太っちょ貴族は猪を倒す
ミトロフは背後を見る余裕もないままに声をあげ、刺突剣を抜いた。眼前に掲げ、腰を落とす。
自分よりも重い存在が、驚異的な速さで突っ込んでくる。ぶつかれば命はないだろう。
その事実を分かっていながらも、ミトロフの思考は冷静だった。昇華によって得た精神力の向上は、ミトロフにどんな時でも冷静さを与えてくれる。
しかし冷静さとは現実を認める能力だ。自分に都合よく変化させるものではない。
刺突剣を構えてはみても、手に持つ細剣であの巨体を止められるわけがない。跳ね飛ばされるだけだ。
ミトロフの精神が耐えられるギリギリまで猪を引きつけてから、横に跳んだ。
分厚く、生ぬるい風の壁が通り過ぎたようだった。
直後。
ガツン、と腹の底まで震わすような硬い音が響く。
贅肉の身体を揺らしながら必死に起き上がったミトロフが振り返ると、黄土猪は壁に牙をめり込ませていた。壁が削れ、広がっているのは、こうして黄土猪が何千、何万回と牙を打ち込んできたせいなのだ。
黄土猪が動きを止めている今が攻撃の機会である。しかしミトロフからは遠い。巨体であることは猪と同じでも、ミトロフは四つ足ほど速くは走れない。
だがこと動物に関しては、ミトロフよりも遥かに優れた存在がいた。
頭を振りながら身体を反転させた黄土猪の顔を、ミトロフが認めたとき、その額に矢が突き立った。
「魔物であろうと猪ならば慣れた相手じゃわい」
弓に二の矢をつがえたグラシエが鋭い目で黄土猪をとらえている。猪は額の矢に苦しむようにもがき、壁を牙で削り、身体を打ちつける。とても近づける様子ではない。
遠くに避けていたカヌレが小走りで二人に寄ってくる。
「これは……どうしましょう……?」
「とどめを刺すにも、近づきようがないな」
ううむ、とグラシエが唸った。
「並の猪であればあれで仕留められるのじゃが……さすが魔物、ということか。皮か肉か骨が頑丈なのかのう。この弓の張りでは通用せぬのかもしれぬな」
狩人として頼り愛用してきた弓を、グラシエは複雑な気持ちで見つめた。これまで何の不満も、また不安もなく、すっかり手に馴染んだ弓である。
しかし野山の獲物を狩るのには良くとも、魑魅魍魎の棲む迷宮にあっては、これでは心許ないということが明らかになりつつあった。
黄土猪は頭を壁に擦りつけることで矢を無理矢理に抜き去ると、怒りを呼気にしながら3人を見据えた。
ガッ、ガッ、と地面を前脚で削り、いざと体重を掛けたその膝に、矢が刺さった。
黄土猪は崩れ落ちるように地に伏せた。そこに再び、グラシエが矢を引き絞る。いつもよりも強く引いたことで、弓が軋み鳴いた。
放たれた矢は黄土猪の額を打ち抜き、今度こそ、その息の根を止めた。
「お見事」
とミトロフは感嘆し、細剣を鞘に納める。
弓とはとかく扱いの難しい武器である。狙った場所に当てるには長年の修練が必要となる。軍にあっても、習熟した弓兵は他のどの兵よりも価値があるものだ。
これだけ離れた猪の額を撃ち抜くというのは、見識の薄いミトロフからしても相当な腕前に違いないと分かる。
しかしミトロフが見やれば、グラシエはわずかに唇を尖らせて不満そうな顔をしている。
「あれは眼孔を狙ったのじゃ。引きを強くするのにも慣れねばいかんのう」
「……それでも、大変な腕前だと思いますが」
おずおずと言うカヌレはすっかり感心したという様子である。
「森では、猪よりも素早い小動物を狙うことが多いでな。あれだけ的が大きければ気が楽じゃよ」
「はあ。そういうもの、ですか」
カヌレは何とも不思議なことだ、というように頷きつつ、黄土猪に近づいていく。
「黄土猪は牙が重用されておるな。毛皮や脚の腱、肉も骨も、余すところのない恵みの動物じゃ。とはいえ、迷宮でこれを解体するのも、持ち帰るのも大仕事になろう」
森での狩りであれば喜びを携えて仲間を呼ぶなりするものである。
だがここは迷宮であり、黄土猪はあくまで探索をする上での障害のひとつという扱いでしかない。
3人は相談しながらも、やはり回収するべきものを厳選することにした。
二本の牙と背の肉である。牙はもちろん、背の肉もまたギルドで買取られている部位である。ギルドでの食堂だけでなく、街にも普及しており、魔物を忌避しがちな市民にも受け入れられている食材だ。
「……果物の甘いところだけを齧って捨てるような気分じゃのう。罪悪感がある」
「狩人の習慣というやつか」
「うむ。仕留めた以上は余すところなく活用したいものじゃが……ええい、森での意識を迷宮に持ち込んではいかんな。先に進もうぞ」
グラシエが先頭に立って斥候を。カヌレが真ん中を歩き、ミトロフが最後尾で背後を警戒する。
黄土猪の二本の牙を抱き抱えるようにしているカヌレは、とっさの襲撃に対応するのは難しい。そのためにミトロフが後ろに回った形になる。




