Atmos Fear 後半
Atmos Fear 後半
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[project Violet]とは、何なのか。
何気ない日常の中の、一般向けのニュースで、俺は自分が作ってきた『箱』の真の姿を知ることとなった。
会社から教えられたわけではない。ニュース番組という第三者的存在によって、俺は初めて[project Violet]の全容…、真の目的を知ったのだ。
テレビ画面の中に映っていたのは、見覚えのある『箱』。
クライアントが指定した郊外の空き地に、俺が製造してきた『箱』が積み重なっていた。
その数、一千個。その一千個の箱が積み重なり、正方形に組み立てられ、巨大なCUBEを形作っていたのだ。
ニュースキャスターが、その『箱』についての説明を行う。
その内容は、『箱』の製造者である俺自身ですら把握してないものだった。
ニュースキャスターが『箱』の使用用途を簡潔に告げる。
「これが、本日、政府が発表した新たな死刑執行専用施設、通称[Violet]です。今、この[Violet]をめぐり、世論は荒れています。」
…は?
…政府?
…死刑執行専用施設?
唐突に並ぶ言葉。それは俺の理解の範疇を超えていた。
『箱』が、死刑の為の施設だった?
チャンネルを変えると、何処の放送局でも、この『箱』をめぐる議論がなされていた。
俺は、とある放送局で組まれていた『箱』に関する特別報道番組を、瞬きを忘れる程の勢いで凝視する。
特別放送番組に中で。
[project Violet]、そして『箱』の概要が語られた。
それは、昨今増加する重犯罪の抑止力として開発された、死刑囚の死刑執行の為の専用の施設。
それは、法務省が管轄し『増える凶悪犯罪に対して、迅速に極刑を与える事で社会秩序を守る為に開発』された施設。
そして、その施設の最大の特徴は、多種多様な死刑の手段を選択可能な事だった。
なぜ、このような死刑執行専用施設が建造されたのか。その経緯もテレビの特番が教えてくれた。
通常、我が国の死刑の手段は、絞首刑である。
しかし、とあるテレビ番組に中で、識者が言い放った言葉があった。「絞首刑では、生ぬるい」と。
同意した医学的識者もそれに同意した。「絞首刑の大半は苦痛を伴わず一瞬で死に至る」と。
それを知った社会は声を上げた。「もっと犯罪者が震え上がるような罰を与えるべきである」と。
これらの世論が与党を動かしたのだ。
社会の中に生きる大半の市民にとって、重犯罪者の生死など対岸の火事ではあった。
しかし、死刑制度の見直しというセンセーショナルな話題と、世論が望む死刑制度の強化は、党の票に繋がる。そう判断した与党は、死刑制度の見直しに積極的な姿勢を見せる。しかし野党は人権の尊重を主張。国会はおおいに揉めた。
そんな中、政府与党の一部強硬派は、国会での決定を待たずに企業に施設を作る為の依頼やコンペを行っており、これも国会での論争の種火となった。
結果、時間はかかったが、新たな死刑制度の導入は概ね国会で認められ、制度の検討と施設の開発が進められる運びとなったのだ。
特番の中で写された映像の中で、この施設の建造に携わった関連企業の名前の一覧が提示された。そして、その関連企業一覧の中に、俺の会社の名前があった。
そこで俺は、やっと事態を理解した。
[project Violet]とは、新たな死刑制度に関わる法律改正や企業を巻き込む死刑執行専用施設の建造計画の全てだったのだ。
コンペを行ったのも、『箱』製作のクライアントも、政府そのものだったのだ。
俺が製造してきた『箱』は、この死刑執行専用施設の根幹となる装置だったのだ。
…これが、俺の仕事。
確かに、最近、死刑制度の見直しがニュースで話題になっていることは知っていた。
しかし、まさか、俺の仕事が関係していたなんて…。
そんなこと、誰も教えてはくれなかった。
今までずっと、俺は人を殺す為のモノを作っていた。その事実に放心する俺の目前で、テレビの中の特番では、この死刑執行専用施設[Violet]の更に詳しい概要が説明されていた。
[Violet]とは、死刑を執行する為のシステムそのものであり、その死刑囚に最も相応しい死刑の手段を用意する事ができるという。
そして、その死刑の手段は、『地獄』をモチーフに作られているのだという。
罪人が、最も相応しい地獄で、最大限苦しんで死ねるように。
それこそ、[Violet]の最大の特性であった。
わかりやすく言えば、『箱』の中一つ一つに、凝縮された『地獄』が詰め込まれているのだ。
地獄。それは、死後の世界の共通概念であり、国の数だけ、文化の数だけ、宗教観の数だけ、地獄は存在する。
例えば、仏教における地獄。又は、奈落。
等活地獄。熱い糞尿の湖に落とされ、虫に食いつかれ皮を破り肉を喰われ、鉄壁の中で猛火に包まれ大雨のような鉄板が放り注ぎ、豆を煎るように鉄の甕で熱され、大嵐に身を弄ばれ、炎の口をもつ獣の群れに食われ、鉄の棒で全身を貫かれる。
黒縄地獄。鉄の板に押し付けられ、鉄の縄で縛られ、鉄の斧で網目状に体を切り裂かれる。
衆合地獄。四方から迫る巨大な壁に推し潰され、刃が枝にように生えた樹木に体を切り刻まれる。
叫喚地獄。大鍋の中に入れられて何度も煮られて、最後に獣に食い尽くされる。
大叫喚地獄。熱鉄の鋭い針で、口や舌を死ぬまで何度も刺し貫かれる。
灼熱地獄。鉄鍋で炙られながら全身を熱鉄の棒で打たれたり叩かれる。
大焦熱地獄。炎の刀で体の皮を剥ぎ取られ、沸騰した熱鉄を体に注がれる。
阿鼻地獄。言葉には出来ない程の苦痛を言葉を失う程の数だけその身に浴びる。
例えば、キリスト教における地獄、ゲヘナ。そして、インフェルノ。
ゲヘナの如く、燃え尽きることのない硫黄と炎の池。それは遺体すらも残さず完全に抹消する第二の死。
第九圏、裏切者の地獄コキュートスの如く、首まで氷につかり、涙も凍る寒さに歯を鳴らす。
インフェルノの第一圏辺獄の如く、暗闇の中で飢えに苦しみながら死ぬまで閉じ込められる。
例えば、ヒンドゥー教における地獄、ナラカ。
それは苦痛を表す28の地下世界を永遠に彷徨い続ける地獄。
例えば、北欧神話における地獄、ヘルヘイム。
そこでは巨大な怪物の番犬に引き裂かれ泥濘の中でのたうち回る地獄。
例えば、イスラム教における地獄、ジャハンナム。
終末の審判により灼熱の攻め苦を与えられ続ける地獄。
これらの地獄が、最先端技術を用いて、『箱』の中一つ一つに再現されている。
そして、罪に見合った地獄が『箱』によって罪人の前に運ばれてくる。
『箱』に入れられた罪人は、『箱』の中の地獄によって、燃やされ、切り刻まれ、刺し殺され、ガスで窒息され、押し潰されるのだ。
これが、『箱』に駆動の仕組みをとり入れた理由。
これが、耐熱耐寒耐圧装甲と完全防音の理由。
これが、社内に宗教家が出入りしていた理由。
これが、最先端テクノロジー導入の理由。
俺は、地獄を詰め込む為の『箱』を作っていたのだ。
頭をガツンと殴られた気分だった。
全てを投げ打って、会社に尽くして、作っていたモノが、こんなモノだとは。
いまの今まで、テレビ番組が教えてくれるまで、俺は自分が作っていたモノの正体に、全く気づいていなかった。
外殻だけ作っていた自分には、この『箱』の使い道を知るすべは無かったのだ。
全部、会社の指示でやっていただけの俺に、知る由は無かったのだ。
…
…
[project Violet]。そのセンセーショナルな話題に世間は注目する。
政府が建造した、新たな死刑制度の為の専用施設。その実態が発表されたことで、世論、世間、社会の意見は、そっくり変化を遂げる。
『残酷すぎる』。
世論は[Violet]に実装されたシステムが、残虐すぎると批判を始めた。
新たな死刑制度を検討する旨が国会で決まった当初は、「これで世の中の犯罪が減る」と好意的な意見が散見する雰囲気であったが、実際に[Violet]の実態が公開されたら、世間はすぐに掌を返した。
『いったい国は何故、こんな殺戮兵器を作ったのか!』
[Violet]への、そして製作を指揮した行政への風当たりは、概ね批判の空気に染まっていた。
弁明を求められた為政者は、記者会見を開く。結果[Violet]の稼働は保留となり、今後の活用方法については慎重な検討を行ってから決める、云々と釈明した。
「[Violet]建造の経緯については、実際に稼働ことも含め、政府でも意見が割れています。これはあくまでも抑止の為、重犯罪者対策の為に、緊急的措置として建造したものであり、実際に使用することは現状のところ見通しはなく…」等々、全く持って結論の曖昧な公式発表であった。
更に、記者会見の場で為政者はこうも告げていた。
「政府としましては、あくまでも抑止の為の施設の建造を関係企業に依頼したのですが、その結果、何故このような残虐極まるモノが生まれてしまったのかを、内部調査する予定です」と宣った。
死刑執行専用施設[Violet]の稼働運用は、保留。
そして、何故、このような残酷な施設が世に生まれたのか。それを詳しく調査する。
それが政府の公式見解であった。
ところが、社会の一部では、稼働中止に反対意見を持つ者も一定数存在していた。
[Violet]を建造するための資金は税金である。このままでは、費やした費用や人材が無駄になる。また税金で作られた無意味なハコモノが増えるだけではないか。
更に、稼働における人材雇用も進められていたため、稼働中止によって職を失う者もいる。世論も一枚岩ではなかった。
その上、費用捻出の為に諸外国の援助もあったことが発覚した。
多数の視点での意見が交錯し、[Violet]の今後の運用手段については未だ混迷の中であった。
…
…
政府曰く、何故[Violet]という残虐極まる殺戮施設が建造されてしまったのか。
政府は公式会見の場で、その理由を『建造を依頼した企業の暴走』と発言した。
「私達は国民の為に正しく税金を用いて、その善意に従い、施設の建造を企業に依頼しました。結果、完成したのは、私達の善意とは全く逆の悍ましいモノが生まれました」云々。
「私達も、このような邪悪な施設が作られることは想定外でした」云々。
「依頼した企業が私達の指示を全く聞かなかったのです」云々。
更に、この内部調査の結果は、ニュースや新聞、為政者と繋がりの深い評論家などを用いて、大々的に発表した。
結果、社会の雰囲気は、政府の発表した『暴走した企業』を批判する方向に傾いていった。
これら為政者側の動きには、間違いなく恣意的なものがあり、徹底的なイメージ戦略を行い、政府への風当たりを少しでも回避しようという、ある種のシビリアンコントロールが機能していたのは、言うまでも無い。
…
…
早朝、6時半。
俺は会社に向かう電車の中、携帯でニュースを視聴する。
[Violet]の初報道を聞いてから、ニュース番組に目を向ける機会が圧倒的に増えた。
毎日、更新され続ける[Violet]関連の話題。
世間では未だ[Violet]についての報道が続いている。
最新のニュースは、[Violet]を建造した建築会社への社会的責任を追求していく、というものであった。
その世間が注目する建築会社は、言わずもがな、俺が務める会社である。
こんな早朝に出社するのも、日中に会社の前で行われるデモ活動に出くわさない為だ。
今、世間は、俺の会社を『社会の敵』だと非難している。
政府の公式見解の後。連日、俺の会社の前には、会社を弾劾する集団が押し寄せていた。
『悪の企業滅ぶべし!』
『正義は我に有り!』
そんな文字の書かれたプラカードを持つデモ集団が並んでいるのだ。
そのデモ集団の中には、見慣れた白と黒のパーカーを着込んだ者達も散見している。
白と黒のパーカー。お馴染みの『善人ソサエティ』のユニフォーム。俺自身は既に関係を絶っているが、活動は今も続いている。
うちの会社が、かつての友や彼女が所属する活動団体に目をつけられているというのは、気持ちのいいものじゃない。
最近はその活動内容も更に過激になり、噂によれば、恐喝行為や器物破損といった案件も横行しているらしい。
だが、うちの会社を敵視しているのは『善人ソサエティ』だけではない。世間全体からバッシングを食らっているのが、現状なのだ。
そんな世間に対して、今のところ会社は沈黙を貫いている。この苦境をどう乗り越えるかを管理側が検討しているのだ。
「あー、○○くん。ちょっと、ちょっといいかな?」
小さな仕事を細々としていた俺に、部長が声を掛けてきた。
「こっちに来てくれ。」そう言って、部長は俺を個室に呼び入れた。
「あー、今ね、例の[Violet]について、うちの会社としてどう世間に責任を示していくべきかを検討していたのだがね…。」
「はぁ…。」
何か妙案が思い付いたということか。
俺は部長の発言に耳を傾ける。
だが、部長の発言は、俺の予想外のものであった。
「[Violet]は、君が考えたもので、君が建造の責任をとっていた。だから、管理側としては、君の責任にする方向でまとまりつつある。」
は?
