氷織の話
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氷織は暖房の効いた個室にいた。室温は摂氏28度に設定されている、真夏でもない限り若干暑いと感じる部屋である。
勿論、常に暖房が稼働しているのには理由がある。対症療法でしかないのだが、氷織の病気に対する治療の一環である。
患者ごとに症状が異なる中、氷織の主な症状は体が段々と凍っていくというものだった。
その為、凍らないように部屋を暖かくし、一時間に一度は温かい飲み物を飲むことが義務付けられている。内臓が凍ることを防ぐためだ。
基本的に、温度差などから悪化することを防ぐため、室外に出ることは許可されていない。なので、誰かと交流する際には来訪を待つ形になる。
誰かと言っても、交流する相手は同時期に入院した他の患者以外はいない。そして、患者ごとに症状は違う為、来る者は当然限られる。
症状が軽く、尚且つ出歩く元気のある者たちは、各病室に赴き交流を深めているというのが現状であった。
四階のフロアに慌ただしい足音が響き渡る。段々と足音は近付き、氷織の病室の扉が勢いよく開いた。
「おーい、氷織!トランプしようぜ!」
ノックもせずに、一応異性、女である氷織の部屋に入ってきたのは青二。氷織と同じ歳の男である。他人の病室に走ってくるほど元気が有り余っている青二の症状は、雨の日に声が出なくなる、という限定的なものであり、雨が降っていない日は元気である。
「…青二、おはよう」
突然の来訪者に眉間に皺を寄せたものの、驚きはせずにベッドから氷織が体を起こす。そして、ベッドサイドからトランプを探し出し、青二に掲げて見せる。
トランプがあることを確認し、青二はせっせとベッドにそのまま取り付けるタイプのテーブルを用意し、一言断って腰掛けた。
氷織は、トランプがきちんと枚数揃っていることを確認する。トランプは氷織の私物らしく、本人も理由は覚えていないが好きだと言っている。好きになる切っ掛けはあったはずだが、詳しくは覚えていないらしい。
病気に伴う記憶障害で、自分の名前すら不鮮明だというのに、トランプが好きだと言い切れるのは不思議なことであった。
「ポーカーにしよう、いいだろ?」
「いいよ」
スペードのエースから、クラブ、ダイヤ、ハートのキングまで。すべてのカードが揃っていることを確認して、シャッフルしてから山札をテーブルに置く。
青二がゲームを選択し、お互いにルール確認をする。記憶力維持のためのトレーニングの一環となっているのだ。
「手札の交換は?」
「一回まで。持ち点は?」
「五点。一回で賭ける点は?」
「一点ずつ。レイズしたら増加」
お互いに質問し、答えていく。すべてのルールの確認が終わったら、交互に山札からカードを取り、手持ちが五枚ずつになるようにする。
氷織は無表情、青二は薄い笑みを浮かべて対峙する。それぞれ、手札を交換しながら、自信がある時はレイズ、そしてコール、偶にフォールドしてゲームから降りて点を奪い合っていく。
三回戦が終わったところで、青二は氷織の表情を盗み見た。氷織は、手札を覗き見ようというわけではないならと好きにさせた。暫くしても青二が視線を外さないので、若干不機嫌そうに口元を歪めた時、青二が口を開いた。
「なぁ」
「…なに」
氷織は問いかけにぶっきらぼうに答え、静かにオールイン、と続けた。青二は自分の手札を確認し、言いにくそうに続ける。
「おまえ、もう鱗也には会わないの?」
そして、睨みつける眼光から逃れるように、コールと宣言した。鱗也は、二人と同じ歳で、一緒にここに来てから暫くは常に三人で行動していた人物だ。当時、氷織は今の症状を発症しておらず、談話室まで出歩くことが多かった。しかし、発症して以来、青二とは違い鱗也は病室に訪れたことがない。病室から出ることができない氷織から会いに行く術はないのだ。
向こうの事情もあるから仕方ないとはわかっていても、急に疎遠になった鱗也に対して氷織は若干怒っていた。つい最近、伝言を頼まれたものの話を聞いてもらえなかった為、青二は言いにくそうにしていたのだ。
