太っちょ貴族は迷宮の人と出会う
地下10階はひとつの区切りだという。
初めて冒険者になった人間を、他の冒険者は“羽つき(ルービー)“と呼んで揶揄う。
ルービーはよく知られた鳥だ。幼鳥のころには頭に赤い羽がついているが、段々と小さく、そして白くなっていき、ついにその羽が抜け落ちると成鳥になる。
生まれたての冒険者が、ひとまず一人前だと認められる場所、それが10階だった。
ギルドとしてもそこに関門を置いているらしい。10階を踏破すると、ギルドカードに刻印をひとつ打つ。ランクアップの証、という訳だ。
では、なにがその関門を妨げるのか。
「くそ、兎というのは厄介だな!」
兎、である。
飛びかかってきた兎を、ミトロフはステップで交わす。
貴族として優雅に、まるでダンスのように避けてはみても、また別の場所から兎が飛びかかる。
ミトロフは左腕を構えた。
魔物の革を張り合わせたガントレットを、盾のかわりに使っている。兎とのすれ違いざまに、ガツンと衝撃がある。決して筋力豊かとは言えないミトロフでも、耐えられる程度のもの。しかし、恐ろしいのは衝撃ではない。
ぴっ、とミトロフの頬に血の筋が生まれた。ガントレットでは防ぎ切れない刃がある。
すぐさま振り返る。
着地した兎は頭を振る。長い垂れ耳が揺れる。迷宮の廊下に据え付けられたランタンの明かりを、耳が水面のように反射させた。
「……なにをどうしたら耳が刃になるんだ?」
小刀兎と呼ばれる魔物である。
二つの耳の縁は研ぎ澄まされた刃となっている。それを武器に、強靭な後脚で飛びかかってくる。それだけでも厄介だというのに、小刀兎は常に群れで行動するのだ。
空気を切り裂く音がする。
ミトロフはすぐさま反転し、細剣を振り抜いた。
剣は小刀兎の頭を的確に割った。斬った衝撃であらぬ方向に飛んでいくのを端目に、ミトロフはさらにまた身体を回転させる。
重い。身体が、腹の贅肉が。
早い。小刀兎が、その耳の刃が。
「––––ちっ!」
刃が左上腕を裂いた。熱。痛みはまだ来ない。
ミトロフはすでに狙いを付けている。小刀兎のその背に、細剣を叩き込んだ。交差の一瞬での戦いだった。
気を抜かず、ぐるりと周囲を見る。群れはいなくなったらしい。
少し離れた場所で、カヌレが丸盾を手に立っていた。周囲には小刀兎が何羽も転がっている。
「カヌレのほうが手際がいいな」
遅れてやってきた腕の痛みに眉を顰めながら、ミトロフは言う。
「丸盾と相性が良いようです。殴れば倒せますし」
「ぼくは苦手だ。身体が重い」
ミトロフの自虐に、カヌレはくすくすと笑う。近づいてきたカヌレは、腰につけた小鞄から小さな丸缶を取り出した。
「止血をしましょう」
「その軟膏に世話になりっぱなしだ。身体中が薬草臭い」
「効果は抜群だと、薬師のお婆さんがおっしゃっていましたよ」
ミトロフは左腕の傷口が見えやすいように、裂けた布をぐいと開いた。出血はあるが、傷そのものは浅い。剃刀で切られたようなものだ。
カヌレが蓋を開けて差し出した軟膏を指に取り、傷口を撫でるように塗り込めば、不思議とすぐに血は止まる。たしかに、効果は抜群だ。
「ぼくの全身が軟膏まみれになるか、服がボロ切れになるか。どっちが早いか見ものだな」
10階に入ってから、あの小刀兎のために全身のあちこちが切り傷だらけになっている。
もちろんミトロフは事前に、この10階にどんな魔物がいるのかは調べていた。しかし文書で確認するのと、実際に相手にするのとでは勝手が違う。小さな兎と言えど、想像していたほど容易い相手ではない。
「革鎧があれば、少しは楽になるのでしょうか」
「そうだな。しかし、高い」
それこそ手足を革の防具で守ればもう少し楽なのだろうが、魔物を想定して作られた防具というのは気軽に買い揃えられるものでもない。ここでもまた、金の問題が出てくる。
ミトロフの左腕にある革のガントレットとて、かなりの金額がした。それだけ質が良いことが今になって分かるが、購入に踏み切れたのは、ミトロフがまだ貴族としての金銭感覚だったからだ。それにあのときはグラシエが半額を出してくれた。
今の、冒険者としての稼ぎと懐事情を知ったミトロフであれば、いくら質が良いとわかっていても、ああまで気軽に購入には踏み切れないだろう。
