於市の話
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於市は三階で二番目に日当たりのいい個室にいた。入室制限は特になく、三階の患者の中では最も制限のない部屋である。
外出も、他人が訪れるのも制限が特にはなく、晴れた日には気持ちの良い日差しの差し込む景観もいい。
於市の病状は、関節が人形のように球体に変化していくというものである。於市は体の足側から徐々に人形の王に変化していた。肌は人間の肌のような質感なのだが、関節が球体になっている。爪も伸びなくなった。
記憶はそれなりに保持しており、症状の進行も緩やかなため、自分らしく生活することを一番の目標にしていた。
特に制限はないのだが、若干球体関節になっている足では、稀に自分の予想外の方向に関節が曲がってしまう。そのため、普段は車いすを使っているが、約一名だけ頻繁に訪れてくれる人物がいる為、あまり外出はしない方だった。
今日も、日が昇ってきた。少ししか入ってこなかった日差しも、段々と部屋全体を明るく照らし始め、照明はもう付けていなくても大丈夫なくらいになった。
そして、於市の部屋だけでなく、日光は廊下にも行きわたる。
「そろそろ、かな?」
於市の楽しみは、この時間だ。ベッドサイドから出した足を、楽しみのあまり少し揺らす。すると、於市の意思とは関係なく関節が曲がる。その方向は、人体ではありえない方向である。
球体関節であるので、人間では不可能な方向にも足が曲がるのだ。
「車いすは、と…」
近くにある車いすを手繰り寄せる。膝までは球体関節になってしまっているものの、力の入れたかを気を付ければ歩ける。難易度は高いが。
引き寄せた車いすに座ろうとすると、控えめなノックの音が部屋に響いた。於市は、嬉しそうに入室を促した。
「おはよう於市。今日はいい天気だな」
「おはよう、日佐志。今日は動けそう?」
「天気もいいし、大丈夫だ」
於市の部屋を訪れたのは、日佐志。日佐志は、日光が当たっていないと眠ってしまうという症状だ。曇りの日や、日陰にいると段々と眠くなってしまう。この階で一番日当たりのいい部屋が日佐志の部屋だ。
「カーテン、開けるわね」
「ありがとう」
於市の部屋は隣である。廊下があまりにも暗いという事態でもない限り、辿り着くのは比較的簡単だ。かといって、於市が全く心配していない訳でもない。しかし、自分の体調くらいは考慮して行動するだろう、という信頼から何も言わないのだ。
「やっぱり、この部屋も良く日が当たるな…」
「そうね。おかげでこうやって話せるんだもの、感謝しなきゃ」
日佐志は、そう言って窓際のソファに腰掛けた。二人で話をするために、この部屋で一番日当たりがいい場所に置かれている大きなソファ。真ん中が日佐志の特等席である。
「それに、このソファは座り心地がいい」
「ふふ、たしかに、良いものを貰っちゃった」
このソファは、於市が申請したら次の日には部屋に置かれたものだ。最初こそ高価なんだろうな、と考えていた二人だったが、今では遠慮なく使っている。
気持ちよさそうに目を細める日佐志を見て、於市もなんだかゆったりとした気持ちになる。穏やかで、優しいひだまり。日があたって少し暖かいソファは、それをまさに具現化したようなものだ。
「何か飲みたいものはある?」
飲み物を入れたら、隣に座って話をしよう。於市はそう思って、日佐志に声をかける。すると、
「いつもの」
と、返事がある。いつもの、というのは、ブラックコーヒーのことだ。於市はそれに、ミルクと砂糖を一つずつ。二人分のコーヒーを淹れるべく、車いすに乗る。
於市は、一人の日は抹茶を飲む。コーヒーを飲むのは、日佐志が飲む時だけ。二人で飲めば、抹茶ほど好きでもない筈なのに、とても美味しく感じるのだ。
少しの距離を移動して、手際よくコーヒーを淹れていく。部屋の中にコーヒーの香りが広がっていく。ふと、於市の脳裏に、二人分の言葉が蘇る。
『苦いです…、ブラックは二度と飲みません…』
『体が冷えるので、コーヒーは飲まないようにしているんです』
いつだったか。共有スペースのキッチンで、料理の合間に休憩している時だったろうか。於市は頻繁にキッチンに出入りしていたし、ついでに他人の飲み物を淹れてあげることも多かったので、誰かとそんな話をしたんだろう。
「あ」
