太っちょ貴族は新しい階層へ挑む
小部屋に入り、階段を降りながら、グラシエはミトロフに肩を寄せた。
「気にするでないぞ、ミトロフ」
「してないよ。ただ、ちょっと驚いたんだ」
小首を傾げるグラシエに、ミトロフは言う。
「……僕は、今までこんな気持ちを抱いたことがなかったんだ。誰にも期待されなかったし、無能だと思われてきた。それをどうとも思わずに受け入れてきた」
父、兄、使用人たち。貴族の社交場で出会う年頃の少年少女たち。
立場は低く、能力もなく、丸々と太った自分は、出会うすべての人に見下され、遠回しな社交辞令で馬鹿にされてきた。
そしてそれを、ミトロフも否定しなかった。そうしようと思わなかった。彼らの言うことはもっともなのだ、と思った。
「だけどさっき、僕は、悔しかったんだ。見返したい、僕はもっとやれる、それを証明して理解させたいと思った」
思わず、ミトロフは胸を押さえた。
心臓の鼓動。その奥に、未だかつてないほどの熱がある。渦巻いた熱はミトロフの全身に送り出され、血液を沸騰させ続けているようだ。
「僕は、あのトロルを倒したい。さっきのパーティーに奪われたくない。あのトロルは、僕の獲物だ––––って、こんなにこだわるのは、おかしいだろうか」
ミトロフはふと、不安になった。かつてないほどの激情に、ミトロフ自身が戸惑っている。感情の扱い方に悩むのだ。
訊ねられたグラシエは青い瞳を細める。水面に反射した夏の日差しかのようにミトロフを見る。
「……おぬしもやはり、男の子なんじゃのう」
「負けず嫌いのバカってこと?」
「その通り。そしてそれは、狩人にも冒険者にも必要な気持ちじゃろう。父もそうであった」
ふ、ふ。と笑みをこぼし。
良きかな、とグラシエは言った。
「われらもトロルを探そうではないか。あやつに手傷をつけたのはわれらが先。たしかに間違いなく、あれはわれらの獲物よ」
「……でも、いいのか? 危険だろうし、5階層は」
グラシエの求めるものがある場所なのに、と。その言葉は言えなかった。
グラシエが人差し指の先をミトロフの唇に当て、しっ、と止めたのだ。
「男の子は、己の矜持を守るために戦わねばならぬ時があるという。ミトロフ、おぬしにとってはそれが今なのじゃろう。これは大事なことじゃ」
「そうか。そうなのかもしれない……ありがとう」
「なあに、われとて、先だっては何もできなかったゆえな。憂さを晴らす良い機会じゃ」
二人で顔を見合わせ、笑い合う。
そこにおずおずと、大変申し訳ないのですが、という口ぶりで、声がかかった。
「あの……どういう事情なのか、お聞きしてもよろしいですか……すみません、良い雰囲気のところを……」
「そ、そうであったな! カヌレにもちゃんと説明しておかねばなるまい! じゃが良い雰囲気などでは決してないからの! 誤解せぬように!」
と白い頬に朱をさしながら、グラシエが一から説明をする。
それをミトロフもまた聞きながら、ついに5階層へと降り立ったのだった。
φ
石造りなのはこれまでとは変わらず、しかし奇妙に張り詰めた気配を感じる。新たな魔物が巣食う場に足を踏み入れたせいかもしれない。あるいは、この階を支配している守護者という存在の影響力だろうか。
景色は変わらずとも、3人の心構えはいくらか改まるものがある。
「この階に出るのは、”青鹿”と"黄土猪"じゃの。これらと戦って経験を積みながら、トロルを探索する、という形で進もう」
ミトロフもカヌレも反対する意見もなく、頷きを返して通路を進む。
階段を降りてすぐの小部屋は、これまで通り冒険者のための休憩部屋となっていた。3人はひとまず通りすぎ、まずは魔物を探す。
青鹿も黄土猪も、コボルドや狼とはまったく違った魔物である。どれだけ早く適応できるかによって、迷宮の探索の難易度も時間も大きく変わる。
やがて、通路の横幅が広くなる。これまでも両手を広げた大人が横に3人並べるほどの余裕はあったが、今ではそれが5人、6人と呼べるほどに広い。
そして壁はまるで何かに削られたように緩やかな弧を描き、さながら洞窟のような風体となりつつある。ランタンの光に生まれた陰影が凸凹と歪み、ミトロフはふとそれが牙で削られた跡であるように思えた。
「なあ、グラシエ、これは」
「しっ」
と、グラシエが鋭く止めた。
中腰となって通路の奥を青い瞳で注視する。
ミトロフもカヌレも気づく。この先にいるのだ、と。
「気づかれておる……突っ込んでくるぞ!」
直後に、聞こえる。硬い蹄が石畳を踏みしめて蹴飛ばすように駆けてくる音である。
ミトロフもその姿をついに見た。
「黄土猪か!」
名の通り毛並みは薄汚れた黄土の色。体高はグラシエの背丈と変わらず、横幅はミトロフに負けず劣らない。口の端から生えた二本の牙が弧を描いて上向きに伸びている。フゴ、フゴ、と荒い吐息を響かせながら、巨体が真っ直ぐにこちらを狙ってくる。
「カヌレ! 避けろ!」




