太っちょ貴族は骨少女と出会う
公衆浴場から、ミトロフが間借りしている安宿まではしばらく歩く。安宿は街の端に近い寂れた区域にあり、公衆浴場はほとんど街の中央になる。ミトロフが帰るときには大通りを横切ることになる。
すでに街にはすっかりと夜が落ちてきていた。大通りには昼間とは違った活気が満ちている。昼には閉まっていた酒場やカフェが明かりを灯し、店前の歩道にまでテーブルや椅子を広げていた。そのほとんどに人が座り、酒を片手にしている。
15を過ぎたミトロフも法的に飲酒が許されているが、まだ酒の楽しみが分からない。食事に合わせてワインは常飲しているが、それは水の代わりに飲むようなもので、酔うことを楽しむものではない。
酒場で飲む人々の手元を見れば、最近、流行り出した度数の強い蒸留酒や、ブラックビールなどばかりだ。ワインを飲んでいる人は見つからない。
行き交う人の群れに、ミトロフはまだ慣れない。ぶつかりそうになったり、追い抜かされて肩をぶつけられたりする。
絶え間のない人混みに疲れて、ミトロフは道を外れた。石畳の細道は下り坂になっている。街灯は少なく薄暗いが、迷宮の底無しの暗さに慣れた身からすれば、月も星も出ている夜の街で、視界が悪いと思うこともない。
少し進んだ場所で壁に背をもたれ、ひと息をついた。
大通りに全ての人が集まっているかのようで、脇道では人をみない。その静けさが落ち着いた。
この街は、とかく騒がしい。
通りには常に誰かいる。宿に戻っても誰かがごそごそと動き、出入りし、騒いで叫ぶ。
ミトロフはこんなにうるさい街だとは知らなかった。
貴族街では静けさばかりである。人がいるのかどうかすら分からぬほどだった。パーティーであっても、常に楽団が奏でる曲が聞こえる程度の囁き声で、誰もが会話をしていた。食器ひとつがぶつかる音ですら口喧しい人々なのだ。
ひと月と経っていないのに、ミトロフの生活は一変していた。それに適応することが、やはりまだ難しい。食事にも、服にも、街にも、人にも、迷宮にも。
全てで揺らいでいる自分がここにいる。
ふと声が聞こえた気がした。大通りだ。誰かが叫んでいる。
ミトロフは脇道から顔を突き出した。その瞬間、黒い小柄な影がひゅっと脇道に潜り込んできた。
「きゃっ」
「うわっ」
その影は素早かったが、急に顔を出したミトロフへの驚きと、ミトロフの予想外の横幅の大きさに、ぶつかって体勢を崩し、走ってきた勢いのまま通路に転げた。
「すまない。大丈夫、か……?」
ミトロフは貴族的対応の基礎として、倒れた影に手を貸そうとして、目を丸くした。
小柄な身体は黒い外套で足元まで覆われていた。転げたせいで、頭を覆っていたフードだけが外れている。
そこに見えたのは人の頭蓋骨だった。
「魔物だ! 魔物がいたぞ!」
と、背後から叫ぶ声が聞こえた。
ミトロフはとっさに剣柄に手をかけた。
「ち、ちがいます! 魔物じゃありません!」
頭蓋骨は顎骨をカクカクと鳴らしながら、鈴を鳴らすような少女の声を出した。
「人の心をたぶらかす系統の魔物か!」
「たぶらかしていません! わたし、人間です!」
「どうみても骨だろう!」
「骨になった人間なんです! 魔物じゃないんです! 事情があるんです、ええと……誤解が……!」
ばたばたと手を動かし、必死に説明しようとしている様子である。
かつてのミトロフであればそんなことを信じはしなかった。頭蓋骨だけの人間など存在するわけもなく、その見た目は明らかに魔物である。人の害になる存在を放ってはおけないものだ。
しかし今のミトロフは冒険者である。迷宮に潜り、本当の魔物を目にして、戦ってきた。
それらの魔物から感じた強い敵意、首後ろがピリピリと痺れるような嫌な空気を、目の前の存在からは感じなかった。
慌ただしい足音が近づいてくる。
ミトロフは反射的に振り返り、通路の外に出た。
「うわっ! お、おい君! こっちに黒マントの魔物が来たろ!」
「……ああ、あっちに走っていったな」
「何でか街に紛れ込んでやがる! 気をつけろよ!」
4人ほどの男たちが連れ立って走っていく。目は血走り、口角には泡が浮かんでいた。追いかけて、捕まえて、それからどうするというのだろう。
その男たちと向かい合ったときのほうが、よほど首の後ろがピリピリとしたほどだった。
ミトロフは他の追手がいないかを確かめたあと、通路に戻った。
少女はもういなくなっているかと思ったが、どうしてか素直に待っている。
「……どうして正座なんだ?」
「いえ、お礼を言わなければと思いまして……わたしを庇ってくださってありがとうございます。命拾いしました」
言って、黒の革手袋の指先を揃え、ちょこんと頭を下げる。その顔はフードで覆われており、今では小柄な人間にしか見えなかった。
「いや、いいんだ」
なぜ庇ったのだろう、と自分でも不思議だった。見ず知らずの怪しい骨人間を庇う利点はない。理性的なものよりも早く、直感とか本能とでもいうものが反応して身体を動かしたようだった。
少女は石畳にちょこんと座ったまま、じいっとミトロフを見上げている。深々と被ったフードの暗闇のために、骸骨頭は見えない。
「あの、あなたは冒険者さん、でしょうか」
「そうだけど……」
「でしたら、お願いがあります」
と言って、少女はまた深々と頭を下げた。
「どうか、わたしをポーターとして迷宮に連れて行っていただけませんか」
「……面倒な話になりそうだ」
ミトロフは肩を落とした。