二つ目、於市の分のカップから、少しだけコーヒーが溢れた。ぼうっとしているうちに入れ過ぎたのだ。於市は慌てて布巾でカップの底と周りを拭き、流しに布巾を置いておく。上手に刺繍ができた、お気に入りの布巾だったのだ。早めに洗えば、コーヒーの染みも大して残らないだろう。
「どうした?」
「ちょっと、零しちゃっただけ」
「やけどは?」
「してない、大丈夫だよ」
車いすの前の部分に、しっかりとお盆を置いて。日佐志の座っているソファの前まで移動する。
「…はい、どうぞ」
「ありがとう」
日佐志がコーヒーを受け取り、隣り合ってコーヒーを飲む。飲み終わるまでは車いすで、飲み終わったらソファで話をするのだ。
話をすると言っても、閉鎖的なこの場所では目新しい事もそうそう起こらない。晴れの日続きで毎日話していると、段々話題は少なくなる。
「他は?」
「…今は、急いで話したいことはないかな」
そうしたら、ただお互いの間に流れる、ゆったりとした沈黙を楽しみ、偶にうたた寝しながら一日を過ごすのだ。
それが、二人にとっての大切で、何気ない日常の中の幸せだった。
変化のない平穏な日常も、あたりまえの幸せも、此処では長くは続かない。於市も、日佐志もそれは分かっていた。わかっていたが、まだ、ぬるま湯のような幸せに浸かっていたいから、目を背けていた。
「………そんな」
曇りの日の、ある朝。目が覚めると、於市の体は、首から下の関節全てが球体関節に変わっていた。それまでは、徐々に足元からの進行だった。それも、股関節が変化した辺りで、ずっと止まっていたのに。
「…どうして、急に」
「わかりません。とにかく、今日からは部屋から出ないでください」
担当の看護師にそう告げられる。力の入れ方さえ気を付けていれば動けるとはいえ、やはり今まで道理に行動できるわけではない。転倒したり、物を掴めなかったりするだろう。
「…わかりました」
「それでは、私はこれで」
看護師は足早に出ていった。院長に報告するのだろうか。このまま完全に人形になってしまったらどうなるんだろう。於市の頭の中にそんな不安が浮かび上がった。
「日佐志に、言わないと…」
病気が進行してきたことを、今までは黙っていた。今の状態も、服を着ていたらわからないかもしれないとはいえ、これ以上隠したりはしたくない。
きちんと伝えたい、そう思ったが、生憎と今日は曇り空だ。隙間から太陽の光が見え隠れするものの、日佐志が活動するには十分ではない。恐らく今日は来ないだろう。
「明日…、でも、間に合うのかしら…」
明日の天気は、どうだろうか。暫く晴れはなかった気がする。早くて明日、下手をすると更に先になってしまう。
自分から言いに行きたい。しかし、外出することはできない。どうしようかと迷っていると、いつもと同じように、控えめなノック音がした。
「於市、今いいか?」
「え?」
この声は、日佐志である。どうしたんだろう。そう考えたところで、於市は我に返る。
とにかく、早く扉を開けなくては。廊下は部屋の中に比べて日当たりが良くないのだ。廊下で眠ってしまって、頭などを打ったら大変だ。入っていいよ、と声だけかけて、慌ててカーテンを開ける。
「…どうしたの、日佐志」
扉を開けて入ってきた日佐志は、とてもじゃないが体調がいいとは言えない顔色をしていた。
「日佐志?大丈夫なの?」
熱があるとか、痛みを耐えているような顔ではない。今にも、眠りに落ちてしまいそうな顔だ。こんなに曇っているなら当然だ。眠いのなら出歩かない方が、と於市は言おうとした。
が、日佐志は於市の問いかけに返事もせずに、窓際のソファに向かってふらふらと歩いていく。ソファに半ば倒れこむように凭れ掛かって、そこで漸くしっかりと目を開けた。少し日が当たったことで、眠気も薄れたのか。
「どうして、そんなに無理をするの…」
窘めても聞かないことは分かっていた。それでも、言わなければ日佐志はやめないことも分かっていた。だから於市は、言葉にすることを選んだ。
「……別に、無理はしてない」
「それは、うそ」
そう、いつだって率先して無理をするのは、あなただった。他の人に頼ることもせずに、誰よりも早く物事に取り組もうとするのだ。
「自分を大切にして。無理はしないで」
日佐志は、今度は於市の言葉を否定せず、苦笑いした。無理をしていない、というには説得力がないとわかったんだろう。
「でも、そうしないと…」
大丈夫、と言って、そうしないといけない理由を説明して。最後に、心配してくれてありがとうと笑って、何があってもやり通そうとするのだ。幾ら止めたって、関係ない。
