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【書籍化】太っちょ貴族は迷宮でワルツを踊る  作者: 風見鶏
第三章

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太っちょ貴族は大人の生き方を知る



 翌日まで眠りこけたミトロフは、さっさとベッドを追い出されてしまった。施療院にはひっきりなしに病人がやってくる。健康な人間の居場所はないのだった。


 朝まで付きっきりだったカヌレと連れ立って、退院したミトロフがしたことは、屋台での買い食いだった。

 ミトロフがいちばん堪えたのは施療院での清貧的な食事である。

 量は少なく、味付けはうすく、美味いとか不味いとかの範疇にすらない。栄養を補給するためだけの飲食物を、ミトロフは食事とは思わない。


 治癒の魔法によって傷は直っていても、身体の芯に残った違和感や痛みはある。さっさと宿に戻ってひと休みするべきところを無視して、ミトロフは屋台を巡った。ミトロフにとっては、食うことこそが何よりの治療なのである。


 腹は常に鳴りっぱなし。肉と香辛料が風に吹かれてミトロフを撫でる。よだれがあふれ、鼻がクンクンと動く。ミトロフはふらふらと吸い寄せられては注文し、受け取るやいなやかぶりつく。


 甘辛く煮込んだ刻み肉と野菜を混ぜ込み、穀物を潰して練った生地で包んだものを二口で頬張り。

 ヨーグルトソースを何度も塗り込んだ熱々の串焼き肉を噛み、溢れた肉汁で唇をやけどをして。

 新鮮なフルーツでそれを冷やしながら、木腕に盛られる麺料理に向かっていく。


 そんなミトロフについて回りながら、カヌレは微笑んでいる。食欲とは元気の証である。

 料理を愛好するカヌレは、ミトロフの食いっぷりの良さが好きだった。できることなら衛生面でも食材の質でも不安の残る屋台飯ではなく、自分が食事を用意できればいいのだが……場所も設備もないことが口惜しい。


 ミトロフが満足いくまで市場で買い食いをしてから安宿に戻ってくると、やけに静かなのに気づいた。

 普段は中に入るなり誰かが叫んでいたり、暴れ回るような音が聞こえるものだが、今日に限っては新月の墓地かのようである。


 階段を上がり、自分の部屋に向かう廊下をたどれば、誰も彼もが部屋から顔を出して、通路の先を覗いている。

 いつも安酒の瓶を離さずに陽気に歌っている歯抜けの老人でさえ、初めて自分の足を発見した赤子のように目を丸くして座り込んでいた。


 ミトロフは眉間に皺を寄せながらも進めば、どうやらあれが原因らしい、とあたりがつく。

 自分の部屋の前に、巨体がひっくり返っていた。先週、ここに入ってきたばかりの新米冒険者だが、その体格と気性の荒さで遠巻きにされていた男だ。


 なんだってぼくの部屋の前で……と近づいていけば、巨体の陰にその姿を見つけた。


 扉に背を預け、腕を組み、かるくうつむくようにして目を伏せている。

 身体は外套で隠れているが、その容貌が露わになっているというだけで、どんな美術品よりも人の目を惹きつけてしまう。


 ミトロフたちの足音を聞きつけて、グラシエは目を開けた。頬に流れた髪をたおやかに長耳に掛け、わずかに微笑んだ。


「すっかり元気を取り戻したようじゃの」

「すまない、待たせたか?」

「ほんの少しじゃよ。先ほど施療院に行ってきたのじゃが、すでに退院したと言われての。われの方が先に着いたということは、帰りの市場で食うのに夢中になっておったのじゃろ」


 揶揄うような言い方と笑う目に、ミトロフは姿勢を正して咳払いをした。ほんのりと頬が赤いのは、ミトロフにだって女の子を前に張りたい見栄というものがある。


「身体の調子を確かめるのに少し散歩を、な。いや、ちょっとくらいは、まあ、食事もしたが」


 グラシエが小さく笑い、ミトロフの後ろではカヌレもくすくすと笑う。

 これは分が悪いと、ミトロフは話題を進めることにした。都合が悪ければさっさと逃げるのが貴族の戦い方なのである。


「教会でなにかあったのか? 昨日、子どもらに呼び出されたと聞いたが」


 グラシエがわざわざ自分の宿にまで来るほどだ。厄介な揉め事でも起きたのかといくらか身構えるが、グラシエは首を振って否定した。慌てた様子や焦りはなく、力の抜けた諦めのようにも思える。


「見てもらうほうが早かろう。われは、どうしたら良いものか分からぬ」

「それは構わないが……わかった、今から行こう」


 カヌレを連れて踵を返すと、扉から顔を覗かせた冒険者たちと目があった。老若あって、男は多く、女は少ない。新人冒険者は多いが、宿賃の安さで居座っている馴染みの冒険者も多く、ミトロフとは顔馴染みだ。


