太っちょ貴族は逃げない
ミトロフは唇を噛んだ。
右手で拳を握った。
それを思いきり自分の顔に叩きつけた。
「––––ぶひぃっ!」
痛みは強烈だった。
涙が浮かぶ。
鼻から赤い血がぼたぼたと流れ、ブラン・マンジェのローブに染みを作った。
「ぼぐはッ!」
叫ぶ。
恐怖を、誘惑を、弱さを、追い払う。
「逃げないッ!」
ミトロフは立ち上がる。震える足を叩き、地面を踏みしめる。
山羊頭の歌が部屋中に響いている。上空に黄金の球体が生まれ、何本もの光の荊が絡み付いている。
ブラン・マンジェが魔力を蓄え、必殺の一撃を潜めていたように。山羊頭の老婆もまた、確実にミトロフを撃ち殺すために魔力を練り上げている。
ミトロフは走る。
地面に転がった避雷針を拾い上げ、さらに走る。
ブラン・マンジェを巻き込んではいけない。扉を背にしてひとり立ち、避雷針を掲げて立つ。
空気中に”デンキ”が満ちている。
ミトロフの肌がパリパリと痺れ、髪の毛が逆立つ。両方の鼻から血を流しっぱなしにしたまま、吠えた。
「ぼぐは、ごごだぞ!」
柄を握り締める。巻かれていた”デンキナマズ”の皮が炭となって崩れつつある。
––––ああ、ぼくに力があればな、と。ぼやく自分の声がある。
どんな魔物も一撃で両断できる魔剣とか。
雷の魔法を消しとばすくらいの魔力とか。
決して失敗しない賢さとか、どんな危機も乗り越える勇気とか。
そういうものがあれば、ぼくはもっと、格好良く生きられたのに。
ミトロフは震える歯を噛み締めた。
––––ここにひとりで来たことは、間違いだった。
––––他人に認められたい。自分には力がある。なんだって上手くやれる。自分は間違っていない。
––––そう示したかった。でも、それは愚かなことだった。
だから、せめて最後は、本当に正しいと思えることを。
自分が誇れることを選びたい。
ミトロフの目の端からぼろぼろと涙がこぼれた。何のために泣いているのか、ミトロフにも分からない。
全身に力を込める。ふん、と鼻息を荒く吐く。詰まった鼻血が噴き出した。呼吸ができる。それならまだ、生きている。
「ぼくには、すごい力はない。ひとりじゃお前を倒せない。でも––––逃げない。お前からは、もう逃げない!」
ひとつの雷が落ちる。
掲げた避雷針に衝撃がくる。これまでの雷とは比べ物にならないほど強い。ゴブリンソルジャーが死んだ今、山羊頭の老婆に遠慮はない。
二本、三本。
雷が落ちる。
”デンキ”がぶつかり合う音。空気を破裂させる音。周囲には無数の荊が暴れ回り、ミトロフの視界は白く染まっていく。山羊頭の老婆の歌さえ聞こえなくなっていく。
ただ、立ち。ただ、避雷針を掲げ、ただ、耐える。
持ち手が熱くなっている。巻き付けた皮が熱を持ち始めている。知らず叫んでいた。叫ぶことで耐えている。どこかにある希望を探している。
視界が明滅している。自分が立っているのかどうかもわからない。
暗闇と光が交互に訪れ、光の世界で記憶を見つめる。
ミトロフは叫んでいる––––目の前に母がいる。
ミトロフは叫んでいる––––母は血を流している。
ミトロフは叫んでいる––––どんなに叫んでも、力は目覚めなかった。
どれだけ叫んだところで、都合の良い”力”に目覚めるわけがないと、ミトロフはとっくに知っていた。
あの日、あの瞬間、母を救う力はミトロフの中になかった。
そして今のミトロフにも、できることはない。
握った避雷針は溶け始め、持ち手の革も崩れつつある。雷の奔流に曝され、ただ耐えることしかできない。
だが、ミトロフは”待っている”。
ひとりでは何もできない。死を耐えるだけだ。
ミトロフは自分の中にある”力”など、もう信じてはいない。
けれど、ミトロフはひとりではないから。
来るはずだと、信じている。
––––仲間を。
