太っちょ貴族は立ち向かう
「––––ほう」
と、ひと声。まるで驚いた様子もなく、騎士は頷いた。
「何を賭けて剣を握る?」
「ぼくが勝てば、カヌレを貰う」
「であろうな。では私が勝ったら?」
「”アンバール”の小袋をひとつ」
「なに……?」
その時ばかりは騎士の声に驚きと疑念が混じった。
それは小さな確信だった。ミトロフは正体を知らねど、”アンバール”に価値があることは分かっている。
カヌレが”アンバール”を知らなかったことと、ポワソンの言葉から推測するに、”アンバール”はごく最近、それも権力者の間でだけ、需要が高まっているに違いなかった。
ミトロフは知っている。権力者……貴族というのは、希少なものに目がない。そして流行を決して逃さない。
常に真新しく、価値のあるものを探し、それを手に入れるために余念がない。周りの貴族たちに見せつけることで、己の地位と権力という格を示す手段だからだ。
”アンバール”はその道具として重宝されているに違いない。
そして、カヌレが有力者の従者をしていたであろうことと、目の前の騎士甲冑の美しさからすれば、この騎士は必ず有力者と繋がっていると考えた。
ならば”アンバール”の価値を正しく認識している、と。
「どこで手に入れたか、聞いても?」
「ブラン・マンジェと”商談”をしたんだ」
「証拠はあるか?」
ミトロフは腰に下げた小鞄から、”アンバール”を取り出した。それはアペリ・ティフから返礼にと渡された時のものである。投げると、騎士は危うげなく受け取り、じっくりと眺めた。
「なるほど。偽りではないようだ」
投げ返された”アンバール”を、ミトロフは空中で掴みと……れず、出っ張った腹に当たって床に落ちた。
「……」
「……」
ミトロフは屈み、”アンバール”を拾い、小鞄に戻す。
「……ぼくが勝てば、カヌレをもらう。あなたが勝てばこれをひと袋」
ミトロフは何事もなかったように条件を繰り返した。
「興味深い話だが、貴公は私に勝てると思っているのか? 決闘とは、魔物を相手にするのとは訳が違うぞ」
「もちろん分かっている。どうだろう、条件を近づけるために譲歩してくれないか」
「譲歩とは?」
「あなたの身体に剣が触れたら、ぼくの勝ち」
ミトロフは堂々と言った。恥も外聞もなく、心持ち胸を張り、顎を上げ、腕を組み、まさに貴族としての威風を纏って、そこに立っている。
ふ、ふ、ふ、ふ、と。騎士甲冑の中で笑い声が響いた。それはなかなか止まらず、騎士甲冑の肩が震えているほどだった。
「貴公には、矜持というものがないのか? 決闘を挑みながら、そのような条件をつける者など聞いたことがない」
「矜持? そんなものはない。ぼくは勝つためになんでもする」
再び、ふ、ふ、ふ、と騎士は笑う。笑いながら膝を落とし、黒の革手袋を拾った。それをミトロフの足元に投げ返す。
「その条件で良い。貴公の剣が私に届けば、負けを認める」
騎士は笑みを止めた。
途端、空気が変わったことを知る。冷えている。覇気、熱気、殺気……そんなものはない。ただ、騎士は冷え冷えとしている。静かに、夜の湖面のように凪いでいる。
「––––さあ”決闘”をしよう」
▼
場所を移した。そこはギルドの中庭である。ミトロフが小盾の講座を受けた場所は、人目にもつかず、地面も整い、決闘をするのにちょうどいい場所である。
ミトロフは受付嬢にまた講座を受講したいとささやかな嘘を伝え、この場に通してもらった。
講師として再びソンが連れてこられたが、手短に訳を話すと興味もなさげに「好きにしろ」と鼻を鳴らして壁際に寝転んだ。時間いっぱいまではここで仕事をしたという言い訳のためである。
騎士はすでに待っている。準備もなく、構えもない。常在戦場という言葉を、ミトロフは思い出した。
ミトロフも向かおうとはしているのだが、カヌレがどうしても行かせてくれないでいる。
「なりません。ミトロフさま、兄は化け物なのです」
「赤目のトロルより強いのか?」
「比べることが愚かなほどに」
ミトロフは茶化したつもりなのだが、カヌレは真剣に返答した。ミトロフも態度を改める。
「……強いのは、分かる。いや、分かるつもりだ」
「失礼を承知で言わせていただきます。ミトロフさまでは、剣先ひとつ届くわけがありません」
「きみはそう思うんだな」
と、ミトロフは余裕の表情で言った。頼もしくも見えるが、カヌレにはそれが、自分の力を過信した人間の笑みに見える。
「たしかにミトロフさまは迷宮で”昇華”を得られているのかもしれません! ですが、兄はその程度ではどうにもならないのです!」
「きみが臆病なのはよく分かった。心配はありがたいが、そこで座っていてくれ」
「ミトロフさま!」
「なあ、カヌレ––––きみのやりたいことはなんだ?」
「––––え?」
ミトロフはすれ違いざま、カヌレの肩を叩く。
「行ってくる」
「お、お待ちください!」
ミトロフは振り返らず、騎士の元へ向かった。
兄は化け物なのです。
カヌレの声が耳に残っている。カヌレは、強い。そのカヌレが化け物と言うのだから、騎士はもっと強い。
勝てるわけがない。
ミトロフは自分でもそれをよく分かっている。絶対に無理だと、自分の声が聞こえている。
怖い。ただ、怖い。
手が震えている。
足が震えている。
今にも漏らしてしまいそうだ。
絶対に勝てないと心底思っている相手に、それでも挑む自分の愚かさ。なぜ自分はそんな愚かなことをするのかと、何度も自問している。
ミトロフはふわふわと覚束ない足で砂地を踏む。騎士の前に立つ。小盾のベルトをキツく締める。
「ここで取り下げても良い」
騎士が柔らかな声で言う。
それはおそらく、慈悲だった。
恐れていることを見抜かれていると、ミトロフは察した。
自分の虚勢を、矮小さを、弱さを、知られている。
当然だ。
騎士と比べて、自分はどうだろう。
身体は弛み、鍛錬が足りず、積み重ねたものは何もなく、己を支える背骨は薄く、経験も浅い。
戦う前から分かるというものだ。これは無駄な行いだ、と。
だからこそ、ミトロフは剣を握った。
抜き、下段に払い、ピッ、と空気を切る。
弧を描きながら眼前に構え、剣を垂直に立てる。掲げた細剣は貴族の証である。
それは戦うという意思。命を賭け、立ち向かうための構えである。
「よろしい」
騎士は頷き、剣を抜いた。それは変哲もない直剣である。騎士もまた決闘儀礼のために構え、それからゆるりと力を抜いた。ほとんど自然体のその立ち姿は、舐められているのか、そうした構えなのか。
ミトロフは分からない。だから、進むしかなかった。