 そんな奴らが漏れなくにんまりと笑みを浮かべている。目を細め、ほほう……と口を隠している。


「なにか言いたげだな」


 ミトロフが威嚇するように睨むが、15歳の少年の背伸びにしか思われず、歳だけ重ねた大人たちは微笑みを浮かべている。誰かが口笛を吹いた。


「ミトロフ、この者たちは知り合いかえ? すまぬ、あまりに下品な輩が触れようとしてきたのでな、のしてしまったのじゃが……」

「気にしないでいい。行こう」


 ミトロフはため息をついて廊下を進む。すれ違いざまに揶揄う声がかけられるが、ミトロフはすっかり無視を決め込んだ。それでも頬が熱くなるのは怒りではなく、年相応の気恥ずかしさによるものである。


 気になってふと振り返れば、グラシエは気にした風でもなくミトロフを見返して首を傾げた。窓からの陽光にきらきらと輝きを返す白銀の髪は、その一本一本を月の女神が紡いだ絹糸のようにすら思えた。


 エルフは妖精族とも呼ばれ、その美貌を讃える詩に曲にと溢れかえり、どんな偉人でも一度はエルフに心を奪われると謳われる。

 この世界の美を象徴する……そんな言葉は芸術家特有の誇大な表現だと、ミトロフも思っていた。


 しかしこうしてグラシエを前にすれば、どんな芸術家にすら留めることのできない完璧な美の瞬間が存在するのだと知った。


「なんじゃ?」

「––––いや、なんでもない。行こう」


 ミトロフはつんと前を向き、胸を張って歩いた。背後でグラシエとカヌレが世間話を交わす声に、少しばかり聞き耳を立てたりなどしてしまう。

 ふたりはずいぶんと仲を深めているようで、ミトロフは会話に参加する機会も見つけられないまま教会に辿り着いた。


 礼拝堂の出入り口に集まっていた子どもたちが気付き、駆け寄ってくる。


「ミトロフだ! ミトロフ! なんとかしてくれよ! 先生の絵が取られちゃうんだよ!」


 コウがミトロフの腹を叩き、礼拝堂を示した。


「天井画のことか?」

「うん。うえにばーってかいてある、おっきなえだよ」


 と、片目を隠した少女が答え、ミトロフの裾を引いて歩き出す。ミトロフはなすがままに進み、出入り口から中を覗いた。


 並んでいた長椅子はすっかり脇にどけられ、中央には天井まで届く足場が立っていた。木を組み合わせたそれは立派なものである。今も何人と男たちが歩き回っているが、揺らぎもしない。


 ミトロフは男たちを一目見て、その素性に予想がついた。

 一番上に立ち、天井画に触れるほどに顔を近づけているのは鑑定人だ。隣に立っているのはおそらく美術商だろう。どちらも身なり良く、ミトロフが実家で見かけたことのある男たちと雰囲気が似ている。貴族や豪商などの金持ちに、価値ある美術品を手配する人間だ。


 足場の奥、聖像の前にサフランが立っていた。手を後ろに首を仰け反らせて天井画を見上げている。

 ミトロフは少女たちにここで待つようにと告げて、礼拝堂の中に入った。


「いまは立ち入り禁止だぞ」


 すぐに声をかけてきた男は足場屋のようである。作業着の諸肌を脱ぎ、束にした角材を肩に抱えている。


「それがどうかしたのか?」


 ミトロフはあえて尊大な調子で言う。他人が自分の行動に口を挟むなど信じられない! と全身で語る雰囲気といい、ちょいと顎をそらして下目がちに人を見る目つきといい、今のミトロフはどこから見ても平民が侮蔑する嫌味な貴族だった。


 男は片眉をあげる。ああ、自分たちの作った足場の上で高尚なお仕事に励んでいる奴らのお仲間か、と当たりをつけた。だったら関わるだけ損をするだけとばかりに口をつぐみ、作業に戻っていく。


 足場の隙間に苦労して腹を押し込みながら、ミトロフはサフランのところまで辿り着いた。隣に並び、同じように天井画を見上げる。


 以前こうしたのは、気持ちいい夜のことだった。奥からは子どもたちの賑やかな声が届き、一灯に照らされて揺らめく天井の聖者たちの姿は、厳かな安らぎをたたえていた。


 今では昼間だというのに部屋中にランタンがかけられ、不躾なほどに照らしあげられ、果たして信仰心を持ったこともあるのか知れない男たちが、金算用の目つきでその絵を舐め上げている。