何を言っているんだ、この男は。
「いや、だって、あれは部長の指示で建造したものじゃないですか。なんで俺の責任なんですか!」
当然、俺は反論する。俺は上司の指示に従っていただけなのだ。責任なんてあるはずがないのだ。
「責任なら、指示をした部長がとるべきでしょう!」
俺は初めて、部長に反論した。
「それに、なんで[Violet]が、死刑の為の施設だって俺に教えてくれなかったんですか。もし[Violet]が死刑の為の物だと知っていたら、俺は仕事を引き受けませんでしたよ!」
そう俺は反論を続ける。
部長は[Violet]が何なのか、知っていて俺に指示をしていたんだ。だったら責任は部長にだってあるはずなのだ。
しかし、部長の言葉は意外なものだった。
「わ、私だって、あれがなんなのか、知らされていなかったんだよ。」
は?
また、何を言っているんだ、この男は?
「私も上司の指示に従っていただけ、いただけんなだよ。」
部長自身、会社での立場が上の管理職の指示に従って、部下に指示をしていただけだというのか!
「私は、会社の空気に合わせて働いていただけだ。そこに責任なんてあるわけが、あるわけがないじゃないか!」
部長のその台詞は、どこかで聞いたことのあるものだった。
「それに私は、上からの指示をいつも逐一部下の伝えていた。会議だって開いて、社員の同意を得ながら仕事を指示していたはずだ。」
確かに、部長の行動は一貫していた。だが、それが同意と思われるのは、おかしいだろう!
部長の言葉は続く。
「会議の中では、誰も私の意見に反対しなかった。だから私は、君も、部下の皆も、私に同意して働いてくれていると思っていたんだ。」
「しかし、あの時の会議の空気の中で、俺達部下が反対なんて出来るはずがないじゃないですか。俺たち社員は、部長の意思を想像し、頷き従うしかなかったんです。だからやりたくない仕事を引き受けさせられて、あんな『箱』を作ってしまったんですよ!」
「わ、私の意思だって?」
「そうです。部長はいつも『お前達は俺たちに言われた通りにやっていればいい。何かを選択したり何かを判断する必要は無い』。そう俺達に言っていたじゃないですか!」
「わ、私はそんなこと、一度も言っていない。それは君の思い込みだ。勝手な忖度だ。それに、その言葉は、君自身が部下に言った言葉だろう!」
…え?
…忖度?
…俺の、言葉?
一瞬、頭が真っ白になる。
「私は、君達が会議で一言も反対せず、素直に指示に従ってくれていたから、君達皆が、仕事への責任を意識しながら企業努力をしてくれていると信じていたんだ。今更、『本当はやりたくなたかった』なんて意見が通ると思っているのか!」
そして、俺と部長の堂々巡りの責任のなすり付け合いは、俺の沈黙で終わりを告げた。
…
…
⒏
部長との口論の翌日。俺は会社を休んだ。理由は病欠。実際に頭は痛かった。
頭の中がごちゃごちゃだ。思い返すまでもない、最近の自分の仕事への向き合い方。そして、遠い昔のように感じる過去の自分の仕事への向き合い方。
比較するまでもない。
俺は、自分が成りたくない自分に、自分で成っていたのだ。
その事実は、苛つきと怒りと、自己嫌悪を抱かせ、気持ちは滅入るばかりである。
気晴らしに、俺はテレビを点けた。
『緊急速報です!』
テレビの画面に、マイクを持ったリポーターの姿が映る。
『先程、地下鉄の駅で異臭があると通報があり、警察が捜査したところ、なんと人体に有害なガスが散布されている事が解りました。駅構内でガスを吸ったと思われる何人かの人が病院に搬送されています!』
それは、俺が住むこの街にある地下鉄駅でのニュースだった。
毒ガスが散布!
この只事ではない事件に、俺は食い入る様にテレビ画面に注目する。
それから一時間ほど経過した。
ニュースによれば、通勤で混み合う時間だったが、ガスの発見が早かったことで死者は出ていないらしい。
しかし街の混乱は酷く、完全に交通網は麻痺しているそうだ。
今日、俺も会社に行っていたら、この騒動に巻き込まれた可能性は高い。
世間の者には申し分けないが、安堵に胸を撫で下ろす。
『なお、これは大量の死者が出る可能性の極めて高い明確な殺人未遂と警察は断定。悪質なテロ組織によるものであると推測されています。』
テロか。確かにこれは殺害を目的とした、テロ行為だ。
『更に、警察は、今回のこのテロ活動には、昨今世間の注目を浴びている組織団体『善人ソサエティ』が関係しているものと発表しています。』
リポーターの言葉に、俺は腰が浮くほど仰天する。
『最近になり、この組織団体は過激な活動が目立っており、顔を隠しながら暴行や器物破損といった事件を繰り返していると警察も警戒していましたが、今回、ガス発生装置を駅構内に設置したと思われる不審な人物が駅内の防犯カメラに映っており、身元の特定を急いだところ、この人物が『善人ソサエティ』と関係の深い人物だと確定。今回の大量殺人未遂事件との関係を警察は追及する構えです。』
リポーターの言葉とともに、防犯カメラに映されたという人物が画面に出る。
…A山だった。
大量殺人未遂。テロ。『善人ソサエティ』との関係。そしてA山。
はぁぁぁぁぁ…。
連続する情報に、頭の処理が追いつかず、俺は長い溜息を漏らす。
♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪!
突然、携帯電話の着信音が鳴り響く。
我に返った俺は、携帯電話を手にする。
コール画面に表示された者の名前は…。
元彼女の、C子だった。
…
C子とは、長らく会話していない。別れたっきり、会ってもいない。電話なんて、何ヶ月ぶりだろうか。
「…もしもし。」若干の警戒を抱きながら、俺は着信に応じた。
「あ、〇〇くん。久しぶりだね。」
「…ああ。」
「私、今、あなたにとっても会いたい気分なんだ。」
「…え?」電話口から聞こえるC子の甘えた声に、俺は驚く。
「今から、君の家に行ってもいいかな?」
…彼女との別れ方は、決して気持ちのいいものでは無かった。ずっと俺の中で蟠りは燻っている。仕事に没頭する事で未練を断ち切っていたが、今の俺には仕事を逃げ場所にできない。
もし、寄りが戻るのなら、それは俺にとって凄く嬉しいことだ。
「解った。今、家にいるから、待ってるよ。」
「ありがと!」
そう言って、電話は切れた。
それから30分後。
C子が俺の自宅に訪れる。
そして、開口一番「君にお願いがあるんだ。一緒に来て。」
そう言って、C子は半ば強引に俺の手を引き、家を出る。
到着した場所は、見覚えのある場所だった。
そこは、かつて『善人ソサエティ』一回目の集会が開催されたビル。
現在『善人ソサエティ』は活動拠点を別のビルに移しており、今はここは使っていないはずだ。
一体、何故C子は俺をここに連れてきたんだろうか。
「入って。」
…嫌な予感がする。今更だが、俺の予感は、結構当たる。
C子に促され、俺は会議室のドアをくぐる。
ゴリ。側頭部に硬い金属を押しつけられる音がした。
「久しぶりだな。○○よぉ。」
そこには、手にした拳銃を俺の頭に押し付ける、A山がいた。
…ああ、悪い予感だけは、当たるんだ。
…
テレビのニュース通りなら、A山は地下鉄に毒ガスを散布した大量殺人未遂のテロの犯人だ。
そして、A山は、警察から逃れるために、このビルに身を隠しているのだ。
俺は、C子に連れられて、そこにノコノコとやってきてしまった。
「俺に何か用なのか?」そうA山に問う。
「ああ。お前に会いたかったよ。」不敵に笑うA山。俺の側頭部の拳銃はそのままで。
「なんで、俺に銃を向ける。俺が『善人ソサエティ』から抜けたことがそんなに許せなかったのか?」
「この拳銃は、お前を撃つためのモノじゃない。友達を撃ち殺したりはしないさ。」
「じゃあなんで、俺に銃を向ける?」
「俺がお前に銃を突きつけているには、お前が『悪』だからだよ。」
悪?
俺が?
