太っちょ貴族は迷宮に行く
迷宮の正体を、誰も知らない。
古代に存在した文明が何らかの目的で作った遺跡、という認識が一般的だ。その果てを知るものはおらず、もう数十年、冒険者と呼ばれる者たちが挑み続けている。
迷宮の中には独自の生態系が築かれている。地上の生き物よりも凶悪であり、強靭であり、敵対している。それらを魔物と呼んでいる。その素材は実に有用で、迷宮ギルドはいくらでも買い取ってくれる。
だから食うに困った人間は、必ず迷宮に挑む。幾らかの金を手に入れ、今日を生き抜くために、迷宮に入る。
そして、死ぬ。
それでも誰も構わない。今日誰が死のうと、明日にはまた誰かが来る。そうして迷宮は続いている。
ミトロフは稽古着に着替え、レイピアだけを携え、迷宮に入っていた。幾らかの金により、今日の食事を得るために。
地下へ地下へと深まる迷宮であるが、浅層はすでに探索し尽くされている。
石造の床にも壁にも、所狭しと人の手が入っている。通路にはランタンが掲げられ、落書きが掘られている。ちょっとした広場には物売りが場所を取り、煌々と篝火が天井を照らしている。もはや夜の市場だった。
魔物に会うこともなく、地下二階へと降りる。
––––魔物はどこからともなく湧いてくる。気を抜いた瞬間に死ぬと思え。
講習会で指導員が言った言葉を、ミトロフは思い出していた。
––––地下2階で初心者が死ぬ。そこは、
ギャッ、という鳴き声。ミトロフは咄嗟に半歩下がり、腰からレイピアを抜いた。
壁に掛かるランタンの灯りに、その姿が照らされた。
濃緑の身体は細く、身長は小人のようである。それでいて目はギョロギョロと大きく、瞳孔は縦に裂けている。鼻は潰れ、黄ばんだ歯の隙間から涎が糸を引いている。手に持った錆ついた短剣をぶらりぶらりと振りながら、それは近づいてくる。
「……ゴブリンの巣、か」
ごくり、と唾を飲む。液体のはずのそれが、石のように固い粒のまま、喉を通る。
柄を握る手が湿っていた。首筋の後ろが寒い。
この生き物は、自分を殺そうとしている。
その事実が、恐ろしい。
息を吐くような鳴き声とともに、ゴブリンが駆けた。
「っ、あ」
思わず後ろに下がってしまった。だめだ、と理性が言う。しかし本能が恐れていた。
飛び上がったゴブリンが短剣を頭上に振りかぶっている。
隙だらけだ。と理性が言う。
恐ろしい。と本能が叫んでいる。
身体は動かず、ただ、眺めていた。そうか、初心者はこうして死ぬのか、とミトロフは理解した。
––––トン、と。
ゴブリンの眉間に矢が突き立った。次の瞬間、ゴブリンは跳ね飛ばされるように後ろに転がる。短剣が石畳を転がる金属音が響いた。ミトロフは呆気に取られて突っ立っている。
「おぬし、無事かえ?」
と背後からの声。
ミトロフはゆっくりと振り返る。
そこに、青い目の少女がいた。宝石のように美しい輝きだった。
短弓を手に、背には矢筒。毛皮の服装は、冒険者というよりは森の狩人のようである。髪からは銀の耳飾りを揺らす長耳が見えている。森辺の民と呼ばれるエルフ族である。
「……あ、ああ、ありがとう。すごく助かった」
「なに、構わぬ。迷宮では助け合うものじゃろう」
見目は若く、声も鈴を転がすように軽やかである。
だというのに話し方ばかりは奇妙に婆くさく、ミトロフはいくらか戸惑うことになった。
「本当に助けてくれる人は、たぶん、多くない。君は良い人だ」
「そうとも、われは良きエルフじゃ。こんなところで死ぬのはつまらん。気をつけての」
少女は慣れた様子でゴブリンに近づくと、矢を回収し、ナイフで左耳を削ぎ取った。ゴブリンの素材は利用価値がない。左耳を持ち帰れば討伐金だけがもらえる。
少女が去っていく背中を、ミトロフはただ見送った。手に持っていたレイピアを鞘に収める。手が震えていた。
床に、錆びた短剣が落ちている。あのゴブリンのものだ。
それを拾い上げ、見つめ、壁に放り投げた。
ここで死ぬのはつまらない。
たしかに、あの子の言う通りだ、とミトロフは思った。