「…オープン、ストレート」
「げ、負けた。ツーペア」
氷織の勝利である。やっぱりいい手札が揃ってたか、と青二はぼやいた。
「会わない。会えないし、来ないということは、そういうことだよ」
氷織は、嫌われているということだ、とは言わなかった。そう口にしたら、青二が何を言うかが分かっているからである。青二も、何故氷織が言わなかったかを察し、言いかけた言葉を飲み込んだ。
「…そろそろ、時間か?」
「あ、そうだね」
ちょっとごめんな、と一言置いて、青二は備え付けの簡易キッチンに移動する。一時間ごとに湧くようになっているポットに、お湯ができていることを確認し、カップを二つ準備して、紅茶を入れる。
アールグレイだろう。次に、ミルクを入れて、砂糖も足す。自分の分にはミルクだけ入れて、少しぬるくしたのを一気に飲みほす。
「ちゃんと飲めよ」
氷織の前にミルクティーを置き、自分が使ったカップは流しにおいて青二は退室する。氷織は、小さく頷いて、カップに指を通しながら青二の背中を見送った。
「…おいしい」
ミルク多めの、優しい甘さのミルクティー。青二が作る、この絶妙な甘さが氷織は大好きだ。
一口飲むと、内臓から温まっていき、じわじわと体の内側から優しい気持ちが広がる感覚がするのだ。若干冷えていた体と、心も溶けていくような心地いいものだ。
ミルクティーを飲みながら、窓の外に目を遣る。ベッドサイドの読みかけの本と、小さなメモ紙を取り出す。
「明日は雨か」
今日の天気と、明日の天気の予想。青二との勝負の結果や、その日飲んだもの。印象に残ったことをメモが文字で埋め尽くされるまで、お気に入りのガラスペンにインクを付けて書くのだ。
露草色のインクで、正方形のメモに書き込んだら、乾くのを待って栞代わりに本に挟む。確かめるように、文字をなぞった指先は、凍えているかのように少し震えていた。
朝、起床直後。毎日、体温や血圧の測定というバイタルチェックが行われる。大変珍しい事に、本日は氷織に部屋から出る許可が下りた。
「氷織さん、今日は、部屋から出て大丈夫ですよ」
「…本当ですか?」
「ええ」
雨が降っているものの、というか、雨が降っていたことにより全体的に温かい日となることが予想されたためだと、担当の看護師は言った。ただし、夜の点呼の時間までには自室に帰っておくこと、と念押しされたものの、破格の条件での外出許可である。
「一日だけだけど、楽しんでね」
「ありがとうございます」
だが、一日だけではそんなにできることはない。歩き回って、それぞれに声をかけたいが、最近あっていない人も多く、また、面会の申し込みなどもしていないので迷惑になる可能性もある。
「どうしようか」
考えた結果、談話室に来た人と話でもしようと決める。今日は雨が降っているので、青二は自室から出てこない。そして、此処を訪れることもないので、入れ違いになったりはしない。
久しぶりに、他の人とも話せるかもしれない。そう考えて、氷織は意気揚々と廊下に出たのだった。
「……静かだ」
フロア全体が、静まり返っているようだった。まだ起きたばかりだし、仕方がないのかもしれない。人によって起床時間は異なるうえ、氷織は起床が早い方だという自覚もあった。
「本、持って行っておこうか」
誰かが起きてくるまで、本でも読もう。そう思い、自室から昨日の読みかけの本とメモだけ持って談話室に向かう。
誰もいない談話室の一番奥、ソファに腰掛け、手近なクッションとひざ掛けを引き寄せる。しとしとと窓を叩く雨の音を聞きながら、他の音がしたらすぐに動けるように意識を研ぎ澄ませながらも、本に目を通し始めた。
しかし、次に音がしたのは、正午を告げる柱時計だった。
「もう、昼、なのか」
誰も来ない。今日は雨なので、他の人も本調子ではないのかもしれない。昼食を摂りに来ないかと、暫く本を読みながら待ってみても、誰も来ない。
仕方なく、昼食を持って一度自室に戻る。本を戻す為と、食事中に体を冷やさないためである。特別メニューとなっている自分の食事は、自室以外では食べられないことになっている。
「コンソメスープ…」