「な、何を言っているんだ、A山。俺が何か悪いことをしたか?」
「ああ。俺は知っている。あの大量殺戮兵器[Violet]を作ったのは、お前なんだってな。」
びくり。俺の胸の鼓動が高まる。
「C子から聞いたよ。その[Violet]を作ることを、偉そうに自慢していたってな。」
俺が[project Violet]に携わっていることを伝えたのは、C子だけだ。A山がそれを知るには、C子から聞く以外、あり得ない。
自慢などしたつもりはなかった。しかしC子には、そう映ってしまったのか。それが苦惜しい。
だけど。
「俺が[Violet]に関係していることと、お前がテロ事件を起こした事と、何か関係があるのか。」
「ああ。大有りだぜ。」
A山が俺の正面に回る。拳銃は俺の眉間を捉えたままだ。
俺を睨みつけるA山の視線は憎悪に染まり、狂気を孕んでいた。
「A山…。一体何があったんだ。」そう俺は問う。
「全部、世間が俺の正義を信じなくなったからだ。」
正義だと。
世間が正義を信じなくなったから、こいつはテロを起こしたというのか。
「俺が作った『善人ソサエティ』は、国に意見できるほど強い力を得ていたはずなんだ。だが、今や警察が『善人ソサエティ』の活動を警戒している。それは、社会が俺達を認めなくなってしまったということだ。なぜだ。何故、俺達はまた、社会に蔑まされる! 何故、世間は俺達を見下すんだ! 誰が俺達を見下しているんだ! 働いている奴はそんなに偉いのか! 夢もなく社会の歯車になって他人の指示ばかり聞いている奴の方が偉いのか!俺はそんな奴らが許せない。奴らこそ、悪だ! 悪を滅ぼすために、俺は正義の味方として『活動』した!」
「…その『活動』とやらが、地下鉄への毒ガス散布だというのか! 大勢の人間が死ぬところだったんだぞ!」
正義なんて曖昧な概念で自分を縛り続けてきた結果が、組織の暴走であり、A山の凶行なのだ。しかし、コンプレックスを拗らせた当のA山自身は、そのことに全く気づいていないのだ。
「苦労したんだぜ。だが、これだけの努力をしても、世間は全然解ってくれない。」
当たり前だ。大勢を危険に晒して享受できる正義なんて、在る筈がない。
「けれどな、正義を示す方法はある。『真の悪』を断罪すればいいんだ。そうすれば、社会は目覚めるはずだ。俺の正しさを、正義の存在を、再び理解するはずだ!」
「真の、悪だと?」
「そうだよ。『真の悪』を断罪すれば、『善人ソサエティ』は再び、正義の集団になれるんだ!」
「その『真の悪』っていうのは、まさか…。」
「そう。〇〇。お前だ。今世紀最凶の殺戮兵器[Violet]を作ったお前こそ、『真の悪』に相応しい。」
こいつは、狂っている。
その時、突然、俺の両腕が何者かにがっしりと掴まれる。
「な、なんだ!」慌てる俺だったが、掴まれた両腕を振り解くことはできない。
俺の両腕を拘束しているのは、古くからの友人であったD田とE藤だった。
「お、お前ら、手を離せ!」
抵抗する俺だったが、
「許してくれ、〇〇。」
「A山の命令なんだ。大人しくしてくれ。」
二人が拘束を緩めることはない。
もがく俺の耳元で、二人が小声で耳打ちする。
「A山もな、組織の為に一所懸命やってきたんだ。でもこんな結果になって、信頼を失いつつある。困ってるんだ。お前もそこのところ、忖度してやってくれ。」
「それにな、組織がなくなっちゃうと、俺達も困るんだ。他に俺達の居場所はないんだよ。だから、お前もいつも通り空気読んで、黙って指示に従ってくれ。」
二人に言っていることは、支離滅裂だ。
なんで俺が忖度しなきゃいけない!
なんで俺が空気読んで指示に従わなきゃいけない!
こいつら、みんな、狂っている。
正常の判断ができなくなっているんだ!
「お前ら、行くぞ。」
そう言って、A山は部屋から出ていく。
俺をどこに連れて行こうというのか。
「C子!」
俺は事に成り行きを黙って見ているC子に声を掛ける。
「C子、助けてくれ! こいつら、みんなおかしくなってしまった!」
しかし、C子は無言で俺を一瞥し、A山に寄り添って部屋から出て行ってしまった。
D田とE藤に拘束された俺も、A山の後を追う形で、部屋から連れ出された。
…
A山達に連れられて行き着いた場所。
それは、俺にとって馴染みの深い場所。
俺の会社の前だった。
時間は正午を迎えようとしている。
そこにあるのは、昨日と同じ光景。
『悪の企業滅ぶべし!』
『正義は我に有り!』
俺の会社を『社会の悪』と断ずる集団…正義を掲げるプラカードを持つデモ集団が並んでいる。
そして、その集団の大半は、白と黒のパーカーを着た『善人ソサエティ』で構成されている。
今、悪い意味で『善人ソサエティ』は世間の注目を集めてしまっている。
そんな組織が行なっているデモ活動を映像に収めようと、スクープ狙いに報道陣も集まっている。
A山にとってこの場所は、顔見せのリスクはあるが、自身の正義を掲げる為の格好のステージなのだ。
拘束された俺を連れ、A山がデモ集団の前に躍り出た。
「A山さんだ!」「我らがリーダー!」「今までどこに行っていたんですか!」
A山の登場に湧き立つ集団。未だ『善人ソサエティ』でのA山の影響力は大きい様だった。
デモ活動の報道に来ていた報道陣も、A山の登場に盛り上がる。
「『善人ソサエティ』の皆んな。そして、[Violet]稼働反対のデモに参加した皆さん。聞いてくれ。俺たちは正義を掲げて組織を作った。俺たちは正義を掲げて社会を変えようと努力してきた。正義は勝つ。その命題を至上の使命として活動してきた。」
A山が、デモに参加する集団と、報道陣に向かって声を張り上げる。
デモ参加の集団は、リーダの力強い言葉に耳を傾け、報道陣はスクープ映像を狙いカメラを回す。
「俺たちが、『善人ソサエティ』こそが、正義なのだ。俺たちこそが、正義の味方なのだ! そして今、真の社会の害悪を成敗する時が来たのだ。悪を滅ぼすことこそ、我ら正義の味方の使命なのだから!」
俺は、A山の隣、デモ集団の前に連れ出される。
俺を拘束するD田とE藤の腕は緩むことはなく、逃げ出すことは叶わない。
集団の前に晒される俺の姿を見て、A山は満足げな表情を浮かべる。
「では、悪とは何か? いや。悪とは、誰なのか。俺は知っている。真の悪の姿を!」
A山が俺を指差す。
「こいつだ。」
集団の前で、俺の罪を告発するA山。
「今、社会で問題となっている[Violet]、あれこそ大量殺戮兵器そのものであり、度し難い悪である。そして、その悪の兵器を作った者こそ、真の社会の悪である!」
A山の言葉は続く。それは既に、デモ活動として言葉を発するというレベルではなく、その影響力は苛烈なテロ組織へのアジテート(扇動)と遜色なかった。
「こいつは〇〇。あの大量殺戮兵器[Violet]を作った人間。即ち、悪の権化なのだ! 正義の味方であるお前達は、こいつを許しておけるか!」
集団を煽るその煽動者の声に、煽られた集団が声を挙げる。
「NO!」
「NO!」
「NO!」
「正義の味方の旗印のもと、こいつを断罪すべきか!」
「YES!」
「YES!」
「YES!」
俺の断罪を望む怒声と足ぶみが、空間を支配する。
「悪滅ぶべし!」
「悪滅ぶべし!」
「悪滅ぶべし!」
集団の怒りが、その場の空気を飲み込み、巨大なナニカに変貌していく。
その光景を見て、A山の表情は、笑顔に歪む。
「俺はかつて、この男と友情を築いていた。しかし、こいつは俺を裏切り、正義の道を外れ、悪の兵器を作る側になってしまった…。かつての友であるお前を裁くのは辛い。だがこれもリーダーの役目だ。解ってくれ、〇〇。」
目の涙さえ浮かべるような勢いで、A山は自身への同情を誘う。
俺を拘束するD田とE藤の目も涙目になっている。
なんだ、なんなんだ、この集団は!
狂っているにも程がある!
雰囲気と勢いだけで、人はここまで喜怒哀楽を揺さぶられるというのか!
まずい。本当にまずい。
今すぐこの状況を変えなければ、この集団は本当に俺をリンチしかねない!
俺はその雰囲気を変えるべく、反論を行った。
「あ、あの施設を作ったのは、俺の責任じゃない! 俺は関係ない。俺は会社の指示に従っただけなんだだ!」
責任を逃れる為に、大声で叫ぶ。
「は! 仕事だと! 仕事だと言えば、なんでも許されると思っているのか!」
俺の反論に、A山が過敏に反応する。
そして、俺だけに聞こえる声で、冷たく突き放したような口調で、憎しみを込めて、囁く。
「お前は、自分がやりたい事やれているんだ。やりたい事を仕事にできていたんだ。やりたい事をやれている奴はいいよな。やりたい仕事を選べる奴はいいよな。やりたい事やって、それで金が貰えているいるんだから。世間に認められているんだから。くそが! やりたくない事をやらされる仕事なんて、ある筈ないだろうが! お前は、いつも苦労していますなんて顔して、自分が世界で1番大変なんですなんて自慢げにして! 贅沢言ってるんじゃねえぞ!」
…コンプレックスを拗らせたA山には、何を言っても届かない。決定的な温度差がそこにあった。
A山が、再び集団に向かって声を張り上げる。
「こいつだけは、許してならない。そして、俺たちには正義の味方としてこいつを捌く権利がある。さぁどうしたい!」
集団を煽るA山。その声に、
「死刑!」
「死刑!」
「死刑!」
集団が呼応する。
俺の不幸を願う暴徒と化した集団。
それはまるで一つに生き物であり、醜く身をくねらせる巨大な大蛇のように、俺を飲み込もうとしている。
なんで、こいつらは、俺を裁こうとするのだ!
お前たちにとって、俺など、無関係か他人なんだぞ!
しかし、俺はその理由に、論理無き理屈に、思い至る。
他人の罪を裁く。その行為は、悦楽感や万能感を人にもたらす。誰しもが、裁く側に回りたい。なぜなら、判断することが気持ちいいからだ。
他人を裁く行為は、人に強い悦楽を感じさせる。
人間は、目の前の物事を解った気になって、結論が出せた気がすると、安心するのだ。
判断することで認められた気分になるのだ。
自分は間違っていないと思いたい。だから他の人にも同意を求める。
判断したい。自分は正義だと信じたい。そうやって形成されたのが、この集団『善人ソサエティ』なのだ。
そんな集団にとって、自分は『悪』だと認知されている。
この集団にとっての価値観に合わない自分が、この集団に許される訳がない。
浮かぶF岡の顔。かつて集団と雰囲気に殺された同僚。
強い恐怖と、既視感が俺を包む。背筋が凍る。
俺は恐怖から逃れる為に、再び反論を試みる。
「みんな、聞いてくれ! この『善人ソサエティ』は、俺達が居酒屋で思いついただけの、A山の承認欲求を満たすためだけで作られた組織なんだ! みんなが信じる命題だって、俺の単なる思いつきなんだぞ! そんな始まり方をした組織を、皆んなは信じられるのか!」
そんな俺の暴露に対して、
「悪人の戯言だ、耳を貸すな!」
と、A山は一笑に伏す。
「この崇高な『善人ソサエティ』が、単なる酒の席の雰囲気で生まれる筈がないだろう!」
…あぁ、A山の解っている。俺が真実を告げていることを。痛いところをついていることを。
組織の始まりは、B沢への単なる当てつけ。A山の自己満足。そこをA山は十分に理解している。
しかし、その事実すらも、今、捻じ曲げようとされている。
「こいつは嘘つきだ。この崇高な断罪の場ですらも、平気で嘘を吐く真の悪だ!」
結果、集団の怒りはさらに倍増した。
なんだこれは。まるで魔女裁判だ!