「ですがミトロフさま。お怪我が増えていますよ」
「それも悩みどころだ。怪我は増えたが、重い傷じゃない」
小刀兎は確かに厄介である。傷も増える。
だが、あくまでも切り傷。軟膏を塗り、寝れば治る。切り傷のために大金を防具にあてるより、さっさと次の階に進んだほうが良いのではないか……そんな節約心が判断を揺らがせるのだ。
「怪我には変わりありません」
と、カヌレが硬い声で言う。ミトロフはなんでもないと振る舞うが、衣服は血濡れで、あちこちに切り傷があり、傍目からすれば心配にしかならない。
「そうだな、もう少し様子を見てから考えることにしよう」
ミトロフは頬の傷に軟膏を塗りこみながら言った。
手当が終わると、ふたりは小刀兎の耳を切り取って回る。
剃刀に切られたような、と表現される通り、小刀兎の耳は剃刀として加工されて販売されている。身だしなみには欠かせない用品であるために、買取価格の利が大きい。
ゴブリンの耳よりはよほど良い耳だ、とミトロフは思う。
集めた耳を布に包んで、カヌレが背負う袋にしまう。ポーターとしての役目も担ってくれているカヌレに、ミトロフは最近、頭が上がらなくなっていた。
「ミトロフさま、お昼はこの兎肉で調理しようかと思うのですが」
「兎肉か。それは美味そうだ。ぜひ頼む」
おまけに迷宮内で美味い食事まで用意してくれるのだから、ミトロフはますます困ってしまう。
ぶひぃ、と鼻を鳴らしながらため息をついた。
「……どうかなさいましたか?」
あたりに転がる兎から味の良さそうなものを選んでいるカヌレに、ミトロフはしみじみと言う。
「カヌレ、君の働きには必ず報いるからな」
「それは……ありがとうございます……?」
きょとんと首を傾げるカヌレである。
ミトロフは貴族として、高度な教育を受けてきたという自負がある。
文字を学び、勉学に励み、教養を詰め込んだ。迷宮で戦いながら金を稼ぐ程度には、剣術も身につけている。平民が望んでも手に入れられないような恩恵である。
それでも、ミトロフには出来ないことが山のようにあると実感している。知らないことはあまりに多い。
迷宮で金を稼ぎ、生活するための方法はグラシエに教わった。今はカヌレに多くの面で世話をかけている。
冒険者は助け合いだ。しかしミトロフは、自分が多くの人に助けられてばかりだと思っている。世話をかけ、手を貸してもらい、助けられ、ここまで生きている。
だからこそ、今度は自分が、彼らを助けたいと思う。
それはミトロフにとっては自然に湧きあがってきた感情で、今までは思いもしなかった新鮮な気持ちである。
誰かの役に立ちたい。誰かを助けたい。
ごくごく自然にそう考えられるようになっている自分の変化を、ミトロフは好意的に受け入れている。
ではどうすれば助けられるか、という点では、まだ答えはわかっていない。
助ける、という行為は難しい。だからこそ、まずはカヌレの働きに報いるために、収入を増やしたいと考えていた。
ミトロフはふと視界の隅にその姿を見つけた。通路の先、分岐路となっている陰で、小柄な少女が顔を覗かせている。街人のような服装はとても冒険者とは思えない。
「……“落ち穂拾い“?」
かつてグラシエが教えてくれた呼び名を、ミトロフは覚えていた。
ミトロフのつぶやきに、カヌレが顔をあげた。少女はふたりの視線に気づき、慌てたように隠れてしまう。
少女の頭に獣のように尖った耳があったのを、ミトロフは認めていた。
「今のが“迷宮の人々“でしょうか」
カヌレがぽそりと言う
「そうとも呼ぶのか? ”落穂拾い”かと思ったが」
「いえ、“落ち穂拾い“は、自分で魔物を倒せない冒険者やポーターが、他の冒険者の残したものを拾うことです。“迷宮の人々“は、文字通り迷宮のどこかに住む人のことだと聞きました」
カヌレの説明に、ミトロフは目を丸くする。
「待ってくれ、迷宮に住んでいる人間がいるのか? そもそも、住めるのか? 迷宮に?」
迷宮には魔物がいる。その魔物はまったく凶暴で、人間とみれば見境なく襲ってくる。そんな場所で生活することなど、ミトロフには想像もできない。
「わたしも伝聞で聞いたことがあるというだけで。本当に、迷宮に住むなんてことができるのでしょうか……?」




