太っちょ貴族は夜市で騎士を見つける
風呂からの帰りに、ミトロフは夜市場に脚を向けた。
考えごとに専心するあまり、長湯が過ぎた。水風呂に浸かってはみたが顔も身体もまだ熱を籠らせている。夜の涼やかな風に当たりながら、少し散歩がしたくなった。
建物の間には何本もの紐が張られている。そこにランタンや飾り布、たまに洗濯物が干されている。
通りはあまり広くもないが、左右に肩を押し合うように屋台が並び立ち、屋台を持たない商人は地べたに布と商品を広げている。
肉や魚を焼く匂いと煙が絶え間なく、木箱に山盛りにされた乾物や野菜、フルーツなどは選びきれないほど数が多い。
そうした売り物は昼間とそう変わらないが、夜には酒を売る屋台が多くなる。酒の詰まった大きな木樽があちこちにでんと構えられ、ひっきりなしに注がれては客に渡されていくのだ。
歩きながら飲む者もいれば、通りの端に腰を下ろしたり、どこからか引っ張り出された椅子やテーブルで酒盛りをしている人間もいる。
ミトロフが初めてこの光景を見たときには祭日なのかと思ったものだが、今ではすっかり見慣れた光景である。ここは毎夜毎晩お祭り騒ぎなのだ。酒を飲み、肉を食い、時には踊って歌う。
そうした暮らしの明るさは豊かさのようでもあり、ともすれば背後に迫った陰に肩を掴まれてしまう不安から逃れるためであるようにも思えた。
迷宮は街を豊かにしている。産出物は貿易の品となり、加工の素材となり、食料となる。資源を生み出す迷宮は仕事と金を産んでいる。ここ数年で街はどんどんと豊かになりつつあるが、過剰な変化は街に歪みと格差を生み出すきっかけにもなっていた。
ミトロフがふと顔を向ける。建物との隙間にある細道に、痩せこけた子どもたちの姿が見える。彼らの姿に目もくれず、酒と肉串を手にした男たちが笑いながら通り過ぎていく。
迷宮が発見された街は豊かになる。その豊かさの灯りに惹かれ、人々は蛾のように集まる。やがて街は坩堝となり、そこには光も陰も、豊かさも貧しさも、幸も不幸も入り混じる。
子どもたちと視線が合った。ひどく暗い目で、彼らはミトロフを見返している。
その視線を掴みきれず、ミトロフはふっと前を向いた。
ミトロフは貴族として生まれた。
家に困らず、食うに困らず、学びに困らなかった。自分の生き方に悩むことすら、おそらくは贅沢だ。
今では冒険者となり、安寧な生活とは言えないが、その生き方の根底を支えているのもまた、貴族として生きた時間に培った経験である。
剣の扱い方を学んだから、魔物と戦える。
文字を学んだから、迷宮の情報を調べられる。
百般の勉学に時間を費やしたから、深く考えることができる。
今までは、その人生があまりに虚しいものに思えていた。使うあてもない知識、認められない剣術、誰にも求められない自分という存在の価値。
家を追い出され、冒険者となったいま、ミトロフの世界は広がりつつあった。この世には種々様々な人々がいる。その数だけ、人生がある。
誰もが安寧ではない。悩みがあり、事情があり、苦しみがあり、足掻きながら生きている。
今の自分とは別の人生であれば、もっと楽だろうに……。
かつてそう考えた自分は、おそらくは間違っていた。
そんな気がしている。
「街で鎧なんざ着てんじゃねえぞ、邪魔だなあ!」
ふとミトロフの前方で男が騒いでいる。
顔を上げれば、人混みの流れが変わっている。争いごとの空気を避けようと、人の波が端に寄っているのだ。
先詰まりの人の背にミトロフも足を緩めれば、並んだ人の頭の隙間から騒動の中心が見える。
騎士、である。
その鎧と兜に見覚えがある。
「ふむ、これは失敬した。この料理が実に興味深くてな」
「市場に騎士がいるのはおかしいだろ!」
と、もっともなことを言い捨てて、赤ら顔の男は騎士を避け、人混みに肩を割り込ませた。
人々は屋台の前に立つ騎士を遠巻きに歩いていく。
夜市には冒険者風の人間も多く見られるが、剣を下げてはいても、鎧まで着ているものはいない。
そんな中で甲冑の肩に装飾も美しい外套を掛けていては、近寄り難いのも当然だった。腰には剣もあり、赤い飾り紐が垂れている。
「店主、これで一人前もらえるか」
「ひえ……旦那、すみませんが、銀貨をいただいても釣りの用意が、あの」
「しかしこれ以下の手持ちがない。釣りは結構だ」
「そんな恐れ多いことはできません! 騎士さまから銀貨をいただくなんてことは! お代はいりやせん、どうぞお好きなだけお持ちください!」
「む……いや、そうはいかんだろう。すまないが、誰か両替を頼めないか。両替商の居場所を教えてくれてもいい」
と、騎士が兜顔を周囲に向けるが、もちろん誰も名乗りは出ない。夜市にいる騎士鎧など明らかに身分違いも甚だしく、快く親切にしようと考える人間などいない。
「……」
助けもなく、無言で屋台に並んだ料理を見つめる銀色の兜に、ミトロフは哀愁を見た気がした。
それでも一度は人の波に紛れてこっそりと通り過ぎたが、ふと立ち止まり、ぶひ……と鼻息を鳴らした。
踵を返して騎士の元へ向かう。
「店主、ぼくが払おう」
「! 貴公は……」
鎧の中で声が反響している。わずかに驚いた様子であるが、ミトロフは顔も向けない。助かった、という表情の店主に代金を渡し、商品をもらう。そのまま騎士に差し出した。
こんな鎧姿を見間違えるわけもない。迷宮で出会ったカヌレの兄である。
「どうぞ」
と言えば、騎士はミトロフと料理を見比べ、「すまない」と受け取った。
「両替商を見つけ次第、金を返そう」
「いえ、金は結構。いつもカヌレに世話になっている」
理由としては苦しいが、金を返してもらうまで騎士と行動をともにするのも気まずい。小銭を惜しむよりもこの場を離れたかった。
「では、ぼくはこれで」
と踵を返してさっさと歩き出そうとするが、それよりも早く肩に手を置かれた。
「ところで、ここはどこか教えてもらえないか。宿への帰り道が分からなくてね」
ミトロフはゆっくりと振り返る。泣き出しそうにも、呆れたようにも、落胆したようにも見える、複雑な表情だった。




