太っちょ貴族の口はよく回る
「迷宮に潜るとは。お前には昔からよく驚かされる」
兜が動き、その奥にある視線がミトロフに向けられる。
「貴公が世話を見てくれていたのかな。妹が面倒をかけた」
「……いや、カヌレにはぼくの方が面倒を見てもらっているくらいだ」
「カヌレ?」
と、騎士は首を傾げ、ああと頷いた。
「そうか、カヌレか。場所を替え、名を変えれば、人生の定めも変わると思ったかな」
「……いえ」
「充分に楽しんだろう? 帰るぞ」
騎士は幼児をあやすかのように柔らかな声で言う。
カヌレは諦めたように俯いている。
ミトロフは眉間に皺を寄せた。驚きはしたが、事情は単純であった。もともと、カヌレはどこかから逃げてきた身である。そして彼女が兄と認めているのだから、騎士の身分は疑いようもない。
「待ってくれ、話が急すぎる」
「生憎だが、貴公が口を挟む余地はないことだ」
たしかにそうだ。聞くに、これは家族の問題であるらしい。しかしカヌレは、兄と再会したことを喜んでいるようにも見えなかった。
他家の事情に口を挟むべきではない。貴族として育ったミトロフは、それをよく理解している。それでも何かを言おうと思うなら、口を挟むだけの権利があると主張するしかない。
ミトロフは思考を巡らせる。
「––––ぼくはカヌレの雇用主だ」
「ほう?」
「彼女をポーターとして雇った。勝手に連れて行かれるのは困るし、契約違反だ」
「冒険者にも契約はあるか。たしかに、それは貴公に不利益だ」
ミトロフはひとまず息をついた。騎士鎧で迷宮に立つ姿は普通ではないが、中の人間とは理性的な話し合いができるらしい。
「さて、どのような契約かを訊いても?」
「……カヌレは、荷運びとぼくの探索の補助をする」
「契約期間はどれほどだ?」
ミトロフは咄嗟に、一年、と言いかけた。カヌレと期間の契約はかわしていない。でまかせに大きな数字を言って、ひとまず時間を稼いでしまえばいいと思った。
しかし、とミトロフの思考がまわる。”昇華”によって得た冷静さが今も働いている。安易な言葉選びを是正する。
騎士の男は理知的である。ミトロフの契約という言葉を尊重し、その内容を確かめた。それはおそらく、契約の条項について正しい知識と認識があるからに違いない。
ミトロフは一瞬の間に古い記憶を探った。
「……ひと月ごとに更新することになっている」
「雇用契約としては一般的だな。不平等なものなら踏み倒せたのだが、惜しいな」
甲冑の奥から息を抜くように笑う音が響いた。ミトロフは目を細めた。
「契約書を確認させてもらおうか。口約束なら別だが」
「もちろん契約書はかわしたとも」
「ではどこに?」
「実は先日、赤目のトロルと激しい戦いがあってな。その時にすっかり破れてしまったんだ」
「妹に渡した控えがあるだろう?」
「ああ、すまない、説明不足だった。カヌレが持っていた控えの契約書が破れたんだ」
「なるほど。驚く話だが、戦いの中ではよくあることだ」
「ああ、ぼくも驚いた」
騎士は愉快そうに頷いた。ミトロフは笑みを返す。
「では原本は無事、ということだな?」
「ああ、ぼくの相棒が大切に保管している。これが信用のおけるやつでね」
「ではその相棒とやらを紹介してくれるかな」
「ぜひそうしたいんだが、相棒はいま、止むに止まれぬ事情で故郷に戻っていてね。うっかり契約書も持って行ってしまった」
「なるほど、まるで作り話のように都合がいいな」
「ああ、ぼくも自分で信じられないよ。だが、これが本当の話でね」
ミトロフはよく動く自分の口に、事実、驚いていた。
そしてその口振り、不都合な事実を決して認めない話ぶりが、父––––バンサンカイ伯爵が交渉するときにそっくりであることを自認した。
ミトロフがまだ父に期待されていたころ、交渉の場に同席を許され、父がこうして話す姿を見てきた。
「では、雇用契約は交わしたが、その契約書はない、ということだな?」
「いいや、それは正しくない。契約書はある。しかしすぐには見せられない状況だということだ」
ミトロフは胸を張る。騎士の背は高い。見上げる形になる。騎士甲冑の威圧感に押し負けそうになる。
しかし、貴族とは権威。甲冑も剣も持たず、己が身ひとつで他者を従える存在である。ミトロフはその振る舞いを父から学んでいる。
ゆえに、なんの後ろ盾も、正当性も、地位もないまま、ただ誇った。堂々と立つ。自分こそが正しいのだと振る舞う。
「契約の条項を正しく確認できない場合、契約内容の保証は契約者同士の意思を尊重すべし……つまり、ぼくとカヌレが共に間違いないと認めるのであれば、それが契約の証と同義になる」
「古い契約の法をよく知っているようだ。なら、その条項にはこう続いているのも判っているな。……但し、本人の意志が間違いなく自由であることが保証される場合に限る、と。貴公が妹を脅してその意思を強制していないと、どう証明する?」
「簡単だ」
ミトロフはカヌレをビシッと指し、照覧あれとばかりに宣言した。
「––––ぼくより、カヌレの方が強い。彼女が逃げたければ、ぼくを叩きのめせばそれで済む」
しん、と静寂。迷宮のどこか遠くで、ガァン、と鈍い音が反響している。剣角兎が壁に突っ込んだに違いない、とミトロフは思った。
「ふ」
と。
「ふ、ふ、ふ、ふ」
騎士甲冑の中で、男が笑っている。しかしミトロフから見れば、白銀の勇ましい騎士が仁王立ちで小刻みに揺れているようにしか見えず、場違いな滑稽さがある。
騎士は急に笑いを収めた。
「よろしい。貴公の言い分を認めよう」
「それは助かる」
「契約の更新はひと月ごと。月末には、妹は自由の身だな。そのときに改めて話をさせてもらおう」
では、と言い置いて、騎士はあっけなく踵を返した。
かしゃん、かしゃん、と鳴る音が、迷宮の闇に残響して、ついに姿は見えなくなった。
ふう、とミトロフは息をついた。
全身に入っていた力が抜けた。あの騎士の纏う独特な空気に当てられたらしい。
「なんとも個性的な兄君だな」
ミトロフがカヌレを見る。すると、カヌレはいつの間にやらちょこんと床に正座をしている。
「––––ミトロフさま、ご面倒をお掛けしました。それに……それに、ありがとうございます」
カヌレはかすかに震える声で言って、黒の革手袋の指先を揃え、頭を下げた。
それは街中で初めてカヌレと出会ったときと同じ光景だった。
「いや、いいんだ」
とミトロフはぶっきらぼうに答えた。誰かに感謝されることに、慣れていない。




