千風の話
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千風は病院で最も厳重に管理された個室にいた。室温は勿論、湿度も細かく調整・維持されており、ドアは二重という牢獄のような部屋である。
二重になっている扉は、一つ目が開いたのち、一度入り口側が閉じ、室内と同じ温度と湿度になるまで二つ目の扉は開かないという徹底ぶりである。
千風の症状は、身体が末端から崩れていくというものである。最初は爪の先、伸びすぎた爪が机の角にぶつかった時、パラパラと崩れて落ちていった。
温度の変化や、湿度の変化によって崩壊が進行しないように、厳重完備された部屋から出ることは許可されていなかった。そもそも、歩こうとした瞬間、足が崩れ落ちる可能性があるためベッドの上から移動することもできないのだ。
つまり、誰かと交流したいと思っても、相手が訪れるのを待つしかないのだった。
空調が動いている音がする。一定のリズムで、ずっと同じ音が鳴り続けているのだ。部屋の真ん中、空調設備からの風が直接当たらないように、設置されているベッドの中央で横たわっている千風は、気だるげに瞼を持ち上げた。
「あー、もう。暇だなぁ…」
千風は、手足をばたつかせようとしてやめた。ここでまた崩れると、更に行動が制限される可能性が高いからだ。諦めたようにため息をついてから、手元のリモコンを操作し、テレビをつける。
視聴可能な番組は限られているものの、千風の部屋にはテレビが置いてあった。千風は左手でもう一つのリモコンを操作し、ベッドを起こして画面が見えるようにする。
自分の周りを見て、千風はさらに深いため息をついた。ベッドに備え付けの転落防止の柵にはクッション材代わりなのか、柔らかいタオルが何重にも巻かれ、部屋のフローリングは毛足の長い絨毯によって見えなくなっている。
「いや、厳重過ぎないかな…」
すごく、壊れもの扱いである。事実、段々と体の耐久性のようなものは落ちていて、最近は少しの衝撃でも指先に亀裂が入ったりしているのだ。
痛みを伴わないため、千風自身も崩壊や裂傷に気が付かないことも多い。そのため、担当看護師は毎日、音波器具を使って欠けがないかをチェックしているらしい。千風はその理論を理解していないが。
「このドラマ、あんまり面白くないなあ…」
毎日体調がいいとも限らない患者に対する配慮なのかもしれないが、千風の部屋のテレビは、時間ごとに違う番組をやっているような一般的なテレビではなく、動画配信サービスに繋がるような仕組みであった。
気になるドラマを一気に見ることができるのは良いのだが、膨大な数のドラマから気に入る一本を探すのもなかなか面倒だと千風は感じていた。
「偶にはニュースとかも見たいけど…」
精神的に安定しない人にニュースを見せると、暗いニュースに感情が引っ張られるというので、見ることができないのだろうか。他の部屋にテレビがあるかどうかも知らない千風にはわからない事だった。
やっぱり、フィクションよりもノンフィクションの人間ドラマの方が面白い。最近、特にそう思う千風の楽しみは、一つだった。
「千風?入るよ?」
「硝子さん!どうぞ!」
小さなノックの後に扉を開いた、目の前にいる存在。硝子が部屋を訪れることこそが千風の楽しみだ。硝子は、千風より二つ年上らしく、千風にとって全く覚えのない、しかし実際に千風が体験した話をしてくれるのだ。
病院に入った直後の話は、何度聞いても千風にとって新鮮で、それを硝子の透き通った声で話してもらうことが好きだった。
「今日は、どんな話ですか?」
今日も来てくれたことが嬉しくて、話を聞くのが楽しみで、急かすように千風は尋ねる。硝子は、少し考えてから質問を返した。
「……千風は、食べ物は何が好き?」
「チョコレートとヨーグルトは好きですね」
「なら、覚えているかもしれないけど…」
最初は、十人全員で一緒に談話室で過ごしていたこと、食事の際にデザートによっては喧嘩になったこと、千風も、チョコレートやヨーグルトの時は誰にも譲らなかったこと。じゃんけんなどの、運に左右されるもので決めたくなくて、千風は自分が得意な物真似勝負に持ち込んだことがあること。
千風の知らない千風の話をした後、硝子は決まって尋ねるのだ。
「全部、覚えてない?」
その声は、どこか悲しくて。覚えていると言えれば、どれだけ喜んでくれるのだろうか、と千風はいつも考えてしまう。それでも、だからこそ、千風は嘘をつきたくなくて。
「ごめんなさい、覚えてないです」
そういえば、硝子は少し止まった後、いつものように笑顔に戻るのだ。今日も、千風は同じことしか言えなくて、一つくらい覚えていたらいいのに、と思いながらもいつも通りの言葉を口にする。
