。たくさんのものを頂きました……わたしは、あなたに希望を見てしまった。この目で確かめたいのです。ミトロフさまの剣が兄に届くのを」
「そうか」
「だから、どうかわたしに盾を務めさせてくださいませ」
「わかった。任せる」
ひとりではない。だから、できることがある。
ミトロフは疲れ切った身体の内に、どこからか沸き立つ力を感じた。
もう無理だという思いがあった。
今ではまだやれると、思う自分がいる。
ひとりで背負う必要はなかったのだなと、心が軽くなり、燃えるような熱を宿す。
「……ぼくらは、パーティだ」
「はい!」
騎士が来る。振るわれる剣は先ほどよりもはるかに鋭い。しかしカヌレはそれを的確に、冷静に弾く。金属音と火花が舞う。騎士の猛撃にカヌレは引かない。
「––––む」
疑念。あるいは違和感。騎士は剣筋を変える。足を踏み込み、力を込めた一撃。それすらもカヌレは受ける。足は地面に着いている。
ふたりはこれまでに数え切れぬほどの試合を行ってきた。ただの一度もカヌレが勝ったことはない。
だが今のカヌレは呪われた身。人の姿を失った代わりに、魔物の力を手に入れた。その膂力は盾を支え、カヌレの意思を鉄の壁に変えている。
「––––ぁぁッ!」
盾と剣の鍔迫り合い。押し勝ったのはカヌレである。騎士は一歩、たたらを踏んだ。
カヌレの背後で力を溜めていたミトロフが躍り出る。
騎士が剣を持つ腕とは逆に位置を取り、鋭く、最短を狙い、突く。しかし、避けられる。
ミトロフの息に合わせカヌレが盾を振るう。しかし、剣で押し戻される。
まだだ––––と、ミトロフは考えている。この戦いが始まったときから、勝機はひとつしかあり得ないと分かっていた。
ミトロフは姿勢も低く踏み込み、細い針のような剣で斬りあげる。
騎士は躱す。ミトロフを狙って剣を振るう。
まだだ––––。
カヌレが割り込み、剣を弾いた。ミトロフは逆側に踏み込み剣を打つ。
騎士は躱す。拳でカヌレの盾を押し除け、ミトロフとの間合いをこじ開ける。
カヌレが盾を振るう。騎士が剣で受ける。ミトロフが騎士の脚を狙う。騎士は脚を浮かす。カヌレが盾で騎士の顔を打とうとする。騎士は姿勢を下げる。ミトロフが騎士の腹を狙う。剣で弾かれる……息をする間もない攻防。すべてを騎士は防ぎ、躱し、反撃する。
ミトロフを狙う騎士の剣の全てをカヌレが防いでいる。
まだだ––––。
一瞬すら気の抜けない戦いの中で、ミトロフとカヌレの意識が繋がっていく。ミトロフの意図を、カヌレが察する。カヌレの動きを、ミトロフは対応する。
互いに知っている。そのリズムを共有している。ステップを合わせ、右へ、左へ、動きを支え、呼吸を合わせ、くるくると回るそれはさながら––––ふたりで踊るワルツのように。
ミトロフの精神は研ぎ澄まされていく。体力は底をついている。しかし精神力が、根性が、ミトロフを動かす。
ふたりの動きは洗練されていく。攻撃と防御が一体となっていく。カヌレが盾を、ミトロフが剣を。呼吸はついにひとつとなり、そして。
カヌレが騎士の剣を弾いた刹那、ミトロフの一刺が騎士を脅かした。
「––––」
騎士が反応する。それは理性でなく本能である。鍛え抜かれた戦う者としての習性が、危険を察知して反射で動く。ミトロフの剣を受け流しながら反撃に移る。
ミトロフの想像も付かぬほど積み重ねた修練の果てに染み付いたその動きは、もはや本人の意思とは関係がない。考えるよりも早く振るわれた剣は、確実にミトロフを討ち取るための一撃である。
死の予感を纏った騎士の反撃。
––––来た、ついに。
だからこそミトロフは、これを待っていた。
騎士が手加減をすることは分かりきっていた。自分のような存在に対し、本気を出す必要も意味もない。
手加減とは余裕だ。余裕のある人間に隙はない。
一瞬でいい。相手の余裕を奪うことができるか。騎士に”手加減のない攻撃”をさせることができるか。そこにしか勝機はないとミトロフは踏んでいた。
騎士の剣撃は恐ろしいものだった。しかし、ミトロフはそれを迎え撃つ。
”昇華”によって強化された冷徹なまでの精神力が恐怖を塗りつぶし、足を前に踏み込ませた。
歯を食いしばる。最後の力の全てで柄を握りしめる。痛みを耐える覚悟を、もうしている。
騎士の剣を見ている。冷静に、静かに加速した精神はこの一瞬だけ時を緩め、剣筋を確かに見定める。
来る場所に、小盾を置く。それが使い方だ––––。
ミトロフは小盾を掲げた。そのまま、さらに前に出る。同時に刺突剣に体重を、思いを、全てを込めて、腕を突き出す。それは優雅さとは無縁の体当たりに等しいものだった。
左腕に衝撃が走る。手加減のない一撃はミトロフの想像を超えていた。小盾が鈍い音で割れた。
構わないとミトロフは思った。初めから知っていたことだ。盾が割れようと、腕が砕けようと、好機は相討ちの狭間にしか存在しない。
届け、とミトロフは叫んだ。
ただ、一刺。
––––そこでミトロフの意識は途絶えている。