犯してもいない罪で裁判にかけられ、否認すれば罪人として処刑される。
魔女は水に浮かない。だから水に沈めて溺死すれば無罪。死ななければ魔女として死刑。
そんな制度がまかり通っていた時代に逆戻りしたかのようだ。
言葉で納得させるのは不可能だ。俺は力いっぱいに身を捩り、拘束から逃れようとする。
しかし、抵抗する俺に、A山がテレビカメラの死角になる位置で銃を突きつける。
「無駄だ。諦めろ。」
A山が、そう囁いた時。
その時。
A山に変化が訪れた。
A山の視線が、俺から外れた。
そして一言。
「B沢ぁ…。」
A山の視線の先には、俺やA山の共通の友人、B沢が立っていた。
…
俺を断罪する集団から外れた位置に、B沢は立っている。
A山の承認欲求からの当てつけで、俺達の集まりから追い出されたB沢。
半年以上の間、俺はB沢と顔を合していなかった。
『善人ソサエティ』との関連もなかったはずだ。
そのB沢が、突然、このタイミングで現れたのだ。
「いやぁ、凄い騒ぎだね。」飄々としたB沢。
「B沢! なんでここにいる!」
この事態に最も驚いたのは、かつてB沢が袂を分かった原因を作ったA山自身であろう。
『善人ソサエティ』は、もともと、B沢への当てつけで始まったのだ
A山が、目の前に現れたB沢を意識しない筈がない。
「どうだ、B沢 ! これが俺の力だ!」
興奮したままの感情をそのままに、A山はB沢に言葉を放つ。
デモ集団を一暼するB沢。
「これが君の作った集団か。凄いじゃないか。」
B沢の賛美に、A山がニヤリとする。
しかし
「でも、なんだか雰囲気が悪いね。警察に睨まれているんだろ?」
そのB沢の言葉に、A山の顔が歪む。
「ふん。今はな。だがこの悪魔○○を世間の差し出せば、組織は安泰になる!」
A山の思考は変わらず支離滅裂だ。しかしB沢は、そんなA山の勢いに飲まれない。
「悪魔は彼だけじゃない。それを許していいのかい?」
不可解な発言をするB沢。何が言いたいんだ?
「まだ悪魔がいるだと!誰が悪魔だ!」
吠えるA山。そんなA山に、B沢は言葉を続ける。
「君だよ。君が悪魔だ。君は嫉妬に狂っている。まるで嫉妬の悪魔リヴァイアサンだ。そのせいかな、この組織は暴力に塗れている。それで正義の味方とは…。ちょっと品がないんじゃないかな。」
「な!」
「言っただろう、命題は大切だって。それが組織の雰囲気になるからね。この組織には未来がない。」
「貴様!」
「適当な命題で無秩序に膨れ上がった組織が、何かを為すなんて、無理に決まっているだけじゃないか。所詮、世の中の決まり事は、管理側が決定権を握っているんだ。その秩序を変えないと、世の中なんて何にも変わらない。言っただろ。世の中変えたければ政治家になればいいじゃないか、と。」
「な、なんだと!」
B沢は、組織の雰囲気に、A山の勢いに、正論で水を刺す。
その場違いな発言。空気を読まない。まさにいつものB沢だ
しかし、そんな正論ではA山は止まらない。
空気で膨れ上がった風船の中身は、既に歪んだプライドとコンプレックスと、空虚な命題で作られた鉛が支配していたのだから。
空気が、凍りつく。
俺を拘束する腕も、いつの間にか緩んでいた。
「貴様ーーー」
興奮したA山が、B沢に銃口を向ける。
まずい! Bが殺される。
「やめろーーー!」
A山の凶行を止める為、俺はA山に飛びかかり、拳銃を持つ手を抑える。
しかしA山は銃口をB沢に向けようと必死でもがく。
A山から拳銃を奪うしかない!
俺は必死でA山の手から拳銃を取り上げた。
しかし、A山は拳銃を俺から取り戻そうと、乗り掛かってくる。
俺とA山がもみくちゃになって拳銃を奪い合う中。
偶然、俺の指が、引き金に触れた。
そして、押さえつけたれた勢いで、引き金を、引いてしまった
拳銃から飛び出た初速1500kmの弾丸は、
Aの頭を、
直撃した。
脳漿が飛び散る。
脳細胞の混じる鮮血が、俺の全身を染める
その光景に、俺の脳味噌は、ショートする。
…。
「いやーーーーーーーーーーーーー!!!!」
気がつけば、俺はA山に縋りつき、泣き崩れる彼女を見ていた。
「止めようとしたのに。ごめん」と誰かに謝るB沢の声が聞こえる。
…。
血と脳漿の血溜まりが広がるその光景を見た集団の中から挙がる声はない。
その暫しの静寂の後。
彼女が一言。
ぽつりと一言。
「こいつが殺したんだ。」
…え?
「隠し持っていた銃で、撃ったんだ。」
…は?
「そうでしょ、みんな!」
C子が、皆に涙目で訴えかける。
「そうだ、こいつが殺した。」
「A山さんを、こいつが殺した。」
「我らのリーダーを、こいつが殺した。」
「こいつが殺した。」
「こいつが殺した。」
「こいつが殺した。」
先程までの昂りが盛り返してきたかのように。
その場にいた集団が、叫び出す。
俺がA山を撃ち殺した、と。
それは、その場にいた全員が、俺の犯行だと証言したと同じだった。
集団が叫ぶ光景と、既に顔もわからないA山の遺体を見ながら呆然としていた俺は、そのまま、なすがままに、警察に捕まった。
…
…
A山の死から数日後。
俺は警察に拘禁されていた。
なんで俺がこんな目に遭っているのか。
考え出したらキリが無く、それを完全に受け入れられる理屈は思い浮かばない。
しかし、過程はどうあれ、俺が撃った拳銃で、A山は死んだんだ。警察に捕まるの事は仕方ないと思う。
だから俺は、大人しく禁錮され、事情聴取にも素直に応じた。
罪を犯した事は間違いないが、正当防衛だった部分も確実にある。情状酌量の余地は充分にあると思っていた。
しかし、予想に反して、取り調べの際の刑事の声は厳しく、「なぜ殺した?」「動機は!」「昔から憎かったのか!」といった具合に、完全に殺人犯のそれだった。
…
…
⒐
禁錮されたままでの、ある日。
会社の上司、部長が面会に来た。
面会を許された俺は、部長と数日振りに顔を合わす。
「誤解もあって今は禁錮の身です。会社にも迷惑をかけていますかね…。」
申し訳ない気持ちを込めて、俺はアクリル板越しに部長に声をかける。
「ま、それはそれだ。今日は会社として、会社として君に伝えたいことがあってきた。」
…ここまで来て、仕事の話か。
「[Violet]の件ですか。その後、[violet]はどうなりましたか?」
俺の質問に対して、部長は淡々と答える。
「稼働は保留されている。しかし、しかしそんなことはどうでもいい。問題は、責任だ。」
嫌な予感がした。先日の部長との口論を思い出す。
「世間では、「Violet]建造の責任が我が会社に有るという風潮なっている。それは知っている、知っているね。」
「…はい。」
「しかし、それはとんだ誤解なのだ。我が社は、我が社は全く悪くない。」
…それはそうだろう。会社だって、国に指示されて作ったんだからな。
「我が社の方針としてはだね、管理側は、十分な時間をとり、十数時間にも及ぶ会議を重ねた結果、[Violet]建造の全責任は君に有るとして、事態にあたることが決定した。」
え?
「いや、ちょっと待ってください。なんでそうなるんですか!」
俺のいないところで話し合い? ふざけるな!
再び先日の興奮がぶり返す。
「最終的には管理側の多数決で、満場一致で決定したと聞いている。」
いや、待て待て待て。
多数決?
当事者に何の確認も無く?
「君個人の暴走の結果として [Violet]が建造された。つまり会社は君の暴走の被害者だ。もちろん、君の暴走を容認した監督不行き届きな部分があったことは、我が社の反省点であるがね。」
ふざけるな!!
「俺は会社の指示に従っていただけです!」
声を張り上げる。アクリル板が俺の唾で汚れる。
「私は、私は君の味方をしようとした! しかし、君は私に責任を転嫁しようとした。」
…先日の口論のことを言っているのか。
「君は私を、私を裏切ったんだ。私は君達部下のモチベーションを維持するために必死だった。泣く泣く仕事から逃げる部下に引導を渡したこともあった。それも全て会社と部下を守るためだ。しかし君はそれも全て、私が悪いと言うのだろう。そんな部下を私はもう擁護できない。」
…な!