雷の奔流の中であっても、その音は聞こえた。
なにかが砕かれる音。それは”守護者”の部屋の扉が、恐ろしいほどの力で殴り飛ばされた音だった。
瞬時、空気を切る音が飛ぶ。
それは矢だった。
入るなりに状況を読み解いた射手の狙い違わず、矢は山羊頭の老婆に至る。剣を振り下げ、雷は止まる。矢は老婆の暗黒の身体を突き抜けていった。
「––––おぬし、無事かえ?」
その声を、ミトロフは懐かしく思う。
隣に軽やかに駆けてきたのはグラシエだった。血相を変え、顔中に汗を浮かべ、焦りと不安に瞳を揺らしている。
「……ああ、ありがとう。すごく助かった」
そんな会話を、いつの日かした気がする。あれは、そう、グラシエと初めて出会った日のことだ。
「また、助けられたな」
「なあに、助け合いじゃからな」
「来ます」
グラシエとは逆側に駆け込んできたのはカヌレである。
横薙ぎに飛んできた雷を防ごうと盾を構える。しかしミトロフが掲げた避雷針に吸い寄せられる。
「……これは”デンキ”なんだ。盾じゃ防げない。この棒で捕まえるんだ」
「雷を模した魔法でしょうか。かなり高度なはずですが……それより、ご無事でよかった。後で詳しくお話を聞かせていただきます」
冷え冷えとした声に、ミトロフの背が震えた。明らかに、そう、彼女は怒っていた。
「あちらで倒れているのはブラン・マンジェですか」
「あ、ああ、意識を失ってる。はやく施療院に運んだほうがいい」
「ブラン・マンジェ? 知り合いかの?」
「話せば長いんだが……おっと」
会話の途中で飛んできた雷を捕まえる。
先ほどまでは死を覚悟していたというのに。ふたりが来ると、こうまでも気が抜けてしまう。それはまったく不思議なことだった。
「……きみたちは、頼もしいな」
思わず呟いたミトロフに、グラシエとカヌレは顔を見合わせた。
「なにを当たり前のことを言うておる」
「ご心配なく。すぐに片付けておふたりの治療をしましょう」
そうして三人は並び立ち、山羊頭の老婆を前にする。
あれは厄介な敵だ。なにしろ”魔族”である。
だが、もうなにも恐れることがない。
ミトロフは自分のうちから込み上げる不思議な”力”を感じていた。前に進める。戦える。
負けるはずがない––––ぼくたちは、勝てる。
「よし、行こう!」
ミトロフの一声に合わせて、先手を取るのはグラシエである。
矢筒から抜き取った矢をつがえ、放つ。山羊頭の老婆の、まさにその頭を的確に狙う。老婆は外套を不可視の魔力にはためかせながら、地を滑るように回避した。
剣を掲げ、上空に雷球を生み出した。その剣を振り下ろそうとして。
グラシエはすぐさまに二の矢を放つ。
彼女はエルフの狩人であり、山の中で走り回る動物を相手にして生きてきた––––何十年と。
ゆえに木々も茂みもない場所で、ただ水平に移動するだけの相手を射抜くのになんの苦労もない。
「––––ありゃ、通り抜けてしもうた」
山羊頭の老婆は剣を止めた。
矢は命中した。だが老婆の胴体を突き抜ける。
「ブラン・マンジェが言っていた。攻撃が通用しないと」
「霊体、ということでしょうか。魔力による攻撃でなければ倒せないということになります」
「ちと厄介かのう」
手の止まった三人を前に、山羊頭は顎の骨を震わせて嗤い、歌う。刺突剣を掲げた。
ミトロフはカヌレの腕を引いた。
顔を寄せ、どこか尊大に––––他者に命令し、従わせる貴族の才能を宿した口調で言った。
「カヌレ。ぼくを投げろ」
「––––はい」
「ミトロフ!?」
叫んだのはグラシエである。
訊ね返すことも、戸惑うこともなく。カヌレはただミトロフの指示を実行する。すぐさまミトロフの胴体にしがみつくと、石を放るトロルのような怪力でミトロフを投げたのである。
呪いによって魔物化してしまったカヌレの膂力は、まさにトロルに並び立つ怪力である。
