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【書籍化】太っちょ貴族は迷宮でワルツを踊る  作者: 風見鶏
第一章

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太っちょ貴族はゴブリンと戦う


 幼いころから剣術を習っていた。

 それはまだ、父がミトロフに期待をしていたころの話だ。兄二人は文官寄りであったから、ミトロフには武官として、騎士隊などに所属させたいと思っていたのだろう。


 雇われた家庭教師は粗暴な男だったが、ミトロフをよく鍛えた。

 褒められた記憶はあまりない。厳しい男だった。


 それでも模擬試合で、ミトロフの剣が男の服をかすめたことがある。その時だけ男は「悪くない」と笑った。思えば、ミトロフが誰かに褒められたのはあのときだけかもしれない。


 父と侯爵家の茶会に行ったことがある。貴族の子息同士の交流会でもあり、いわば社交の練習会であった。そこで、剣に才覚があると評判だった侯爵家の嫡男と、模擬試合をすることになった。

 ミトロフは容易に勝ってみせた。


 これで父は喜んでくれる、褒めてもらえる。そう思った。

 しかし家に帰ってから、ミトロフは父にひどく叱られ、頬を殴られた。


 私に恥をかかせるな、と父は言った。お前はなぜ負けることができないのか、と。


 その日、ミトロフは剣の腕を磨くことをやめた。

 食い、眠り、怠惰に過ごし、やがて肉が頬にも腹にもついた。

 その贅肉が今、ミトロフの命を危険に晒していた。


 ぜ、は、と。

 喉の空気が熱く擦れている。

 汗が止まらない。身体中が熱い。


 ただの運動でなく、これは戦いだった。布の巻かれた棒ではない。真剣である。殺し合いなのだ。

 緊張感が余計に体を重くする。今すぐに休みたくなる。

 その怠惰に身を委ねたとき、自分は死ぬ。分かっている。それはつまらないことだ。


 ギャァ、とゴブリンが鳴いた。一直線に走り込んでくる。


 ミトロフはレイピアを身体の正面に掲げる。それは貴族としての決闘儀礼である。それは幼きころに染み付いた所作であり、ミトロフの剣術の起点である。

 ゴブリンが棍棒を振り上げる。


 ミトロフは間合いを正確に見切り、一歩下がった。

 棍棒が空を殴る。ゴブリンはその重みに体勢を崩している。


 1、2、3。

 剣の柄を胸元に引き寄せ。

 狙いを定めて踏み込み。

 貫く。


 ひゅっ。と風切り音。ミトロフの記憶よりもずっと遅く、鈍く、美しくない。

 けれど切先は狙い違わずゴブリンの喉を突いた。

 瞬時に身を引く。ゴブリンが棍棒を振るう。しかし当たらない。自分で振った棍棒の勢いに負けて、ゴブリンの身体はぐるりと回転した。足から崩れ落ちる。死んでいる。


「––––ふうっ」


 熱い呼気を吐き出す。ぴ、とレイピアを振って血を払い、眼前に剣を掲げてから納刀する。命を奪った。それを忘れてはならない気がしている。

 周囲を確認する。物音はない。安全である。


 それからゴブリンの耳を削ぎ、腰に下げた小袋に入れる。これで4つ目となった。

 大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。慣れている。戦えている。

 蓄えた脂肪のせいで理想とは程遠いが、身体は鍛えた動きを覚えている。


 皮袋から水を飲む。ひどく温いが、身体に染み渡るように美味い。こんなに美味い水は初めてだった。

 額を袖で拭う。何度もそうしたせいで、すでに袖は色を変えてぐっしょりと水分を吸っている。

 左右を確かめながら、壁に背を預けた。


 久しぶりの激しい運動のために、手足はじんと痺れている。身体の中は薪を入れたように熱い。頭の中は高揚している。迷宮という場所に、戦闘という行為に、揺さぶられている。


 僕は冷静だ、と呟いた。


 いや、冷静ではないはずだ。冷静でいるほうがおかしい。


 だから、無理をしないほうがいい。今日はそろそろ帰るべきだ。

 ミトロフは疲れていなかった。


 いまなら何度でもゴブリンと戦える気がした。


 けれどそれがまずいと分かるのは、幼い日に手荒に鍛えられた経験があるからだ。張り詰めた意識、全身を燃やすような運動。そうすると意識は一度、疲労や苦痛を忘れてしまう。しかし蓄積はしている。だから意識の糸が緩んだ瞬間に、いっぺんに全てが襲いかかってくる。


 疲れがわかってからでは遅い。

 迷宮からは出なければならない。帰りの体力を残す必要がある。


 よし、と決断して、ミトロフは身体を起こした。

 そのとき、通路の先から慌ただしい声が聞こえた。とっさに剣の柄を握り、腰を落とす。

 じっと耳を澄ますと、それはどうやら人の声らしい。走る音があって、廊下の曲がり角から飛び出してきた姿がランタンに照らされた。


 3人組の男だった。全員が若いが、ミトロフよりは歳上だ。

 彼らは走りながらもミトロフを見つけ、敵意はないと手を振った。それでも走ることはやめず、向かってくる。


「おい! お前も逃げたほうがいい! はぐれのコボルドだ!」


 と、先頭の男が言う。


「エルフの女が相手をしてるが、長くはもたないぞ」


 すれ違いざまに言い残して、3人は通り過ぎていった。

 ミトロフはその背を見送る。それから駆け足で通路の奥へ向かった。男たちが飛び出してきた角を曲がると、そこは小さな広場になっていた。


 エルフの女––––ミトロフの予想通り、それは先ほど命を助けてくれた青眼の少女だった。左手に弓を持ち、右手の短剣でコボルドの攻撃を捌いている。

 押されている。


 ミトロフはレイピアを引き抜き、その間に走り込んだ。



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― 新着の感想 ―
[一言] 父親の教育酷すぎますね。貴族なら大人扱いして教えてあげればよかったのに。教育係を雇うお金もなかったか、とにかく家庭が悪かった
[一言] 母親が生きていれば慰めてくれたのかなぁ?
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