これが、これが部長の視点だと言うのか。
…一つ、腑に落ちたことがある。
あぁ、この人は単なる中間管理職なんだ。裏はない。誰よりも真面目なだけなのかもしれない。だから、この人にもう何を言っても、無駄なのだろう。
それでも一言。俺は反論を試みる。
「[project Violet]って、何かおかしいと、思っていたんですよ…。」
「だったら会議で反論しろ! その反論は議事録にも残る。議事録とメールを見て、会社は君の責任だと判断したんだ。反対しなかったのはお前の責任だ!」
その部長の言葉で、面会は、終わりを告げた。
戻された鉄柵の中で。
俺は気づいたことがある。
真に邪悪だったのは、会社という集団なのだ。
自分たちは何ら責任を取ろうとすることなく、話し合いと言う名目のもと、多数決と言う平等のもと、弱い立場の者に、その責任を全て押し付けたのだ。
俺は、会社に見捨てられたのだ。
それは、社会への供物…。生贄に、されたのだ。
…
…
鉄柵の牢の中。
会社に見捨てられた俺が思う事は、仲間の事だった。
C子や、D田。E藤達は、『善人ソサエティ』は、今、どうしているだろうか。
俺の無罪を証明するために、奔走しているの者もいるのだろうか。
そんな夢想をする。
「面会だ。」
獄に繋がれた俺に、再び面会者が訪れた。
誰だろうか。
面会室のアクリル板の向こう側にいたには、友人であるB沢だった。
「B沢!」と、俺は友達が会いに来てくれたことを喜ぶ。
「『善人ソサエティ』は、今、はどうなった?」
と、B沢に気掛かりだったことを質問する。
「あぁ。リーダーが死んだことで、空気が萎むように『善人ソサエティ』は解散したよ。しかし、警察はまだ事件の詳細を追っているらしい。」
「…そうか。」
「まぁ、あんな悲劇があったんだ。当然だろうね。」
リーダーか。俺は死んだA山を悼む。
「なぁ、B沢。俺は、あの悲劇を止めれたのかな?」。
「ああ。君なら止められたね。」
俺の質問に、B沢は即答する。
「君は、あの集団の始まりの場所にいた。あそこで止められれば、こんな悲劇は起きなかった。君だって、今、この獄にはいなかったはずだ。」
それはそうだ。でも…。
「でも、でも、俺はあの時の空気では、ああせざるをえなかったんだ!」
「それは今更だ。言い訳にしか聞こえないね。」
B沢は、俺の心中に忖度することなく、はっきりと言い放つ。
「それはそうと、君には伝えた方がいいと思うことが有って、ここに来たんだ。」
「なんだ?」
「A山殺害の事情聴取で、C子や他の者達は皆、君が『善人ソサエティ』の創始者だと証言している。その上で、創始者を差し置いて組織を運営していたA山を、君が嫉妬に狂って殺害したとも証言している。」
「ま、待てよ。確かに、俺は『善人ソサエティ』の名付け親だったかもしれないが、組織の運営や活動には無関係だぞ!」
「しかし、活動初期の頃、君は素顔を晒してデモ活動に参加していた。動画も撮影されていた。君のその反論に耳を傾けるものはいないだろうね。」
活動初期…。組織に抵抗感を感じていた俺だけが、フードを被らずに顔を隠さなかった、あと時か…。
「僕は、君が極めて不利な立場にある事を、伝えたかったんだ。」
…
…
積み重ねてきた歯車の数々が噛み合う音がした。
極めて残酷な死刑執行専用施設建造計画[project Violet]の責任者。
大量殺人未遂に手を染めた過激テロ組織『善人ソサエティ』の創始者。
その二つの歯車が、一つとなった。
これが、○○の辿る運命の歯車だったのだ。
そして次の段階。
地獄の歯車が、回り出す。
…
…
方や大手建築会社を悪用して殺戮兵器を建造し、方やテロ組織を創り市民への大量殺人を実行した犯罪者として、○○は、戦後最大の『悪』として報道される。
その『悪』の存在が、再々度、世論を変える。
『悪』は、やはり実在したのだ。
殺戮兵器とテロ組織を同時に創り上げるような、吐き気を催すような最低の悪が。
「悪人は確かに存在したんだ」
「○○に罰を下さねばならない」
そんな考えが、世論に浸透する。
その世間の雰囲気の下地になっていたのは、奇しくも『善人ソサエティ』の理念であり、皮肉な事に、その下火をつけ土台を作ったのも彼自身だったのだが。
そして、悪を罰すべきと言う風潮と同じく、以前から燻り続けてきた、[Violet]の稼働を望む声…、費やした税金や掛かった経費に対して費用対効果を望む市民の声や、[Violet]稼働の為に雇われた雇用者達の声が噴出する。
「これだけ莫大な費用を費やしたのに」「税金がもったいない」とメディアが叫ぶ。
「[Violet]で働く予定だった。自分は雇われただけ。仕事を失った。誰のせいだ」と一般人が叫ぶ。
それらを受け、[Violet]稼働の声が高まっていった。
…
…
密閉された面会室の中。
アクリル板越しに、禁錮された俺と、面会に来たB沢の声が響く。
「世論であれだけ反対されていたのに…。なんで[Violet]が稼働するんだよ…。」
「図らずも、A山くんの言った通り、君を悪として社会の空気は変わった。世間の空気は、君を悪だと判断している」
「そんな馬鹿な…。」
そんな。空気で悪だと判断されるなんて…。
「…空気的判断。戦艦大和…。」
俺は、いつか耳にした、第二次世界大戦の悲劇、戦艦大和の建造と使用についてを思い出した。
「今は、戦時中じゃないんだ。今の世は、そんなに愚かではないはずだ。俺は政治家を、国の為政者を信じる!」
「それは、果たしてどうだろうか…。」
…
…
ここは、国の事実上トップが集まった場所。
国会対策会議室での会話である。
「例の[Violet]運用の声が世論で高まっている。」
「では、運用しようではないか。世間がそう言っているんだ。我々が判断を下す必要はない。」
「雇用問題でも、経費問題でも、運用した方が全て丸く収まる。」
「もともと、運用するために作ったのだから。」
「そして、その後の運用についても、社会の声に任せよう。」
「死刑は裁判で決まる。しかし、死刑の執行には、為政者の責任が伴う。」
「死刑執行には大臣の許可がいる。しかし大臣が積極的に殺害の指示をしたいという人はいない。それは大臣の精神的な問題。、宗教観、哲学の問題、理由は様々だが、つまるところ、誰も責任を負いたくないのだ。」
「しかし、真の抑止力は、一度は運用しなければ意味がない。核兵器と同じだ。抑止力という見えない雰囲気で世界は平和なのだから。」
「だから、我々の役目は、この抑止力をどのように社会に浸透させるかを考えようじゃないか。」
「だが、[Violet]が残酷だという世間の声がある。さてこの空気をどうすべきか。」
「その空気も、市民に変えてもらおう。」
「民間の考えを取り入れよう。」
「政府の御用記者から、お誂え向きのテレビ局を紹介してもらおう。」
「世間は熱い話題を欲している。昨今の『善人ソサエティ』とやらのような、人を熱狂させるものをだ。我々もその流れに便乗使用じゃないか。」
「うむ。これで、我々は、死刑制度という思い社会の責任から逃れられるな。」
…
…
政府は、[Violet]の正式稼働を公式発表した。
正式稼働。それはつまり、死刑囚の死刑の執行、罪人を実際に殺す、と言うことだ。
そして、稼働の初日に、10名の罪人の死刑を執行することが決定された。
…
…
ここは、とあるテレビ局の、企画会議室。
『つきましては、御社の卓越した娯楽的感性を存分に導入できるようアイデアを取り入れたく企画会議に掛けて頂き、かの施設のシステムの一環として取り入れたく存じ上げる次第で…』
「ってな政府からの相談が、うちのテレビ局に持ち込まれたんだけどね~。」
「つまり、その死刑施設に、バラエティ要素を入れたい、と?」
「そうそう、その通り~。」
「でもコレ死刑専用の施設でしょ。不謹慎で問題にならないの?」
「オッケオッケ。国家のお墨付き、今なら何言っても許される雰囲気ってやつだから。」
「ヨッシヨッシ。いっちょ面白いアイデア、出してやろうじゃないの!」
結果、民間のアイデアを活用したバラエティ要素が、死刑執行専用施設[Violet]に搭載されることとなった。
「当然、死刑は一般公開だな。ネットやテレビで、市民が見れるようにしよう。
「エンタメ要素で見た目だけでも残虐に見えないようにしなきゃな。うちが叩かれたら嫌だし。」
「まず誰を殺すかだけど、ネット投票でいいよな。」
「そうだ、有名動画コンテンツみたいにコメントも反映される仕組みにしようぜ。」
「死刑執行の瞬間は、アトラクション風な要素を取り入れよう。」
「市民が死刑の方法を直前に選ばれるとか、面白くない?」
「そうそう、それで、その死刑から逃れたら別の箱に再挑戦。最後まで生き残れたら、助かるとか。面白そうじゃん。」
「せめて死刑囚にも希望をもたせよう、ってか。でも実際に死刑から逃れるなんて無理だよねそれ。」
「被害者との対談とかも面白いかもな。」
「この施設を作った奴も、今捕まっているんだろ? そいつに自分が作った施設で人がどう死ぬのかを見せつけるのも、エンタメじゃない?」
…
…
「国民投票の結果、○○君、君が[Violet]初稼働の最初の10人のうちの1人に選ばれた。」
面会に来たB沢から、[Violet]の本格稼働と、自分が最初の死刑執行対象者に選ばれたことを知る。
「なんでそんな、雰囲気だけで話が進んでいくんだよ!」
「情報の統制…不都合な真実は闇に閉ざされ、特定の人物だけが都合のいい空気になり、そして世論が形成され、社会の歯車が回っているのかもしれないね。」
「なぁB沢。お前なら、俺の立場を理解してくれるよな? 俺が無罪だって証明してくれるよな? 俺は真面目に仕事していただけなんだ。なんとか助けてくれないか!」
「…君は、アイヒマンを知っているか?」
「アイヒマン? 確か、ホロコーストの責任者だったけか?
「戦後、彼はホロコーストで大量虐殺を指示したとして、国連裁判に掛けられた。しかし近年、彼の行動は見直され、ただ『服従の心理』に忠実だっただけの、上の指示に従っただけの、当時の彼の国の空気に従っただけの、まじめなサラリーマンだったと、その立場は変わってきている。しかし、世間は彼を許してはいない。どれほどの識者が、どう分析しようが、社会の感覚では、受け入れられない。被害者感覚になれば、それは到底受け入れられない感覚だ。」
「…。」
「…。」
「B沢。お前も、俺が許せないか?」
「…。」
「お前も、俺の敵なのか? 俺に石を投げるのか?」
「…。」
「今、俺は周囲の全てが敵になってしまった。お前だけが、友達だ。お前だけが、空気に罪を着せられた俺に会いに来てくれている。せめてもの慰めに、俺はお前だけには理解してほしい。お前なら解ってくれるだろう…。」
「…。」
「なぁ、B沢。お前も、俺が許せないか?」
「…うん。許せないね。僕は君が嫌いだからね」
「そうか。…ん?」
「…。」
「今、なんて言った?」
「僕は君達皆が、嫌いだ。我儘なA山も。取り巻きの皆んなも。雰囲気に合わせて僕の悪口を言い合う奴らも。空気に合わせて人を蔑む、君もだ。僕が気付いていないと思っていたのか? 君のしてきた事が罪じゃないわけないだろう。」
「いや、確かに俺は、かつてお前を『空気を読めない奴』だと思っていたけど…。このタイミングでそれをカミングアウトするのか!」
「本当に、君は最低だけど、面白い奴だね。」
「お前、ちょっとは俺の空気を読め!」
「ああ、言っておくけど、僕は、空気が読めないんじゃない。敢えて空気を読まないだけだよ。」
「…じゃあ、なんで俺達に付き合っていた?」
「ただで酒が飲めるからかな。みんなの雰囲気は好きだった。観ていて楽しかったよ。まるでエンターテイメントだ。」
…
俺は、B沢の生き方を、改めて実感する。
B沢のような存在は、俺は今まで見た事ない。
異質だった。
だが、一つだけ理解できることがあった。
こいつは、遊んでいるだけなんだ。
こいつこそ、悪魔だ。
…
…
⒑
俺は誰からも見離された。
俺に残された時間と、死刑執行までの時間は一緒だった。
神よ…。
もう、俺は神に祈るしかない。
死刑前日。
俺は神に祈る。
この運命から助けてくれ、救ってくれ。
そして、祈りを捧げたまま。
俺は眠りに落ちた。
…。
音がした。この真夜中に。静寂包まれた牢獄の中で。
俺は音がした方向に目を向ける。
そこには、黒づくめの格好をした者がいた。
その出立ちは、まるで神父だった。
ああ、神が俺の声を聞いてくれたのだろうか。
幻でも構わない。
俺を、救ってくれ。
祈りを続ける中で。
神父の声が聞こえた。
「君は、ヨブ記を知っていますか?」
よ、ぶ、き?