空中を吹っ飛びながら、ミトロフは姿勢を制御する。避雷針を抱いて身体を丸め、衝撃に備える。丸まったミトロフは、その脂肪のおかげで限りなく球体に近い。着地し、転がる。ゴロゴロと。
腕を着き、跳ねるように起き上がり、そのときにはもう山羊頭の老婆は目の前にあって、雷はすぐにも落ちてくる––––いや、落ちない。
山羊頭の老婆が握った剣は振るわれず、魔力はただ滞空している。
「知ってるぞ––––お前は、魔法を使っている間は実体化するんだろ」
じっと見ていたミトロフは気づいている。何度も雷を受ける中で、学習していたのは山羊頭だけではない。ミトロフにも知性がある。
「いま雷を落としたら、実体化したお前も巻き添えを食うぞ。どうする?」
ミトロフはニンマリと笑った。握った避雷針を素早く振るう。脆くなった空洞の鉄は、山羊頭の老婆の持つ刺突剣を叩いた。
衝撃によって避雷針がついに折れる。
刺突剣が老婆の手を離れ、空中に舞った。
歌声のテンポが変わっている。激しく、甲高く、呪いの絶叫のように。
“感情“––––その昂りに、上空の雷球が激しく枝を広げた。雷の枝葉が天井に広がり、周囲を照らし輝かせている。
もはや相打ちも構わぬ。
山羊頭の老婆は顎骨を開き、叫ぶ。共に雷を浴びようと、先に死ぬのは脆弱な人間だと知っている。
雷が落ちる。
––––ミトロフはそれをわかっていた。
ゴブリンソルジャーに構わず雷を落とした。“こいつ“は、そういう“ヤツ“なのだ。知性がある。ならば性格がある。行動に一貫性がある。
相手の性格を読み、推測し、交渉し、誘導する––––それこそが貴族の得意とするところ。
すべてが緩やかに流れる奇妙な時間がある。強化された精神は研ぎ澄まされ、鋭い針のような集中が時間の隙間を縫っている。
ミトロフは折れた避雷針を左手に渡し、空中に飛んだ刺突剣を掴み取った。
左の鉄棒を振るう。折れてもまだ、鎖は残っている。
相打ち? 上等じゃないか。どっちが先にくたばるか、我慢比べだ––––。
振るった鎖は刺突剣に絡みつく。
ミトロフは腰を落とし、足を踏ん張る。決して逃げぬ覚悟の構えで、落ちてくる雷のその先端すら目にしながら、ついに手に戻ってきた愛剣を上空に掲げた。
雷撃。
避雷針とした刺突剣に雷が落ちた。恐ろしいほどの衝撃。視界が真白に染まり、肩から足先まで焼け付くような熱が迸った。
一瞬のうちに通り過ぎた雷は足を通って地面へ。
ミトロフは生きている。歯を噛み締めて立っている。
ミトロフの左手にある避雷針から、山羊頭の老婆へ側撃が移る。
悲鳴が響く。
本物の雷であれば呼吸をする間もなくすべては終わり、ミトロフは死に、どこにも“デンキ“は残らなかっただろう。
しかしこれは魔法である。
ミトロフの身体に絡むように光の棘が弾ける。
長く山羊頭の老婆が握っていたために、刺突剣には魔力の残滓がこびり付いていた。鎖を通して流れた雷は刺突剣を包み込み、一呼吸の間のみ、魔法剣となる。
凄まじい雷撃に、ミトロフは一瞬、気を失っていたようである。だが“デンキ“によって身体が痺れ、硬直したがゆえに、倒れず、剣も離さなかった。
真白い世界の中で、ミトロフは鳥を見ている。
雄々しく美しい巨大な鷲がさっと近寄り、柔らかな翼の先でミトロフを撫でていった。
そして意識が戻る。
目の前には山羊の頭骨がある。
現実。
ミトロフはほぼ無意識のうちに、身体を動かす。
足を踏み込む。
だが力が入らない。
倒れかけ––––駆け寄ったカヌレが、ミトロフを支えた。
腕を上げる。
鎖の巻き付いた刺突剣を握る手が震えて落としかけ––––駆け寄ったグラシエが手を重ねた。
滞留した“デンキ“が三人ともに流れ、荊で包み、ゆえに三位一体となって、紫電の刺突剣は山羊の頭骨を貫いたのである。




