太っちょ貴族は盗み聞きする
子どもは嗅覚に優れている。特に面白いことには鼻が利く。
物珍しい来客であるミトロフとカヌレは子どもたちの人気者であり、食事が終わった後もあれやこれやと遊びの誘いが絶え間ない。
年配の修道女とサフランが言い聞かせてようやく、子どもたちは不満げながらもそれぞれの部屋に戻っていった。
部屋に戻る前に眠りに落ちてしまった幼子らを両腕に抱えて、カヌレが部屋に送り届けている間に、ミトロフは帰りの挨拶のためにグラシエを探している。
キッチンに繋がる扉に近づいたとき、グラシエの硬い声が聞こえた。
ミトロフは扉に差し向けた手を止めた。扉は古く、建て付けが悪いために隙間ができている。中に灯された蝋燭の火が細く漏れ、ミトロフの足元まで伸びている。
「……わかって……ん……ミトロフは…………じゃ」
「……でも……あなたの……」
会話の相手はラティエであるようだった。盗み聞きになっている今の状況はよろしくないと分かっていたが、自分の名前が出たことに気づいてしまうと、どうしても気になってしまう。
ミトロフはここを立ち去るべきか迷いながら、好奇心には逆らえずに耳を寄せてしまう。グラシエの声が明瞭に聞こえた。
「姉上の心配する気持ちは嬉しいが、われは冒険者として務めたいと思っておる。そうすればこの街で過ごせる。実入りも悪くない。子どもらの助けもできるじゃろう。なにが問題だと言うんじゃ」
「あなたが心配なのよ、グラシエ。この教会のことも、私のことも、里のことだって気にしないでいい。あなたの命の問題なのよ、これは」
ミトロフは息を呑んだ。
「私は迷宮に行ったこともない。でもね、元冒険者だった方が何人も教会にいらっしゃるわ。迷宮で友達を亡くした、取り戻せない怪我をした……そんな話をたくさん聞いたの。ねえ、あなたは本当に迷宮で冒険者をしたいの? それはあなたの意思?」
「意思? そうじゃとも。われの意思じゃ」
「グラシエ、あなたはとても真面目な子だわ。だから心配なの。受けた恩を返す……立派な考えよ。でも、恩を受けたからという理由で命を賭ける必要はないのよ。ミトロフさんだってわかってくれる」
「ミトロフがそうしろと言ったわけじゃない。われが自分でそうしたいと考えたのじゃ」
「そう、ミトロフさんは言っていないのね。あなたに来てほしいと言っていない」
「……どういう意味じゃ、姉上」
「ミトロフさんは、あなたを守ってくれるの? その力や覚悟を、持っているの?」
ラティエの硬質な声は、ミトロフの耳を通って心臓に届いた。ばくん、と。その鼓動が大きく聞こえた。
「わしは守ってもらおうとは思っておらぬ。姉上、われらはパーティーなのじゃ。助け合うものなのじゃ」
「そうね、でもあなたは本当に彼のことを知っているの? エルフにとっては葉のような薄い時間しか経っていないのに……それでどうして、”人間”の本質を理解できたと思えるの。そんな相手に命を預けようとしているのよ、あなたは。本当の危機を前にした時にしか、人の本性は分からない。あなたの命が危ないときに、彼が逃げ出さないとどうして言い切れるの。あなたを守れるだけの力があると、どう証明するの」
ミトロフは耳を離した。呼吸を抑え、足音に気を配りながら通路を戻る。
ラティエの言葉が頭の中をいっぱいにしていた。声が繰り返されている。
「ミトロフさま、お待たせしました」
子ども部屋から戻ってきたカヌレと出会い、ミトロフは咄嗟に笑みを浮かべた。
「ああ、カヌレ。ご苦労だったな。ずいぶんと遅くなってしまった。ぼくらも帰ろう」
快活さに違和感を見ながらも、カヌレは頷いた。
「ではグラシエさまにご挨拶を」
「さっきぼくが済ませておいた。今は、ええと、何やら大事な話をしているようだ。邪魔しては悪いだろう」
「はあ……そうおっしゃるのでしたら」
首を傾げるカヌレを引き連れ、ミトロフは教会をあとにした。
月の明かりを頼りにした帰り道で、ミトロフは黙りこくったままだった。頭の中でラティエの言葉を思い出す。それに言い訳をしたり、言い返したりする。面と向かっては言えない言葉を、感情のままに並べてみる。けれど最後には、たしかに言われた通りだ、と頷くことになる。
––––あなたの命が危ないときに、彼が逃げ出さないとどうして言い切れるの。あなたを守れるだけの力があると、どう証明するの。
ラティエのひと言に、ミトロフは返す言葉をいくらでも思いつく。だが、それは自分で自分に言い聞かせることしかできない。
大切な妹の身を案じる姉に、胸を張って自分が言える言葉がどれだけあるだろう。
ラティエはミトロフを知らない。彼女にとって大切なのはグラシエであり、彼女の安全こそが心配なのだ。彼女の不安は、ミトロフという人間への信頼の低さに起因している。
ミトロフという人間は、どんな人間か。
ラティエが問題にしているのはそこだ。
グラシエの危機に、ミトロフという人間は絶対に逃げ出さないと言い切れるだろうか?
ミトロフの左手が無意識のうちに腰を探った。今はなにもない。鞘だけが自室に置かれていて、剣身は守護者の部屋に置き去りである。
山羊頭の老婆と戦ったとき、ブラン・マンジェの助けがなかったとしたら、生きて帰って来れていただろうか。あそこにグラシエがいたとしたら、自分は守れていたのだろうか。
わからない。
「ぼくは、ぼくの”本質”を知らない」
ミトロフは小さく呟く。
––––ぼくは、逃げない人間だろうか?
自問への答えは見つからないまま、ミトロフはむすりと黙り込んで歩いた。
その三歩後ろをついて歩きながら、カヌレはミトロフの様子をうかがっている。
何に悩んでいるのかを訊くべきか、とカヌレは考えている。明らかに様子はおかしい。ミトロフがいつも持ち歩いている刺突剣もないし、手足の動きがときおり、ぎこちない。
何かがあったことは間違いないが、それを打ち明けてもらえないことが、カヌレは少しさびしい。しかし、男性とはそういうものだと、母からよく教わっていた。また、ミトロフは元々が貴族の生まれである。そうした男性は特に考えを秘めるものだという。
不躾に訊ねることは、ミトロフの男としての矜持に差し障ることがあるかもしれない……ならばもう少し、黙ったままでいよう。
カヌレは内心で頷き、ミトロフの傍らに歩幅を詰めた。