「君に聖書の話を聞かせましょう。」
聖書…。
「君は、世の中で最も読まれ続けている世界最古の小説を知っていますか。それは聖書です。旧約聖書。ヨブ記は、その中の一説です。この時代、一定の人々にとって神は世界の規範そのものでした。」
そして、その神父の格好をした者は、俺に、そのヨブ記とやらを読み聞かせる。
…
「これは、神に従い続け、そして神に裏切られ、それでも神を信じろと強要され、最後に神に頭を垂れた者の物語。
世界で最初に正義を唱えた者。それは神だ。
善なる者は報われる。信じる者は救われる。これぞ世界最古の究極の命題であろう。
ある時。悪魔サタンが神に疑問を呈した。神を信じる者は、本当に救われるのか、と。
それを証明するため、神は、善人なる者ヨブに試練を与えた。
その試練とは、強大なる獣リヴァイアサンを遣わし、ヨブの幸福を奪うことだった。リヴァイアサンによりヨブは家を失い、財産を失い、皮膚病にかかり、町を追われ、ごみ捨て場に座り陶片で体中の瘡蓋を搔くような状態となった。
神が何故、ヨブにこのような残酷な試練を与えたか。その理由な何か。
その理由は単なるの戯れであり、神が自身の定めた命題を証明するためだけの承認欲求だった。
しかし、人の身であり、神を信じるヨブは、自らに降りかかる災いと不幸、その苦しみの意味を求め、自らを悔い入り続けた。
そのヨブの姿を見ても、神はヨブを許さなかった。
ある時、ヨブを見舞いに、三人の友が訪れた。
友人であるヨブを心配し、三人の友は、ヨブに助言を与える。
「何か罰せられる心当たりはないか」
「神は絶対に善人を苦しめる事はないはずだ」
「自分の犯した罪を懺悔すれば許されるはずだ」
友人はそうヨブを諭す。
それは慰めの言葉のようであり、親切な忠告をしているつもりなのだろうが、それは実に恐ろしい言葉でもある。
「正しい者は必ず報われるのだから、こうなったからには、お前には隠している罪悪があるに違いない。この状態から脱れるには、まず素直にそれを認めることが先決だ」
すなわち神の裁きは正しいのだ。友人達はそう繰り返す。
しかし純粋なる善人ヨブがいくら考えても、神に与えられた試練によって苦しめられなければならない理由は思いつかなかった。
なぜなら、そのヨブの苦しみも試練も、全て神の気まぐれに過ぎないのだからだ。
初めは優しさから助言を行っていた友人達も、いつまでも自らの罪を認めないヨブに対して、次第に苛つき、強く批判する。
「神は間違えない。ヨブ。お前こそが過ちを犯しているのだ」と。
「考えてもみよ、だれが罪のないのに、滅ぼされた者がいるか。 どこに正しい者で、断ち滅ぼされた者がいるか」と。
ヨブがこれに対して抗弁をする。私は神を信じる純朴な信徒である。その私になぜ、神はこのような試練を与えるのか、と。
「いつまでもお前は、そのようなことを言うのか。 お前の口の言葉は荒い風ではないか。 神は公義を曲げられるであろうか。 全能者は正義を曲げられるであろうか。 お前の子らが神に罪を犯したので、 彼らをそのとがの手に渡されたのだ。 お前がもし神に求め、全能者に祈るならば、 お前がもし清く、正しくあるならば、 彼は必ずお前のために立って、 お前の正しいすみかを栄えさせられるはずだ」
その後も、友人達は、果てしない罵倒をヨブに繰り返す。神は正しい。お前は間違っている。
そして、ヨブ記は最後を迎える。
神と直接対話をしたヨブは、その神の偉大さに悔い改め、偉大なる神に頭を下げ続けた。「私こそが間違っていた」「生涯貴方様に忠誠を誓います」「だから、もう一度、貴方様の傍らに仕えさせて下さい」と。
そして、ヨブは再び家族を持ち、財産を得て、ハッピーエンド。
これがヨブ記だ。」
…
ここまで黙って俺は神父の語る話を聞いていた。
しかし、俺はその長話に、そして神父の語る話に苛つきを覚え、静かに疑問を口にした。
「なぜ、ヨブは神を信じられ、なぜ友人は、ヨブに石を投げつけられる?」
「登場人物の誰もが、その社会に臨在する空気を絶対化していたからです。」
「なぜ、ヨブも友人も、神を疑わない?」
「その社会に生きる誰もが、神の作る命題を常識であると絶対化していたからです。」
「なぜヨブは、神を再び受け入れた?」
「それが例え神の戯れであったとしても、神の感情は絶対だったからです。」
「なんて、めちゃくちゃな物語なんだ!」
俺は呆れかえる。そんな事がまかり通ってたまるか!
「この時代。一定の人々にとって神は世界の規範そのものでした。これは、神という世界のルールに従い続け、そして神という世界に裏切られ、それでも神という世界を信じろと強要され、最後に神という世界に頭を垂れた者の物語。
全ては、空気的判断によりなされ、それは神話の時代から今に至るまで、変わりはない。
この話で君が理解すべきところは、今そこにある空気、その場を支配する者の感情、そして人々が信じるに足る命題が絶対化された時、社会の規範が定められる、ということです。
つまり、正義も不幸も、誰かが勝手に作った空気によって作られる。
時にそれは、『誰か』ではなく『群衆』ですらも、社会を地獄に導ける。
ヨブは、神と神を信じる社会が作った空気に振り回された、犠牲者です。
君もそうです。
何処かの誰がが勝手に作った空気に振り回されて、それに従って、その結果、今君は、ここにいる。
果たして、君はハッピーエンドを迎えることができるのでしょうか?」
そこで初めて、俺は目の前の黒づくめの男性を凝視した。
こいつは、神父じゃない。幻でもない。
「あんた、誰だ。」
「私ですよ。」
それは、いつか見た『黒ネクタイの男』だった。
「お前は、政府の者じゃないのか?」
「違いますよ。私はこの物語の中で、君に気づきを与えるための存在です。」
「は?」
「いわば、魔女の手先ですね。」
「魔女、だと…。」
「この君の物語の結末を、そして現実での顛末を、『二人』で見さしてもらいますね。」
突然、目の前の『黒ネクタイの男』の影が滲む。
蜃気楼のように掻き消える男の姿が、目の錯覚か、一瞬だけ、かつての『空気を読まない友人』に見えた。
意識が途切れる。
そして、目が覚める。
牢屋には、誰もいない。
神父も、いや、『黒ネクタイの男』も。
やはりこれは、夢なのか。
いや。これは紛れもない、現実だ。
俺の脳味噌は、そう認識している。
…
…
11.
violetの初稼働日。それは、戦後最悪の犯罪者○○の死刑が執行される日でもあり…。
そして、国内初の、公式公開処刑が実行される日でもあった。
…
俺の目の前には、地獄があった。それは紛う事なき、地獄であった。
敢えてこの地獄を別の言葉で代用するとすれば、…システムであろうか。
地獄。
奈落。
六道。
インフェルノ。
ゲヘナ。
ヘルヘイム。
ジャハンナ。
その呼び名は人種や宗教、世界観を共にする集団によって変わる。
唯一つ、統一された概念があるとすれば、それらは全て、人が死を迎えた後に訪れる場所であること。
人は死んだら、あの世に行く。
それが罪人ならば、地獄に堕ちる。
それは、世界に共通する理の一つ。
そして、もう一つ。世界に共通する認識がある。
人は死ぬ。
人は死からは逃れられない。
死は全ての者に、平等に訪れる。
孤独にって、
絶望によって、
破壊によって、
老いによって、
狂気によって、
強欲によって、
憤怒によって、
虚無によって、
人は死ぬ。
それが世界の道理である。
そして、人は殺せる。
人は地獄を作れない。
しかし、人を殺すことはできる。
刺殺で。
銃殺で、圧殺で。
毒殺で、撲殺で、殴殺で。
射殺で、薬殺で、焼殺で、溺殺で。
飢殺で、爆殺で、絞殺で、扼殺で、轢殺で。
縊殺で、鏖殺で、屠殺で、錮殺で、焚殺で、謀殺で、
様々な手段を用いて、人は人を殺せる。
その『殺人』を、現代文明が得た最新のテクノロジー全てを用いて凝縮したモノがあるとしよう。
それが『箱』である。
人は、ついに、地獄をその手で作り出したのだ。
…
今日。
その地獄が稼働する。
…
俺の眼前に、一台のモニターがあった。
そのモニターに映るのは、9人の罪人の死の姿。
箱の中を映すその地獄の映像を見せつけられることが、俺に与えられた責任。
俺の罪の名は、「責任」。
俺は今、地獄を作った「責任」を負わされているのだ。
…
俺の目の前のモニター。
そこに映る内容は『箱』によって行われる極刑執行の瞬間の全て。
そしてこの映像は、様々な映像媒体を用いて国内全ての国民に向けて放送されている。
モニターの中で、道化のような格好をした司会者が、場を盛り上げていた。
「さぁ、これから始まる国内初の、国が認めた公式の、死刑の瞬間の生放送。画面の前の皆さんは、この世界初世紀のエンターテイメントを、刮目してご覧ください。」
…これが狂気でなくて、何なのだ!
