太っちょ貴族はとっさに動く
ミトロフは咄嗟に顔を引き戻す。瞬時に視界を走らせるが、どこにもパラポネラはいない。
いや、どこかにいるはずだ。
”昇華”によって研ぎ澄まされた冷静さが思考を回す。
カヌレも気づいている。ミトロフの背後に目をやっている。カヌレの挙動が迷っている。見つけられていない。
ならば、と。ミトロフは腰の剣に手を伸ばす。カヌレを押しのけようとして手を伸ばし、その背後に飛び上がったパラポネラを見た。
カヌレの身を隠す裾の広いローブの陰に隠れ、ここまで接近するのを見逃した––––ミトロフの頭は冷静に状況を把握している。
パラポネラが空中で体勢を変えている。大きく膨らんだ臀部をカヌレに向ける。鋭い毒針が見えている。
カヌレが壁となっている。パラポネラを斬り払うことはできない。
ミトロフは瞬時に判断した。
剣を掴むために伸ばした腕を前に突き出す。踏み込み、カヌレのローブの襟を掴み、引き寄せる。
「––––ぁ」
不意に引かれたカヌレは、ミトロフの腕の中に倒れ込む。
すでにその背後にパラポネラが迫っている。カヌレの背中と針の間に、ミトロフは左腕の小盾を差し込んだ。
衝撃は点。腕が痺れるような重さもない。
ミトロフが腕を振り払うと、パラポネラは空中で体勢を整えながら落ちる。
振り払った盾に一本、鋭く太い針が突き立っていた。茜色の光に、針が帯びた赤黒い液体がてかてかと反射している。
これが毒らしいな、とミトロフが考えた矢先に、左腕が弾けた。
「––––!?」
錯覚だ。それは急激に膨れ上がった痛みだった。左腕の中で熱風が炸裂したような衝撃に、一拍遅れて毒を打たれたのだと認識する。
それは痛みを超えて焼けるような熱に変わっていく。あまりの熱さに叫ぶことすらできない。奥歯を噛み締め、膝から落ちるように座り込む。
「ミトロフさま!?」
カヌレは瞬時に状況を把握し、ミトロフの傍らに膝をついた。小盾に突き立った毒針は、革を貼った木板を割って貫通していた。先端が腕に食い込んでいる。
カヌレは黒革の手で毒針を握り、すぐさま引き抜いた。
「っ、……カヌレ、これは、痩せるぞ……」
ミトロフの顔には急激に脂汗が噴き出していた。
「なにをご冗談を! すぐに毒消しを……!」
そのとき、壁に弾かれていたパラポネラが接近する。毒針を失ってもなお、戦意は旺盛である。
飛び掛かってきたパラポネラを、カヌレは手刀で叩き落とした。呪いにより強化された膂力で、パラポネラの頭が飛んだ。
カヌレは意識も向けず、毒液に濡れた黒革の手袋を外して捨てた。白骨の指が現れる。その手で背負った荷物の紐をとき、毒消しの瓶を取り出した。
蓋を開ける手間ももどかしく、カヌレは瓶の口を骨指で弾いた。割れたガラス瓶の先から、ミトロフの傷口に薬液をかける。途端、傷口が泡立った。
「……うおおおお!? 毒より痛いぞこれは!?」
「我慢を」
痛さに耐えようもなく暴れるミトロフの腕を、カヌレがぎゅっと押さえ込んだ。関節を痛めぬように、ミトロフが暴れる力を柔らかく受け流しながらも決して離さない。
ミトロフは歯を食いしばって堪えることしかできなかった。
全身に力が入っている。それはミトロフの意思ではなく、身体が勝手に反応している。
傷口に泡立つ薬液はたしかに効能を果たしている。焼ける痛みは徐々に治まり、腕の中に疼く棘だらけの塊だけが残っている。
「……迅速な対処だった。感謝する」
血が脈打つたびに腕の芯が痺れるが、その痛みに耐えながら会話をするくらいの余裕はできた。
全身が汗で濡れている。視界が明確になってくる。腕を抑えているカヌレの骨の手指に目が向く。
カヌレは視線に気づくと、さっと手を離してローブの中に隠した。
「……申し訳ありません。わたしの失態です」
「いいや、ぼくたちふたりの失態だ。警戒を怠りすぎたし、パラポネラを甘く見ていた」
ミトロフは立ち上がり、懐から取り出したハンカチで顔の汗を優雅に押さえた。
「––––ミトロフさま、わたしを庇うのはおやめください」
カヌレが毅然と言った。
「わたしは騎士であり、呪われた身です。この身に毒は効きません。わたしが盾になるべきです」
声音は硬質な真面目さが満ちている。
「なるほど、きみの意見は理解した」
ミトロフはハンカチの端を合わせて丁寧にたたむ。
「きみが騎士だと言うなら、ぼくは貴族だ。紳士は淑女を守らねばならない」
「しゅ、淑女……!?」
カヌレが喉を詰まらせた。
「わ、わたしは騎士です!」
「騎士だろうと淑女は淑女だ」
「それに呪われた骨身の姿です!」
「骨だろうと淑女は淑女だ」
「わたしはミトロフさまより頑丈で強いのですよ!?」
「その通りかもしれん。だが、傷付かぬわけではないだろう」
カヌレは返事に詰まった。
傍らに落ちていた黒革の手袋を、ミトロフは拾う。針を抜くときに着いた毒を、ハンカチで丁寧に拭う。
ミトロフは恐れもなく、カヌレがローブの下に隠した右手を取ると、骨の指に丁寧に手袋をはめた。
「きみが困っているならぼくが助ける。ぼくが困っていたらきみが助けてくれ。それが仲間というものだろう?」
カヌレはしばらく返事をしなかった。
ミトロフのふっくらとした丸い手の中にある自分の手を、じっと見つめている。
さすがに沈黙が長すぎるあまり、ミトロフが不安になってきたころ、カヌレがぼそりと言った。
「ミトロフさま、お願いがあるのです。お嫌でしたら、どうか遠慮なく断ってください」
「う、うむ? 聞こう」
「もう少しだけ––––このまま、手を握っていてくださいますか」
カヌレの言葉にミトロフは返事をしなかった。なぜと訊き返すことも、なんだそのくらいと笑い飛ばすこともしなかった。
ときにはどんな言葉にも託せない思いがある。ミトロフはそのことを知っていた。
だから手の内にあるカヌレの手を、ぎゅっと握り返した。