硝子の、いつもの笑顔に戻るための間を見るたびに、千風の胸は、ぱきり、と音を立てているような気がした。
「そっか。あ、そうだ」
「何ですか?」
「来る時、いつもより騒がしかったんだけど、何かあった?」
硝子の質問に、千風は首をひねった。正直、空調の音などが常にしているので、千風に部屋の外の音は聞こえないのだ。担当の看護師も何も言っていなかった為、千風に心当りは全くなかった。
「そうなんですか?此処だと聞こえないので…」
「私の階だと聞こえなかったんだけど、この階だと聞こえたから…」
硝子の病室は一階、千風の病室は三階に位置する。一階では聞こえず、三階で聞こえるのならば四階、談話室で何かあったのだろうか、と千風は考える。
「談話室は人が多そうですし、食器が割れたとかですかね?」
「そうかも」
談話室では飲食も可能だ。硝子の話でも、みんなでお茶やお菓子を食べていたというし、誰かが食器を落としたりしたのかもしれない。
千風の予想に納得がいったのか、硝子もそれ以上この話題を続けることはなく、暫くの世間話の後に硝子は立ち上がった。
窓の外は、既に空の色が変わりかけていて。世間話をしているうちにも、時間は大分立っていたことを二人に知らせていた。
「じゃあ、そろそろ戻るね」
立ち上がった硝子と、窓の外を見比べて、千風は小さく頷いた。決められた時間までに部屋に戻らなければ、外出許可が取り消される可能性がある。
「エレベーター、使ってくださいね」
千風は、硝子の目を見てそう言った。硝子の左目は、ビー玉のように透き通った水色だった。硝子は、瞳がビー玉のようになっていくという症状で、左目が徐々に透き通った色合いに変化している。
色合いの変化と同時に視力も低下しているようで、手すりがあるとはいえ階段を利用するのは危険だと千風は思ったのだ。
「わかってる。大丈夫だよ、千風」
そう言って、安心させるように笑って見せてから、硝子は部屋から出ていった。
深夜。嫌な予感がして、千風はベッドから跳ね起きた。眠っていた意識が唐突に覚醒し、四肢の感覚が一気に繋がっていく。跳ね起きた反動で背中から大きな音がしたが、千風は気にしないことにした。
「なん、だろう」
背中のヒビが大きくなっていることは、恐らく原因ではない。なんとなくだが、自分の体がそろそろ限界を迎えることは、千風はわかっていた。
「なんか、やだな…」
起きた理由は、自分の体が心配なのではない。胸の奥がピキピキと音を立てている。ここにいてはいけない、行かないと、という思考が千風の頭の中を支配した。
そっと、ベッドから乗り出し、足先を床につく。長い毛足の絨毯が少し沈み込んだ。そのまま千風はゆっくりと体重を足にかけていくと、足首から悲鳴が聞こえたが、見た限り割れてはいないのでそのまま立ち上がった。
一歩一歩、少しずつ進むと、指の付け根、足の甲、土踏まず、踵、足首、ふくらはぎと、どんどん体が悲鳴を上げていく。千風は、それよりも前に進まなければ、と悲鳴を無視して部屋の二重扉を開けた。
「あ」
ぱきん、と一際大きな音がフロアに響いた。勿論、千風の耳にもその音は聞こえた。音の発生源は、間違いなく千風の体で。見てみると、関節や、力のかかる場所の殆どに大小の差はあるものの亀裂が走っていた。
「いかな、きゃ」
千風の部屋の、温度と湿度の管理は無駄ではなかった。千風の体の内部で蓄積していた疲労が、温度と湿度の劇的な変化によって限界を迎え、全身に亀裂という形で現れたのだ。
それでも、千風は足を止めるつもりはなかった。寧ろ、自分が限界なら、なおさら進まなくては、という気持ちが強まるだけだった。
どこに向かえばいいのだろう、そう思った千風の頭に、透き通った声が聞こえた。
「硝子さん…」
彼女の所に行けば、きっと理由が分かる。確信めいたものが千風にはあった。エレベーターはこの時間は既に動かないかもしれないので、ゆっくりと階段の方に向かう。
どのくらい歩けるのかはわからない。それでも、進める所まで進まなければ。一秒でも早く、一歩でも近く、行かないと。
「はやく、……はやく」
急く気持ちとは裏腹に、足は少しずつしか動かない。思い通りにいかない自分の体に、千風は苛つきながらも階段を降り、二階のフロアに到着した。
「あ、あれ?」
二階に足を付けた瞬間、千風の足首は限界を迎えた。見なくてもわかった。次に足を動かした瞬間、亀裂は大きく広がり、足首から先は離れてしまうだろう。
「どう、しよう」
千風は急に不安になった。しかし、足を止めるわけにはいかなかった。覚悟を決めて足を踏み出すと、実際には足を振った遠心力で右足首は離れていき、放物線状の軌道を描き、そしてフロアに叩きつけられた。
がしゃん
そんな音と共に、千風の右足は砕けていった。着地をしたのであろう、踵を中心に数十個の破片と化した。断面は、月明かりを反射してまるで宝石のように赤く輝いていた。