…
関連企業の関係者が注目する中で、
家族が食事するリビングのテレビで、
移動中のサラリーマンが覗き込む携帯の画面に、
一人部屋のパソコンの中で、
9人の罪人の死刑が実行された。
残虐に。残酷に。無為に希望を抱かされ、無惨に殺されるた。
1人目の罪人は「希望を捨てるな」と言われながら箱に入れられ、豆を煎るように鉄の甕で熱され鉄の棒で貫かれて、殺された。
2人目の罪人は「お前はまだ終わりじゃないよ」と言われながら箱に入れられ、鉄の板に鉄の縄で縛られ鉄の斧で網目状に体を切り裂かれて、殺された。
3人目の罪人は「お前には残された人がいる」と言われながらと箱に入れられ、煮えたぎる油の入った大鍋の中で何度も煮られ、最後に獣に食い尽くされて、殺された。
4人目の罪人は「お前は故郷に帰れるんだぞ」と言われながら箱に入れられ、熱鉄の鋭い針で、口や舌を死ぬまで何度も刺し貫かれる
5人目の罪人は「勇気を持って困難に挑め」と言われながら箱に入れられ、暗闇の中で身を削る大嵐に身を弄ばれて、殺された。
6人目の罪人は「恐れず歩みを止めず前に進め」と言われながら箱に入れられ、鉄鍋で炙られながら全身を熱鉄の棒で殴打を受けながら、殺された。
7人目の罪人は「君はまだ必要とされているんだ」と言われながら箱に入れられ、氷が浮かぶ冷水に首まで浸かり、涙も凍る寒さに歯を鳴らしながら、殺された。
8人目の罪人は「うんまぁまだなんとかなるんじゃ無いか」と適当に言われながら箱に入れられ、炎の刀で体の皮を剥ぎ取られ沸騰した熱鉄液を体に注がれて、殺された。
9人目の罪人は「君に何を言えばいいか判らないけどとりあえず諦めると」と更に適当に言われながら箱に入れられ、燃え尽きることのない硫黄と炎の池の中で遺体すらも残さず完全に抹消されて、殺された。
地獄に押し込められる側の人間は、仮初の救いの言葉を聞かされながら、箱の中で死の間際に希望など存在しないのだと絶対の真実を突きつけられ、殺される。
その希望の言葉も、途中から適当な語録に成り果てていたのを、俺は目にしている。
希望を齎す言葉は価値を失い、地獄を構築するパーツと成り果てた。
意味の重みも価値も皆無。ただの戯言の羅列。そこに死に逝く者への敬意も憐れみも、死を与える側の責任も存在しない。
ならば何故、こいつらは、わざわざ無為な希望を抱かせたまま、無残な死を与えるのか。
答えは明白であった。彼らは皆、笑っている。
楽しんでいるのだ。幾多の命が目の前で失われていく事に。
何故、こいつらは、死を楽しむのか。何故、笑えるのか。
この社会で、他人の死を執行する行為は、ナニに変革されたのか。
…エンターテイメントだ。
死刑制度は、それを観る側に愉悦を与える…娯楽をもたらすだけの行為となったのだ。
今、目の前で残酷に葬られた人達が、なぜ極刑と審判されたのか。俺は知らない。
もしかしたら、冤罪である者、または極刑になるほどの罪でない者もいたのかもしれない。それらの者は、ずっと解放を求めていた筈だ。
死刑の直前に、仮初の希望を抱かされ、『箱』の中の死から逃れ続ける事が出来れば、解放を約束されていた筈だ。
少なくとも俺は、そう教えられている。
以前、国外の死刑制度において、絞首刑を耐えられれば無罪放免になるという都市伝説があった。
しかしそれは単なるデマだった。耐えられたら無罪なんて、被害者側から見たら許されるはずがないのが理屈だ。
それに、俺は知っている。『箱』を作っていた立場だから知っている事がある。
それは、作られた『箱』の数だ。
その数、一千個。
箱の数だけ、地獄があるのだ。しかも、容易に増産が可能なシステムとなっている。
その全てから逃れられるはずなど、絶対に不可能だ。
そして、『箱』の中に詰める地獄の数すらも、人間が考えた地獄の種類の分だけ、増やす事が可能なのだ。
人間に地獄を想像する力がある限り、『箱』は無限に作れる。
逃れられる筈が、ないのだ。
…
「さて、前座はここまで。次に控えし10人目の死刑囚は、世紀の大罪人!、戦後最大の悪!、○○の番です。乞うご期待!」
道化姿の司会者が、俺の死刑を煽る。
そして、司会者の言葉に反応するように、モニターに言葉の羅列が表示される。
『サイキョーの悪キター』
『殺戮兵器ってこいつが作ったんだよ』
『狂人キタコレ』
『罪人は死刑』
『死んで当然』
『犯罪なんて犯さずにおとなしく生きてればいいのにねぇ』
『コイツらオレ達と違う。コイツらは人間のク~ズ~』
これが、この地獄のシステムの根幹を支えるもう一つのもの。
それは、『言葉』である。
そのモニターに映るのは、9人の罪人の死の姿だけではない。
今、このモニターに映し出されている映像は、インターネットやテレビ中継を通じて、全国に放映されている。
しかし、モニターに表示されるのは、箱の中の映像だけではなかった。
映像とともに画面に表示されるのは、…『言葉』であった。つぶやき、又はコメントと表現される文字の類。
俺の前に死を迎えた9人の断末の瞬間にも、これらのコメントがずっと流され続けていた。
そして、このコメントは、視聴者がリアルタイムで発信したものである。
『犯罪者の考えるコトなんて理解できない』
『ねぇなんで殺す前に生温いコト言ってるの?』
『どうせ殺すのに意味ないよな』
『笑』『ww』
『犯罪者の分際でまともに死ねるわけないよね』
『映画みたい!リアルー!』
『キモい』
『本当に不要な人間は消えてよし』
『死刑妥当』
『グロー』
『犯罪者、ざまぁ』
『ギモ”ヂワ”ル』
『ねーし』
『日頃のストレス吹き飛ぶわ~』」
『大変に気持ち悪く不快になる映像です』
『あれさ、もうちょい力入れとけばもっと派手に殺せたんじゃないかな~』
死刑の執行と共にモニターに映されるのは、多種多様なメッセージ。
それは、モニターの向こう側で繰り広げられるエンターテイメントへの個人の所見であり、その所見は匿名性ゆえに、無秩序でカオスとした制御不可能な感情の畝りとなっていた。
そのコメントの大半は、まるでバラエティ番組でも鑑賞しているかのような感覚で、目の前の人間の断末魔に直情的な感想を述べていた。
それらのコメントから感じる雰囲気は、死刑囚という社会的底辺の立場にいる者への見下し、自身が『こちら側』の安全圏にいる事の確信と愉悦、遊びの延長線上にあるものを鑑賞しているかのような発言。それらの混じり合った、屈託なく楽天的で邪悪な方向に純粋であった。
全てのコメントは薄っぺらく、その発言には、死を見守る者の責任は皆無である。
少なからず、『箱』に対して抵抗を覚える意見もあった。
もしかしたら、いわゆる国民感情と呼ばれる感覚の中で、『箱』に賛同する者の意見の実態は数%程度のものでしかないかもしれない。
この新たな死刑制度というセンシティブナな話題に対して、ほとんどの者は反対すべきか擁護すべきかで悩んでいる無言の人々であり、サイレントマジョリティーなのかも知れない。
つまり、答えを求めている物が圧倒的であり、それ故に、答えを示す共感性の高い回答…明確な雰囲気があれば、多くの人がそれが正義と思い込む。これだけ注目されている状態ならば、世の中の意見もまるまると上書きされてしまうのが、現状なのだ。
モニターの中に流れるコメントの中で、『箱』に批判的な意見が、それ以外の大半のコメントの奔流に消えていく様を目にしていると、いかに集団が、『大多数の言葉』に流されていくのかが、嫌でも如実に理解できる。
それこそが、この地獄のシステムを支える二つ目の要素であった。
『さぁさぁ、モニターの向こう側の皆さん。10人目の罪に相応しい『箱』をお選びください!』
道化の司会者の言葉で、俺にふさわしい処刑の方法が投票されている。
俺の目の前で『箱』に殺害された9人の受刑者も、国民のコメントによって決められてきた。
『箱』の備わるシステムが、画面上に表示されるコメントの傾向を分析し、そのコメントの累計によって、自動的に受刑者の目前に、選ばれた地獄の『箱』が運ばれて来るのだ。
罪人の死の形は、国民の選択によって決定される。これも、『箱』に人々を熱狂させる為のエンターテイメントの一環なのだ。
つまり、国民という集団が、罪人の裁きの手段を決めるのである。
それは、無関係の者達が罪人と呼ばれる、ある種、弱い立場の者を一方的に裁く行為。
しかし、その罪人が極刑に至る経緯を詳しく知る者は、モニターの向こう側の視聴者の中にはほとんどいないだろう。少なくとも、俺は死刑にあたるほどの罪は犯してない。殺人だって正当防衛に近い筈だった。
しかし裁く側には、その経緯すら知る責任はなく、ただの感覚で死刑の手段を選択しているのだ。
安全圏の大多数にとって、罪人の死刑は他人事であり、むしろ、自分は安全圏という安堵感という愉悦を感じながら、他人を殺す地獄を選んでいるのだ。
他人を裁く、という行為は、悦楽感や万能感を抱きやすいものであり、それは気持ちが良いものだ。
自分の無関係な者であれば、それは尚更である。
誰もが第三者に『いいね』を貰いたがる。
誰しもが、裁く側に回りたい。他人の悪口や批判を言う事、つまり裁くという行為は、人に快楽を齎すのだ。
倫理の破綻に支えられ制御を放棄したテクノロジー。
その行使を保障する巨大な組織機関。
機能的に組み立てられたその仕組みは、まさに地獄という名の歯車であった。
そこには、このシステムの巨大さに反比例するように、己達が為している事への無責任さが散見し、死の仕組みとその執行には、死を取り巻く人々の無責任な言葉の暴力があった。
まさしくそれは、空気と群衆心理で作られたシャーデンフロイデ。
今、俺の尊厳は、死の形は、群れた狼の集団の心の理に握られている。
…
「ではここで、希代の犯罪者との対談のために、お呼びしたお二人を紹介します。」
モニターに向こう側で司会者が鬱陶しく喚く。
対談だと。これも、エンターテイメント性というやつなのか!
もうどうでもいい。うんざりだ。何も話すことなど無い。
俺は諦観による沈黙を決めた。
しかし、モニターの向こう側に映る2名に対談者の姿を見て、目を見開く。
そこにいたのは、元彼女のC子と、かつての友人であるB沢だったのだ。
「お名前は伏せますが、この二人は、犯罪者○○によって人生を狂わされてきた被害者なのです。女性の方は、最愛の男性を殺害され、男性の方は古くから○○によって蔑みを受け続けたとう不幸な過去をお持ちなのです。」
紹介された二人の顔には悲壮感が浮かんでいる。
C子は俺のことを、A沢を殺害した人間だと思っている。…いつのころからC子がA沢と愛し合う仲になっていたのかは、想像したくはないが、その恨みは純粋に深いのだろう。それは、俺を憎しみの詰まった瞳で睨み続けている事を見れば、嫌でも解る。
しかし、B沢はどうだろうか。表面上は悲痛な面持ちをしているが、きっと心中では全く異なる感情があるのだろう。
「では、お二人に今の気持ちをお聞きしようと思います。」
マイクを向けられたC子。
「私はこの男に愛する人を殺されました。今でも、彼を無惨に撃ち殺したこの男の顔は忘れられません。私は、この男が心の底から苦しんで死んでくれることを、願っています。」
…もう、俺の知っている彼女は、いないのだ。
「violetが、地獄の業火でこの悪人を塵芥一つ残らず灼いてくれる事が、今の私に残された最後の楽しみです。」
その発言に、視聴者のコメントが殺到する。
『人間の屑。死んで謝罪しろ』
『生まれてきたことを後悔しろ』
『生きていて恥ずかしくないの』
『お前が消えたらみんなが喜ぶ』
『生まれてきたことを反省しろ』
『シンプルに、死ね』
『まぢ死んだほうがこの世の中のためぢゃないかなwww』
俺への責め言葉。それはそのまま、このシステムへの賞賛と同じなのだ。
「では、もうひと方、B沢さんはいかがでしょうか?」
「当時、私は、この社会に真の悪人はいないと思ってきました。この男に迫害され続けても、善はあると思っていました。しかしこの男は善ではなかった。方やテロ組織を創設し多くの被害者を出し、方や企業と国民の税金を用いて殺戮兵器を作った。これほどの悪が今まで行ったのでしょうか。彼は善ではありませんでした。しかし真の善は違うところにありました。この箱、violetこそが正義なのです。この正義が、これからの社会で悪への抑止力となる。なんと素晴らしい。これがあれば、こんな悪が二度とのさばらない社会にになる事でしょうね。」
B沢の発言に、コメントが殺到する。
『いいこと言った! 正義とは悪の抑止力なり』
『これ見たら犯罪なんて犯す気、失せるよな』
『どうやって死ぬのか、楽しみ』
『マジ平等な社会。民主主義バンザイ』
『国も珍しくいいモノ作ったな』
『正義はここにあった』
これらのコメントは全て、[violet]というシステムの継続を願うものだった。
[violet]の運用に友好的な発言が多ければ、今後も[violet]の運用が続けられる可能性があるということだ。
あぁ。B沢の目的が解った。
こいつは今、世間の俺へのイメージを公衆の面前で固定したのだ。
何のために?