だから、於市は、そうしないと、の続きを聞くことにした。
「……そうしないと?」
「於市に…、会えなくなる気がして」
大抵は理論的な考え方をするのに、日佐志は偶に勘だけで行動する。根拠はないのに、途中でやめたりはしないのだ。そんなとき、於市の言葉は大きく揺さぶられるのだ。
今だってそうだ。
「そっか。相変わらず…」
相変わらず、の、次に、続くのは、名前。於市の口は、確かにその言葉を紡いだ。それでも言の葉は、二人の耳朶に届いても脳までは届かない。
しかし、於市は、はっきりと違和感に気付いた。日佐志の名前は、日佐志だったろうか。いや、違う。
「……於市?」
ふと、ポットの横の茶葉に目が付いた。於市はその茶葉の、名前が書いてあるところを、横にあった赤いペンで丸を付ける。お願い、明日の私、どうか思い出して。明日の私が駄目なら、誰か気付いて。そう祈りを込めて。
「於市、やっぱり、会えなくなるのか?」
日佐志の顔が見れない。於市はそう思った。日佐志だけど、日佐志じゃない。於市の胸は、なぜだかとても締め付けられた。誤魔化すように、於市は首を横に振る。
「だい、じょうぶ。大丈夫だよ」
「大丈夫なわけがないだろう!どうしたんだ?」
日佐志は、於市の体のことを心配している。一方で於市は、日佐志のことを思い出せない心が一番苦しいのだ。私の心は、あなたを思い出せなくて苦しいの。そう伝えたら、はどんな顔をするんだろう、と於市は思いながらも、身体の調子はどうなんだ、という質問の答えを口にする。
「もう、もたないと思うの」
日佐志の動きが止まる。珍しく、分かりやすく焦っているようだ。於市はそう思う。いつも、下の子たちを不安にさせないように、焦りを表に出さないようにしていたのに。
段々と、思考が鮮明になっていく。
「なにか、できることはないのか?」
無言で、手を日佐志の目の前にかざす。昨日までとは違う。すべての関節に、丸が収まった手。一気に進行したのだ。口にしなくてもすぐに理解してくれた。
「……そんな、」
不謹慎かもしれないが、於市は、本気で心配してくれていることが嬉しかった。感謝を言葉で伝える代わりに微笑んだ。
窓の外に目を向けると、ちょうど、細い雲が太陽の前を横切り始めていた。段々と日がかげる。於市につられて、窓の外を見た日佐志が目を見開いた。
「まっ…」
これがお別れになる。私たちは、そう直感した。あなたが次に起きた時には、きっと私はただの人形になっているんでしょう。明日までもつかもしれないと思ったのは、浅はかだったようだ。於市は少しだけ反省する。
「於市…!」
瞼が落ち始めた日佐志は、重いだろう瞼を必死に持ち上げながら、於市の目をまっすぐに見つめている。於市も、日佐志の瞳を見つめ、そしてにっこりと笑って見せる。
日佐志の瞳に、一番最後に映る姿が、一番美しいものであってほしいから。
「……次、までには」
次に顔を合わせる時までには、名前を思い出しておいてね、と、最後までは口にできなかった。仕方がないと、於市は自身の心の中でだけ決意する。
今度は、わたしも、あなたの名前をきちんと呼ぶから。だれよりも早く、真っ先に。
「心配しないで」
寧ろ、於市にとって心配なのは、いつだって日佐志のことだ。於市は手を体の前で合わせた。一人だと無理をしてしまう人が、どうか、これから少しでも幸せになれるように。また、会うことができるように祈るために。
「於市!」
日が、完全に隠れる。
「…誰にも、つれていかせるものか」
神様にだって、悪魔にだって。そんな、いっそ禍々しいほどの思いのこもった日佐志の言葉は、於市にしっかりと届いた。
「うん」
あなたにだけ、付いて行くから。於市は笑った。安心したのか、日佐志の体から一気に力が抜け、瞼が落ちる。しっかりと互いを見つめていた瞳が、見えなくなる。
神様にだって、悪魔にだって、何を言われてもついていったりしない。だって、一番大切なものを於市はとっくに持っているから。
かくん。
体が、糸の切れた操り人形のように、頭から順々に体を折りたたむようにソファの上に崩れ落ちる。眠っている日佐志に、寄り添うように。
あなたの記憶に残る私が、いつだって笑っていますように。
於市、読みは「おいち」、女性。
好きなものは抹茶、いちご。
嫌いなものは牡蠣。
趣味は手芸、特技は料理で共有スペースでよく作っていた。