太っちょ貴族は羽蟻に挑む
「カヌレ。ぼくはきみが好きだ」
「––––ミトロフさま、パラポネラの毒が頭に……?」
朝、ギルド前の広場で顔を合わせるなり、ミトロフが宣言した。
カヌレは黒革の手で口元を覆い隠し、悲しげに嘆いた。
「すぐに施療院に参りましょう。わたしが付き添います」
「ぼくは正気だ。きみと迷宮に潜る日々が、ぼくはきっと、楽しいのだと思う」
「……これは、別れのご挨拶でしょうか」
打って変わって、カヌレはしゅんと肩を落とした。
すでに日は月末を前にしている。カヌレの兄が迎えにくる日はもうすぐそこだった。
それを分かっていながら、カヌレは近づく日を見ないように過ごしてきた。ミトロフもまた、目を逸らしていた。言葉にしてしまえば、その別れが足を早めて近づいてしまうように思えていた。
「いいや、違う」
とミトロフは首を横に振った。
「昨夜、よくよく考えた。ぼくは何がしたいのか、と。ここしばらく、ずっと金を稼ぎたいと思っていた。金があれば良い生活ができる。それがぼくに必要なことなのだと。だが、金を稼ぐことは、ぼくにとって大事な要素ではなかった。金のために冒険をすれば、迷宮探索はただの労働になってしまう」
カヌレはミトロフの言葉を黙って聞いている。
「きっかけは、生活のためだ。今でもそのために、金のために、迷宮に潜っている。だが、ぼくはきみと迷宮に挑むことが、楽しい。ミケルと出会い、他の冒険者たちと出会い、想像もしなかったようなものを見て、魔物に挑んで苦戦して、自分を鍛え、また挑んで……この日々が、好きだ。生まれて初めて、楽しいと、生きていると感じられる」
きみもそうじゃないか、とミトロフは訊いた。
はい、とカヌレは答えた。
「わたしも、こんなにも楽しい日々があるとは、思いもしませんでした。ミトロフさまと迷宮に潜る日々は、まるで……まるで、夢のようでございました」
カヌレの声はかすかに震えていた。
呪いにより肉体を失い、それでも声は震え、涙は流れるのだろうか。
「こんな日がいつまでも続けばと、自らの境遇も忘れ、我儘を思ってしまいました。本当に、楽しかった。すべて、ミトロフさまとグラシエさまのおかげです」
「そうか。きみもそう思ってくれているならよかった」
ミトロフは満足げに頷いた。それで話は終わったとばかりに、ミトロフはギルドに顔を向ける。
「では、行こうか、カヌレ。さっさと片付けてしまおう」
「片付ける、とは?」
「”羽付き”のディノポネラを倒す」
「……はい。楽しそうですものね?」
カヌレは、寂しさを押し隠した声に無理矢理楽しげな様子を載せている。日を置かず兄は迎えに来る。これがミトロフとの最後の迷宮探索になることを分かっていた。
しかしミトロフはカヌレの問いに、いいや、と否定を返した。
「––––”甘い蜜”のためだ」
▼
ふたりは11階まで降りて、前回と同じ横道に辿り着いた。鉄扉に手をかけるが、鍵がかかっている。
そこでしばらく待っていると、期待通り、通路の向こうからアペリ・ティフが姿を表した。
首から下げた紐の先に、古びた鍵がついている。それで錠を開け、アペリ・ティフは二人を中に招き入れた。
「……ミトロフ」
「やあ、アペリ・ティフ。ブラン・マンジェに会いに来た」
「分かってる。もう来ている……でぃのぽねら、倒してくれる?」
小首を傾げるアペリ・ティフの表情には不安げな色があった。
「やはり恐ろしいのか、ディノポネラは」
「うん。危ない。大人、いま少ない。倒せない」
「大人が少ない?」
それはどこかに出かけているということだろうか、と訊き返そうとしたとき、奥の通路からブラン・マンジェが歩いてきた。
「ミトロフさん、来てくださったのですね」
「ああ。クエストの依頼、受けようと思う」
今度は嫌味の応酬もなく、話は素直に進んだ。
「それは助かります。実は昨日の夜から、すぐ近くで巣を掘っているのです。あと数日もすれば危ういところでした」
「近くにいるなら都合がいい。案内してくれ」
こちらに、と、先を歩くブラン・マンジェについていく。
一本道だった横道は、次第に広がり、分かれ道も増える。右に曲がり、進み、左に曲がり……道は複雑になって、ミトロフは元の道に戻る自信がない。”表”よりもはるかに迷宮と呼ぶに相応しい道のりだった。
ずいぶんと歩いた気がする。ふとブラン・マンジェが足を止める。指先の出ない裾余りで指さした先に、それがいた。
平たく伸びたお椀型の空間である。その奥の壁に横穴を掘っている一匹の蟻がいる。
「……たしかに、大きいな」
ミトロフは顎肉を揉んだ。
パラポネラよりも二回りは大きく、全長はミトロフと同じか、それ以上はありそうだった。黒々とした体格は硬さを誇り、手足には黄金の短毛が生えている。その背にある一対の羽が、ディノポネラをますます大きく見せていた。
「カヌレ、大丈夫か?」
「……もちろんです」
声に覇気がない。あれほどの大きな蟻ともなれば、確かに嫌気もさすというものだった。ミトロフとて先ほどから背筋がぴりぴりと痺れている。気を抜けばぶるりと震えてしまいそうだ。
「……わたくしたちはここに。もし怪我などなされましたら、すぐに助けに参ります」
「あなたが? アペリ・ティフが?」
「いえ、男たちが控えております。ディノポネラを討つことは難しくとも、助けること、討ち損じたときにとどめを刺すことはできましょうから」
「頼もしい話だ」
言われて見回してみるが、どこに男たちとやらがいるのか、ミトロフには分からない。
まあ、構わないさ、とミトロフは意識を切り替える。
「カヌレ、頼みがある」
「はい。なんなりと」
「ぼくに怪我が及ばぬように、守ってほしい。寝込むようなことは避けたい」
「承知しました」
短い返答ながら、そこにはカヌレの決意のような熱がこもっている。
カヌレは盾の握りを確かめてから、戦いでフードが乱れぬように首元の留め具を調整した。
ミトロフも小盾のベルトを引き締める。刺突剣を抜き、柄止めの緩みを指で改める。
「行こうか、カヌレ」
「はい、ミトロフさま」
ふたりは同時に駆け出した。




