太っちょ貴族はひとり泣く
執事のアルゾから渡されたのは、幾ばくかの支度金と、着替えの詰まった鞄だった。それとて貴族の生活水準を考えれば十分なものではない。端金を渡されて追い出され、お前は迷宮で死ねと言われたに等しい。
それをミトロフはよくわかっていたし、使用人たちも理解していた。
ぼっちゃま、これは使用人たちからです。どうか、ご武運を。
そう言って、アルゾが渡してくれたのは、使用人たちが自腹で集めた金だった。使用人たちの給料は決して高いものではない。誰もが余裕もないはずだ。ミトロフはそれを知っていた。そんな中から集めてくれた資金は貴重だった。
ミトロフは皆に挨拶をして、家を出た。
今日からミトロフは貴族の子でなく、ただのミトロフとなったも同じである。
あるのは着替えの詰まった鞄と、いく日かの雨風をしのぎ、食うだけの金と、剣の師匠から送られた一本のレイピアだけである。
生きていかねばならない。
食わねばならない。
そのためには、金がいる。
では働かなければならない。
平民のように働く術を知らない自分が働くのであれば、それは迷宮しかないのだろう。
ミトロフは頷き、ふう、ふうと息も荒げながら迷宮に向かう。
その途中でお腹が空いたので、食堂で3人前ほど定食を食べた。汗水を流す労働者のためか、塩味の強い味付だったが、悪くない。使用人たちからのカンパで支払った。
迷宮ギルドで手続きを行う。すでにバンサンカイ伯爵が登録費用を支払っていたため、サインひとつで済んだ。迷宮のための講習を受け、その日は夕暮れとなる。
迷宮ギルドと提携している安宿を紹介してもらった。部屋は狭く、粗末なベッドと椅子が一脚あるだけだった。椅子に鞄を置き、剣を立てかけ、ミトロフはベッドに座る。
薄い壁の向こうから、粗野な男の声と、女の嬌声が聞こえる。ベッドの布地はゴワゴワと硬く、擦り切れ、黄ばんでいる。白い部分を探すほうが難しい。
貴族として育ったミトロフであるが、乳母であり世話役だった老婆から、よく平民の暮らしというものを聞いて育った。金勘定のやり方、生活の仕方……当時は御伽噺のように感じたものだが、こうして現実のものとして役に立つとは思わなかった。
金をベッドに広げ、残金を計算する。
ふむ、と頷いて、鞄から食事を取り出した。
宿に来るまでの通りの屋台で買ったものだ。
大きな丸パン、鳥のタレ焼き、果物の詰め合わせ。それに薄型の土器に入ったワイン。
ナイフでパンを割り、鳥肉を挟んだ。がぶりと噛むと、肉は硬く、臭みがある。臭みを誤魔化すためにタレは辛く、鼻を刺すような刺激がある。
「うまくはないな」
うん、と頷く。予想はついていた。この味にも慣れなければ、と思う。
しかしこの臭みと過剰なスパイスはだめだな。
パンを開いて、ナイフで赤黒いタレを削ぎ落とした。カットされた果物の中から、香りの良い柑橘を選び、その汁を絞って振る。
もう一度かぶりつく。爽やかな酸味がいくらか味わいをよくしてくれた。これ以上は文句も言えまい。
テーブルもなく、粗末なベッドに座り、両手で掴んで物を食う。口についたソースを親指でぬぐい、それを拭くものも見つけられず、少し躊躇ってから舌で舐めとる。隣の部屋の女の声は止まず、ごん、ごんと壁が鳴っている。
甘さなど微塵もなく、酸味だけのフルーツをひとつずつつまみながら、明日からどうするか、と考えてみる。
迷宮。死。そうだ、自分は死ぬかもしれない。
そう思った瞬間に、口を満たす酸味が強烈な現実に変わった。
貴族としての怠惰な生活は終わったのだ。兄の予備として置かれ、ついに予備としての役目も見切りをつけられ、リンゴの芯を放るように、自分も捨てられた。それだけのこと。
フルーツを噛み締めながら、そのあまりの酸っぱさに、ミトロフは泣いた。
うぐ、うぐ、ぶひ、ふご。
嗚咽は止まらず、涙は溢れて、それでもフルーツを食った。
兄がいる限り、未来のない人生だとわかっていた。貧しい伯爵家の三男など、使い道もない存在だ。旅に出るものもいれば、どこかで農民になる者すらいる。いつかはこの日が来ると分かっていた。
食うことだけが現実だった。何かを食べている間だけ、満たされた気持ちだった。
今、その現実の味は酸味だった。
汚い部屋。頼れる人もおらず。金もなく。明日には死ぬかもしれない自分だけがいる。
ぶひっ、ふぎぃ。
噛み締めた隙間から声が漏れる。
どん、と壁が叩かれる。
おい、うるせえぞ、豚でもいんのか。
くぐもった怒声にも構わず、ミトロフは泣いた。今日だけは泣こうと決意していた。