「わ」
千風は、綺麗だな、とただ思った。痛みや、悲しみといった他の何よりも先に、そんな感想が胸の中を支配した。
自身の一部だったものの輝きに見惚れているうちに、急に重さが変わったことでバランスを崩しかける。座り込みそうになった体を、千風は手すりを掴むことで無理やり持ちこたえた。
この状況からして、このまま地面に倒れこむと、文字通り体が崩れ落ちてしまうだろう。かと言って、あまり腕に力をかけてしまうと、腕が割れてしまうので時間の問題かもしれない。
「どうしよう…」
千風が、そう呟いた時、下から声が聞こえた。
「千風、いるの?」
硝子の声だ。千風が、何度も聞いて、熱望していた硝子の声を聞き間違えるはずもなく。千風の脳内には会いたかった、という先程までの思いとは別に、なぜ危険なのにこんな時間に出歩いているのだろうか、という心配する気持ちも湧き上がる。
どうしよう、と改めて考えていると、硝子は千風に問いかける。
「音がしたけれど、大丈夫?」
返事を待たずに、硝子は二階に向かって階段を昇り始めた。手すりを持って、おぼつかない足取りで階段を一段ずつ上がる。千風からその様子が見えているということは、折り返し地点である踊り場にすでに到着していたということだ。
砕けた足に完全に意識を向けていた千風には、硝子がいつから移動を始めていたのか、そして、どうやって移動していたのかを考える余裕が全くなかった。
硝子の目が、ほとんど見えないということも、千風はこの瞬間、思い出したのだ。
「硝子さん、み、見えて、ますか?」
千風から硝子が見えているのなら、硝子から千風の足が見えないはずがないのだ。つまり、硝子は、千風の足が見えない程、視界は不鮮明だということで。
「大丈夫だよ」
だというのに、硝子は千風に向かって笑って見せる。階段は、二階まであと二段という所だった。
「あ」
呟いたのは、千風か、硝子か、どちらだろうか。
後一段、そんなところで、硝子は足を踏み外した。滑り止めにかすった足先は、僅かに勢いを緩めたもののそのまま後方に向かい、上体が大きく傾いた。硝子の長い髪が宙を舞う。
千風は、全力で頭を働かせた。駄目だ、腕を掴んでも引き上げるどころか、そのまま一緒に落ちて割れた時に怪我をさせてしまうだけだ。だからといって、何もしなければ、頭から落ちてしまう。
そして、慌てている自分の頭では最善策なんて浮かばないことに気付き、一つの結論を出した。どうせ、自分は砕けて、何をしても結果が変わらないのなら、心のままに。
「硝子さん!」
その場から、千風は勢いよく硝子の方に向かって身体を投げ出した。はじめに勢いをつけた分、硝子より速い速度で落下し始めた千風は、器用にも空中で硝子を抱きしめた。そのまま体を反転させ、クッション代わりになるように祈る。
千風にとって、それは永遠のような一瞬だった。実際に監視カメラか何かで確認できたとするならば、きっと瞬きする間の出来事だろう。しかし、千風にとっては確かに永遠だったのだ。
ゆっくりと、フロアに叩きつけられた背中から順番に重たい衝撃が伝わる。肩、腕、肘と次々に力が伝わっては砕けていき、大小様々な欠片が月明かりを反射する。目が碌に動かなくても、先程より踊り場が明るい事からわかる。
「……千風、どこにいるの?」
硝子が千風を探すように薄く目を開けると、目を合わせた千風の視界一杯に、ビー玉みたいな透き通る水色と赤い光が混ざって広がった。さっきの、赤だけよりも、とっても綺麗だ、と千風は思った。そのきれいな目に、千風が映っていないとしても、とてもうれしかった。
不安そうに尋ねる硝子の声に、千風の胸は音を立てていたんだ。心臓のような、一等濃い赤色に、大きなひびが入った。できる限り、安心させられるような。悪夢を見た幼い子供に、母親が言うような口調に似せながら、千風は声を絞り出した。
「わたしは、ここにいます」
声帯が割れる感覚に耐えながら、千風が小さな声で返事をすると、硝子は更に小さな声で何かを言った。返事をしてくれた。そのように千風は感じた。
既に、千風は首にまで亀裂が広がっており、顔の感覚も殆どなくなっていた。視界も画面の割れたテレビのように不鮮明で、水色と、独特な赤色の光だけがキラキラと散っている。
返事をしないといけない。そう思い、千風は必死に返事をしようとした。しかし、口周りは砕けていて、声帯も仕事をせず動かそうとするたびに悪化しているので、言えていたのかはわからない。
それでも、伝わっていたらいいな、と千風は思う。
あなたが望むなら、地獄の果てにだって付いて行きます。
千風、読みは「ちかぜ」、女性。
好きなものはチョコレート、ヨーグルト。
嫌いなものは抹茶。
趣味はドラマ鑑賞、特技は物真似。