太っちょ貴族は自分のやりたいことを考える
「わけは分からんが、飯は美味い」
ミトロフはテーブルの上に並んだ食事を端から胃袋に収めていく。どれも屋台で買ったものだが、地上の屋台やギルドの食堂で食べるものよりも味が良い。それは肉が新鮮であることや、香辛料がふんだんに使われているせいだろうとミトロフは感じる。
たしかに値段は割増されているが、迷宮探索の途中で調理されたあたたかい食事を食べられるのであれば、冒険者は惜しまず払うだろう。
ふたりは通りの一画に並んだテーブルとベンチに腰を落ち着けていた。
多くの冒険者が、屋台で買った食事をテーブルに広げ、酒を飲み、声を上げて笑っている。それは地上と変わらない光景だった。
いつまでも沈まない夕日のような色合いがなければ、迷宮の中だということを忘れそうになる。
そんな夕暮れの街並みに驚く気持ちも、屋台から香る肉の焼ける匂いの前には勝てなかった。魔物と戦ったあとは特に腹が空くものである。ミトロフの身体が栄養を求めているのだ。
目についた屋台を端から順番に買い漁ったために、四人掛けのテーブルは食い物でいっぱいになっていた。それがみるみるとミトロフの口に吸い込まれてしまうのを、カヌレは眺めている。
「すごいですね……」
カヌレが感心したように吐息を漏らす。ミトロフは襟首に下げたナプキンで口を拭きながら頷いた。
「迷宮の中でこのような場所があるとは知らなかった。建物は新しい。ここ数年で作り上げられたものなのだろうな」
「いえ、ミトロフさまの食べっぷりがです」
「そうか?」
思い返すと、カヌレと共に食事をする機会はあまりなかった。カヌレ自身、呪われた身のために飲食が必要ない。それを知っているために、打ち上げに食堂へ行こう、と提案することもなかった。
探索の途中でカヌレが軽食を用意してくれることもあったが、ミトロフにとっては文字通りの軽いおやつ感覚だった。
「昨夜の夕食でもそうでしたが、ミトロフさまは健啖家でいらしたのですね。これまでご用意していた軽食では物足りなくありませんでしたか」
「たしかにいつももっと食いたいとは思っていた。カヌレの作る食事は本当に美味い」
ミトロフはしみじみと言った。
カヌレは優れた料理人であるというのがミトロフの認識だった。
最初のころはギルドで販売されている携帯食を加工した料理が主軸だったが、やがて市場で乾物や野菜などを見繕うようになった。
迷宮の中、探索の小休止には、携帯コンロと小さな鍋やフライパン、限られた調味料で素朴ながらも食欲をそそる料理を作る。
「……あ、ありがとう、ございます」
カヌレは言葉に詰まるように答える。それは日頃の落ち着いた所作とは対照的に、幼い純朴さを滲ませている。
カヌレの正確な年齢を、ミトロフは知らない。初めて出会ったときには慌てふためいていて、年下の少女のような印象を受けたが、最近のカヌレにはまるで淑女のように落ち着きがある。
「きみは騎士の家系だろうに、料理ができるんだな」
料理とは立派な技術のひとつだ。市民の多くは家で調理をしない。調味料を揃えるにも、毎日炊事をする燃料にも、準備や片付けにも、とにかく金と時間と手間がかかる。屋台や食堂で食うほうが安くて味も良い。
カヌレはどこか恥じ入るように身体を小さくして、フード越しに分かるほど顔を下げた。
「……わたしは、剣よりも料理が好きだったのです。幼いころのわたしは好き嫌いが激しく、ろくに食事をしない子どもでした。当家の料理人の食事は、父や兄たちの……激しく身体を動かす者のための濃い味付けで、わたしの口に合わなかったのです。見かねた乳母がたくさんの料理を作ってくれました。どうにかわたしが食事をするように、と」
乳母か、とミトロフは頷いた。
貴族の家では、母が子をつきっきりで育てるということはない。日に1時間と顔を合わせないこともあるほどだ。乳母が母親がわりであり、ミトロフにも懐かしい思い出がいくつかある。
「やがて騎士としての訓練が始まると、わたしはよく泣いたものです。家族は厳しく、使用人たちは遠巻きにするだけで……あの人だけが、優しくしてくれたのです。あの人が用意してくれた料理を食べると、いつも心が温かくなった」
在りし日のことを思い出すカヌレの口調は柔らかく、そしてどこか寂しげだ。
「わたしがお願いすると、料理の作り方をいつもこっそりと教えてくれました。わたしは剣よりも、包丁を握っているときの方が楽しかったのです」
ミトロフは目を細めた。自分の胸に浮かんだ感情の色の名を、ミトロフは知っている。羨望だ。
「きみは自分のやりたいことを知っているんだな」
「ミトロフさまにもございますか?」
カヌレの質問に、ミトロフは答えられなかった。
やりたいこと? それは、もちろん冒険だ。迷宮を探索するのだ––––本当に?
自問には自答がない。分からない。
ミトロフが迷宮に潜っているのは、父に家を追い出されたからだ。
再会した父が戻ってもいいと言ったとき、それを断ったのはグラシエを助けたかったからだ。
そしてまだ、ミトロフは迷宮に潜っている。金を稼ぐために。生きるためには金が必要だから。
けれど、金を稼ぐことは、やりたいことというわけではない。
カヌレの質問は単純だ。
けれどミトロフは、自分の中に単純な答えを見つけられなかった。
幼い日から、ミトロフは何事もやらされてきた。家庭教師に指導され、父に言い付けられ、期待に応えて認めてもらうために、取り組んできた。その全てが、何の成果にも繋がらなかった。
「……分からないな」
とミトロフは答えた。
「恥ずかしいことだが、ぼくは自分のやりたいことを知らないんだ」
カヌレは首を横に振る。
「恥ずかしいことではありません。いつか探している言葉が見つかるのだと思います。単純な言葉が」
詩のようなカヌレの口ぶりに、ミトロフは目を瞬かせた。力を抜くように笑う。
「そうだと、ぼくも嬉しいな」
「はい。間違いありません」
カヌレも笑う。何の根拠もなくとも、誰かに肯定されることで落ち着く心持ちというのがあるらしいと、ミトロフは知った。
そして料理好きなカヌレが、騎士として役目を期待されてきたこと。呪いを受けたことで逃げてきた今もまた、家の事情のために連れ戻されることに、ミトロフはただ寂しさを抱く。
貴族は、家という大きな生き物を育むために、個を犠牲にする。それが役目でもあり、義務でもあり、宿命であるのかもしれない。
その生き方は、自分の生き死にすら時の運に任せるような冒険者とは対極にあるようにミトロフには思われた。




