太っちょ貴族はエルフの少女と手を組む
「シッ!」
横手から突き込んだが、コボルドは俊敏に避けた。たた、っと軽やかに後ろに下がり、ミトロフを見る。ミトロフもまた、コボルドを見る。
ゴブリンよりはひと回り大きい。特徴的なのは顔だろう。犬、あるいは狼だ。獣でありながら二脚で立ち、手には刃こぼれのした鉈を持っている。獣の俊敏さと、道具を扱う知性を備えた存在である。
「……おぬし、さきの男か! 早く逃げい!」
と、背後から少女が言う。
「迷宮では助け合うものなんだろう」
「あれはコボルドじゃ。本当なら地下4階に巣食う魔物。われらでは勝てぬ」
「だから諦めろって?」
「そう言うておる! あやつはわれを狙っておるゆえ、今のうちに逃げいや!」
「なんだその自己犠牲」
思わず振り返る。しかし少女は表情も変えず、冷静にミトロフを見返している。
「二人なら勝てる。諦める前に挑戦すべきだ」
そんな言葉が自分の口から出ることが、ミトロフには驚きだった。もう何年も、そんなことを考えもしなかったのに。
少女は青い目を見開き、ぽかんとしていた。
「……おぬし、良い人間じゃの」
と少女が言う。
「ああ、良い人間なんだ。こんなところで死ぬのはつまらない。だろ?」
ふ、ふ、と。口の端からこぼれるような笑い声。
しからば、付き合ってもらうとしようか。
少女が言うと同時に、矢がミトロフの横を通った。それは寸分違わずコボルドの顔を狙ったが、容易く避けられる。見えているのだ。
そして優れた俊敏性がある。
一足飛びにコボルドがミトロフに向かった。ゴブリンなど比べ物にならない動き。
ミトロフは眼前にレイピアを掲げた。
集中しろ、と言い聞かせる。
一手間違えれば、死ぬ。
だからこそ、引くな。前に出ろ。
長引けば勝てない。分かっている。自分の身体は怠惰の塊。動くには重すぎる。
コボルドが地を這うような低さから鉈を振り上げた。
ミトロフは半身になって避けた。死が眼前を通った。冷たい風が背骨を凍らせる。
顔を狙う。
いや、違う。
こいつは避ける。
それは直感だった。
狙いを瞬時に変え、ミトロフはレイピアで斬り払う。
それはコボルドが踏み込んだ右脚の膝を裂いた。
そしてすぐさまに、ミトロフはその場から横っ飛びした。
ビュ、と。鋭い風。
ミトロフの背後で矢を構えた少女が、開いた射線にすぐさまに撃ち込んだのだ。
コボルドはその矢を見ていた。飛びのこうとした刹那、ガクン、と身体が沈んだ。
右脚。
理解したとき、矢はコボルドの胸に突き刺さっていた。
まだ、動く。
横合いでミトロフが剣を構えている。流麗な所作は貴族の決闘のようでいて。
その細剣は鋭く、的確に、コボルドの首を貫いた。
同時に少女が放った二射目がコボルドの右目に突き立った。
残った左目から、命の火が消える。
それをミトロフは見つめている。崩れ落ちる重みに、首から剣先が抜けた。
交差は一瞬だった。
しかし、自分が死んでいたかもしれなかった。
生きている。と実感する。自分はいま、命を燃やしている。必死に生きている。
熱く溶けた鉄が頭の中に流しこまれたような奔流に、ミトロフはぐっと歯を噛んだ。全身がゾクゾクと震えるほどの痺れ。それは一瞬で通り過ぎたが、全身が熱い。
見やれば、エルフの少女もまた身体を丸め、堪えるように顔を顰めている。
「……これ、が、昇華、かの。なんとも」
少女が言う。
昇華。迷宮の中でのみ起きる現象だ。ミトロフは知識でのみ、それを知っていた。
「これで僕らは、生物としてひとつ上の段階になったのかな。実感がないけど」
拳を握ってみる。前より強くなったという気はしない。
「昇華した身体に馴染むには時間がかかるという話だ。コボルド程度なら、一晩も寝れば」
「明日には実感できるってことか。楽しみだね」
ミトロフは剣を払い、鞘に収めた。
先ほどまでの熱情、命を賭けた緊迫感。
そうしたものは余韻すらない。広場はただただ静かだ。
目の前に倒れ伏したコボルドだけが戦いの記憶を残している。
「改めて礼を言いたい。おぬしのおかげで命を拾った。ありがとう」
エルフの少女はミトロフの前にやってくる。青い瞳は柔らかく細められている。
「いいんだ。コボルドを倒せたのは君のおかげでもあるし」
「おぬしがすぐに射線を開いてくれたでの。われが狙っているのが分かったのか?」
「なんとなくそんな気がして」
どうして分かったのだろう、とミトロフは考える。
視線、だろうか。
幼いころから、ミトロフは他人の視線を意識していた。父が自分をどう見ているか、何を思っているか。あるいは兄、あるいはメイドたち。
視線には独特の気配がある。自分に向けられていれば、分かるようになった。
あのとき、コボルドと戦いながら、エルフの少女の視線を背中に感じた。それは鋭く、刺すようであった。
「われらは、相性がいいのかもしれぬな」と、エルフの少女はぽつりと言う。「おぬし、ひとりで探索を?」
「ひとりだし、素人だ。今日、はじめて迷宮に入った」
「それは豪気なことじゃ。われは4日かかって、ようやく慣れてきたというに」
「君もひとりで?」
「うむ。命を預ける相手を酒場や他人の紹介で見つける気にもなれぬでな。じゃが、いま見つけた」
と少女は言って、真正面からミトロフを見据えた。
「われはグラシエ。スイッツの森に住む古きエルフの狩人だ。どうしてもこの迷宮の5階まで潜りたい。もしおぬしも信頼できる仲間を求めているなら、どうじゃろう。われとパーティを組まぬか。おぬしなら、われは信用できる」
青い瞳の視線を、ミトロフは読み取る。
そこにはただ真っ直ぐな美しい光が灯っている。
不思議と、彼女が言うことにミトロフも同意できる。
「……僕はミトロフ。昨日限りで家から勘当された、元貴族の三男だ。僕も、君を信用できる気がする」
「なら、提案を受けてくれるということかのう」
グラシエはわずかに不安げな様子で小首をかしげる。白金の髪が肩からさらりと滑り落ちる。
ミトロフは頷いた。
「よろしく頼む。僕も迷宮を独りで探索するのは恐ろしかったんだ。グラシエがいると、心強い」
「よきかな」
と、グラシエは甘く微笑んだ。