こいつは、空気の中で遊んでいるだけなんだ。
このエンターテイメントを全力で楽しんでいるのだ。
システム[violet]は究極の暴力である。
その暴力の使い方は、群衆に委ねられた
そして群衆は、この地獄の継続を望んでいる。
制度とは、国の形だ。
しかし社会は、制度の判断基準に群衆心理を選択した。
為政者は、集団心理に人間の運命を託してしまった。
本来、地の底にあるはずの地獄が、制度と言う集団を縛る規則の名を借りて、地上に生み出された。
今、この国は、未来は、地獄と化したのだ。
モニターに映る男女に向かって、俺はつぶやく。
「そんな曖昧な空気に、国の運命を託していいのか…」と。
俺のつぶやきに、男女は口を揃えて答える。
女性は、行き違いの果てに生じた私怨で、
男性は、本音を隠し無関係を装う顔で雰囲気を楽しみながら、
「「これが、君の作った社会だ。」」
そう告げた。
…
思い出した事がある。
F岡が会社を辞めた時。
それは、ゾンダーコマンドについて、ホロコーストについて調べた時に目にした文章だった。
当時のドイツ人はホロコーストの存在を知っていたか?
知っていたはずである。知らないことなどあり得ないのだ。
労働者不足の中において、働く関係者と関わらないなどあり得ない。
醸し出す死の煙を認識できないなどありえない。
絶えず死体を焼く場所から出る煤煙とおうけを催すような悪臭は、アウシュビッツ全地域に充満し、周囲に住む住民の誰もが強制収容所で虐殺答えたことを知っていた。
しかし誰もがそれを口にしなかった。話題にしたかった。その話題を故意に避けていた。支配と恐怖が作った空気によって。
今、俺の目の前にあるモノは、支配でも恐怖でもない。
今、俺の目の前にあるモノは、群衆が作る空気だ。
それは多分言葉にするなら、群衆心理、と言うものであろうか。
隣が言っているから、私もそれでいい。
市民は自分に負担がかからないことであるならば、簡単に選択できる。いや容易に選択してしまう。そしてその容易とは、周りに合わせる、ということである。
君たちに責任を負わしたい。いやいやそれは嫌だから、みんなに相談して決めよう、皆に合わせよう。
つまり、それが、無責任だ。
仮に話し合いがあったとしても、話し合いは、自分たちを犠牲にすると言う結論を導く事は絶対にない。
多数決は平等では無い。
俺たちは公正な世の中が健全だと思っている。しかし実は違った。公正も健全も作り出せるものなんだ。正しくそれは、社会集団の中で追い詰められた人間にとって、地獄だ。
「俺は…いや、俺達は、群衆心理によって、自ら地獄の仕組みを作り上げていたんだ」
…
「うわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー--ー!!!」
俺はありったけの空気を搾り出し叫ぶ。
今、俺の目の前に『箱』が運ばれてきた。
中にあるのは、まさしく地獄の責め苦であり、絶対に逃れられることのない死の形であった。
今、俺は恐怖を感じている。しかしその恐怖は『箱』にでも、目前に迫る死にでもない。
俺は今、『空気』という化け物に、初めて、底知れない恐怖を覚えたのだ。
目の前の2人に、実況者に、モニターに、モニターの向こう側にいる群衆に、そして自分を取り巻く全ての空間に、俺は巨大な怪物の影を感じた。
空気とは、集団に対して、論理的な判断基準を超越する絶対的な支配力を持つ『判断の基準』なのだ。そんなもの、まさしく怪物そのものじゃないか!!
かつての友人を事故とはいえ自身の手で殺害してしまった事実はある。だから、罰を受ける覚悟として、ここまで冷静を保ち、みっともなく抵抗し喚きたい思いを我慢してきた。
しかし、自分をがんじがらめに縛る巨大な怪物の存在に気づいた瞬間、俺の心の均整は砕け散ったのだ。
強い怒りの感情が、自分の中に沸き立つ。
誰に怒りを感じているのか。
空気に、だ。
俺は、自身を取り巻く空気が、許せなかったのだ。
今、自分は、空気によって地獄に堕とされようとしている。納得など、出来るはずがない。
怒りに任せ、俺は叫ぶ。
「みんながみんな、責任を空気のせいにしている!」と。
「誰もが責任が無いと感じている!」と。
「その先にあるのは、この地獄だ!」と。
「みんな、空気に殺されるんだぞ!」と。
「俺にも責任はない!俺はあの時、ああせざるを得なかったんだ!」と。
「俺は『そちら側』の人間だ!」と。
「俺も『そちら側』へ入れてくれ!」と。
必死で叫んだ。
…。
少ない時間の沈黙の後。
声が聞こえた。
その声の主は、対談に来たC子なのか、B沢なのか。
それとも、それは既に『誰』でもない一般社会に属する集団の中の一人の声なのか。
「君の罪が許されることなんて、ありえないよ。
だってそんなの…、
空
気
が
許
す
は
ず
が
な
い
じ
ゃ
な
い
か
。」
…
『空気が許さない』という理屈の通じない感覚。
それは論理的な判断基準を超えた、空気が許さないという空気的判断の基準なのだ。
そこに論理は関係なく、まさしく人外のモンスターそのものであった。
空気とは判断の基準である。非常に強くて絶対的な支配力を持つ判断の基準である。
もしそれに抵抗しようものなら、容赦なく異端とされ、まるで犯罪者のごとく社会に抹殺されてしまう。
空気とはまことに大きな絶対性を持った怪物である。
そして、
俺は、
皆の願いと期待に応え、真の地獄で残酷に殺されていくのだ。
…
…
…
〈エピローグ〉
「『彼』の容体は?」
長身の黒いスーツの男が医師に尋ねる。
「大変に珍しい症例ですね。ソシオフォビア(社交恐怖症)に近いのでしょうが、人への拒絶反応が過剰過ぎます。」
「過剰?」
「はい。まるで近づく全ての人物が彼を殺しにかかるといった妄想に取り憑かれているようですね。」
「ふむ。取り憑くとは、言い得て妙だね。」
「は?」
「『彼』が恐れているのは、人ではなく、集団でしょうね。」
「は、はぁ…。」
「ところで、『彼』が保護された部屋は、どのようになっていましたか?」
「凄い荒らされようだったようですよ。自分でやったみたいですが…。保護するまでに数人の警察官が必要でした。」
「部屋に、何か異常なモノはありましたか?」
「いえ、麻薬とかいったモノは何も。携帯とかノートとかがあったぐらいですね。」
「ノート?」
「はい。これです。」
「そのノート、私が預かってもいいですか?」
「構いませんよ。これが症状に関係しているなんて事はあり得ませんから。」
「…そうですか。で、結局『彼』の、この…発狂は、何が原因だと思いますか?」
「皆目見当も付きませんね。恐らく脳に何らかの変化が生じていると思われますが…。外傷も無いのに…。奇妙な事です。」
「直接、『彼』と話をしても良いでしょいか?」
「拘束されていますし、危険はないでしょう。構いませんよ。私は他の仕事があって同伴できませんが、何かあればコールして下さい。」
出ていく医師。残された黒スーツの男は『彼』に近付く。
男が手にしたノートを見て、『彼』は震える。
「”オレ”に近づくなーーー!!」
『彼』が叫ぶ。
『彼』にとって、近づく全ての人間が、自らの死を望む害悪なのだ。
「今の君には、何が見えますか?」
男の質問に、『彼』は辛うじて答える。
「は、箱だ。箱と、み、みんなが、オレを殺しにくる!」
「それは夢です。しかし、現実の続きでもありました。」
「あ、あんた、どこかで見たことあるぞ。あんた、オ、オレに何をした!」
「僕が君を選んだんだ。君の経歴。君の人生。君の交友関係。君はこの実験に相応しい素養を持っていた。」
男は再び、『彼』に、○○にノートを見せる。
「この本は、君の脳味噌を揺さぶる為に書かれたもの。これは、君が世界の真実を知り、どう変化するかを知る為の実験だった。結果は、予想以上だった。”私”は君にヨブ記の話を聞かせたはずだ。群集心理とは、集団の中に芽生える不条理。それは、戦時中だけでなく、神権政治蔓延る時代よりも遥か昔、創世の頃から人々の中に植え付けられた心理。
つまり空気そのものであり、
即ちそれは、
人間が息をしないと生きられないと同じく、
絶対に、逃げられない。
そう言う事だ。
僕は、それを君らに理解して欲しい。
君の変化こそが、僕らの求める理想郷、その一歩目だ。」
…
巨大なビル建ち並ぶ街の一角で。
黒スーツの男が、紺色の髪の小柄な女性にノートを渡す。
フードに隠れた女性の顔は窺い知れない。一言も喋らず、笑ってるのか、泣いているのか、それすらも判別がつかない。
男が彼女に語る。
「彼は貴重な犠牲だった。むしろ、救われたのだよ。あれだけ集団に混ざり合う事を是非としていた彼が、これだけの変貌を遂げた事こそが僕らの成果。彼は夢を見ただけ。真実を知っただけ。犠牲は実験に必要なのだ。」
彼女が、長身の男を仰ぎ見る。
「最初の一歩は成された。あとは続けるだけ。この先に理想郷がある。その後の世界は僕が想像しよう。」
彼女は頷く。それは、彼への同調の証。
「夢を見させる事ができる存在。それが私の信じる魔女。
君はイマジネーションの魔女。
君こそが、憎むべき一冊の回勅[魔女に与える鉄槌]という群集心理の暴力によってその身と愛する隣人を焼かれたセイラムの魔女の再来。
しかし、怪物として異端と蔑まれ堕とされながらも、君は自身の能力を復讐では無く世界の再生の為に使うことを願った。」
彼女が、彼の向こう側にある遠くを見つめる。
「さあ、次の実験を続けよう。」
視線を合わせぬまま、しかし手を引かれることを望むように彼女は手を差し出した。
「僕達こそが、万人の万人による闘争を統べる唯一つのリヴァイアサンになるだから。」
そして、小さな魔女と理想に身を焼く黒い男は、群衆犇めく街に姿を消していった