「––––教会には、窓が多いでしょう。それは昼の日差しを充分に採り入れるためなのです。かつて教会とは貧しいものでしたから、蝋燭の一灯すら惜しむ。天井画も、ステンドグラスも、昼の日差しを受けていちばん美しく見えるように作られています。油火でこんなに明るくされては、もったいない」


 見上げた視線をそらさずにサフランが言った。

 ミトロフは横目で彼の姿を見た。その目元にどんな感情が浮かんでいるのかを確かめたかったが、ミトロフの三倍もの歳を重ねた男の内心を見抜くことなどできるはずもなかった。


「これが、あなたの答えだったのか」


 サフランは視線を下げ、ミトロフと顔を見合わせた。


「ええ。最初から予想はついていました。地上げだなんだと理由をつけながらも、目をつけられたのはこの天井画だと、ね」

「––––これは、グレイメェルの絵だろう。老年から名を知られるようになった遅咲きの巨匠だ。若いころの作品は散逸……たまにどこぞの貴族の蔵から見つかっては、大変な値段がついている」

「ミトロフさんには鑑定の知識が?」

「いや、あそこにサインが入っている」

「…………」

「線がのたくったように見えるだろうが、あれでグレイメェルと読むんだ。同じサインを前にも見たことがある」


 かつて貴族の子息が集まったのは、侯爵家の茶会だった。そこで次期侯爵の少年に自慢げに見せられたのが、大広間に飾られたグレイメェルの絵画であり、そこで長々と講釈を聞かされた記憶がある。


「あなたは、この絵の価値を知らずにいたのか?」

「素晴らしい絵だと分かっていました。他人にとってどれほどの価値があるのかは関係ありません。私にとっては、どんな絵よりも素晴らしい。人生をかけるだけの価値があった」

「それを、売ってしまうのか。それとも差し出すのか」

「とある貴族の方に、売ります」

「マフィアが報復に来るだろう」

「人は自分の影を指さして、自分とは別の存在だとは言わないものです」


 その一言で充分に、ミトロフは物事を理解した。

 貴族と言えど、すべての家が歴史あるものではない。金で爵位を買える時代でもある。そして貴族が常に表舞台に立っているわけでもない。舞台で貴族という役を演じ、その舞台裏ではまた別の配役をこなしていることもある。


 それを非難することは、ミトロフにはできない。

 欲しいものがあれば手に入れる。それは権力を持つ者の傲慢であると同時に、権利でもある。ミトロフとてそうする。己にできる限りの行動を起こすだろう。権力者はその行動の規模をどこまでも大きくする力があるというだけの話である。


「絵を渡すだけで話は解決するのか?」


 そこまで物分かりが良い相手だろうか、とミトロフは不安を伝えた。


「話をつけてくれた子がいまして。信頼できます」

「マフィアと話を?」


 ミトロフは眉をひそめ、ハッと気づいた。


「あの、兄ィと呼ばれていた……」


 サフランは苦笑する。


「あの子は、私が初めて引き取った子なのです」

「……”浄火”の話の」

「ええ、その子です。ずいぶんと前にここを飛び出してそれきりだったのですが……久しぶりに、元気な顔を見られた。この絵を渡す代わりにこの教会に手出しはしないという話で、うまくまとめてくれたのですよ」


 ははは、と明るく笑う顔には屈託がない。それは成長した息子と再会した親の顔であるように見えた。


「本当に、良いのか?」


 あの夜、サフランが語って聞かせてくれた想いを、ミトロフは忘れていない。ひとつの絵に魅入られ、人生をまで変えた思い入れである。それを失うことの意味は、決して軽いものではない。


「良いんです。この絵が私の手には負えなくなり、また別の場所に赴く時が来たということでしょう。独り占めできなくなるのは残念ですが……今の私には、もっと見守りたいものがあります」


 笑いかけるサフランの顔は軽やかだった。ミトロフの肩越しに視線を向ける。振り返ると、出入り口に子どもたちが集まり、サフランを見ている。


「あの子たちは可能性です。未来につながっている。時を止めた絵をいつまでも見上げるより、ずっと楽しい」


 そうか、とミトロフは頷いた。そうかもしれないな、と。

 それに、とサフランはミトロフの耳元で声をひそめた。


「このように専門家と商人を挟みましたからね。しっかりとお金を頂くつもりです。お金はいくらあっても見飽きませんからね」


 司祭らしからぬ物言いに、ミトロフはたまらず噴き出した。


 



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― 新着の感想 ―
[一言] 書籍化楽しみにしています。 より幅の広がった物語になることを期待しています。
[良い点] これは悲しいけど、いい話! こんな結末、思いもしませんでした。
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