静まり切った室内で、スープをすする音だけが響く。他に誰もいないような、そんな不安に襲われた。
「気のせいだ、きっと、気のせい」
今日は偶然、午前中は誰も出歩かなかっただけだ。半ば意地で、午後も談話室に足を向ける。きっと、誰かが来るはずだ。クッションを抱きかかえ、欠伸を噛み殺しながら耳を澄ませる。
段々と音が遠ざかっていき、柱時計の秒針の音も小さくなっていき、消えた。すぐに、重たい音がして、ゆっくりと目を開ける。いや、正しくは、目を開けようとした。
瞼が重たい。予想よりも大分ゆっくりと目を開けると、辺りは薄暗くなっていた。もしかすると、眠ってしまっていたのだろうか。
バキバキと、音がしそうなくらい固まっている首を回して、なんとか柱時計を見ると、時間は午後九時を指示していた。
「あと、一時間…」
点呼は午後十時だ。そろそろ戻らないとまずい。そう思い、ソファに手をつき体を起こそうとすると、やけに重たい。よく見ると、自分が手繰り寄せたひざ掛けのほかに、ブランケットや上着などが沢山体に掛けられていた。中にはマフラーや、フェイスタオルまで混ざっている。
寝てしまった後、談話室に来た誰かが掛けてくれたのだろう。その時に起きられなかったことを残念に思う。
「戻らないと…」
足に力を入れて立ち上がろうとしても、体がまるで金縛りにあったかのように動かない。そして、やっぱりか、と氷織は自嘲気味に笑った。
恐らく、身体の殆どが凍り付いてしまって動かなくなっているのだろう。段々と体が凍り付く間隔が短くなっていることは、薄々勘づいていた。
「…今日が、最後の、自由時間ってことだったんだろう、な」
口もうまく回っていない。最近は、青二が来る前に手足をお湯に付けたり、一時間と言わずに常に温かい飲み物を飲んでいても、すぐに四肢が凍え、上手く動かせなくなっていた。
体温の測定結果は大分前から見せてもらえなくなっていたが、多分徐々に低下していたのだろう。今朝の体温を見て、限界だと判断されたのかもしれない。
「……寒い」
体に掛けられていたブランケットを一枚、肩にかけて、上手く曲がってくれない関節に油をさしたいと思いつつ廊下に出る。もはや、歩いているというよりは体を引きずっている、という表現の方が正しいだろう。
ずるずると、身体に巻き付いたままの衣類を尾のようにしながら、一歩一歩、何とか前に足を出す。こうして歩いている間にも、足の先から感覚がなくなっていく。
「結構、痛い、気がする」
吐き出した息は白かった。自分の周りだけ温度が下がっているような、そんな気分だ。まだ病室までは、数歩、いや、十数歩はあるかもしれない。でも、氷織は、もう一歩も歩ける気がしなかった。
進むのも、立っていることも辛くて。仕方ない、と諦めて前のめりに倒れこんだ。触れた頬が、霜で切れたかのように痛んだ。
「つめた…」
気の所為でないのなら、床に霜がおりてきているように見えた。そんなに自分の体は冷たいのだろうか。熱伝導性はどうなっているんだろう、とか、自室までもう少しだったのにな、とかどうでもいいことしかもはや考えられなかった。
もう少しで思考も全部止まってしまうなら、せめて何か有意義なことを考えたいのに。いや、どうせ考えたところで、書き残すすべもないのか、と悟ったような声が脳に響く。
そういえば、結局、青二には何も言えなかったな。せめて何か言い残せればよかったのだが、自分でも予想がついていなかったので許してほしい。
「まあ、こんな、もんか」
諦めて、目を閉じた。狭まっていく視界の中に、きらきらとした光が入ってきた。氷の粒が、まつ毛についていたようだ。そんな所まで凍るんだな、とぼうっとしながら眺める。
不意に、身体が持ち上がった。少ししてから、腹部に燃えるような、焼けるような感覚が走った。
「あっつ、な、なに?」
もはや凍り付いて動かない首は、状況把握をしようと思っても何の役にも立たない。何が起こっているのか全く理解できないが、じゅうじゅうと、人体からしてはいけないような音を立てながら腹が溶けていくのが分かった。
暫くして、手のひらのようなものが当たっているのだと、戻ってきた感覚からわかる。がくん、と急に体が、くの字に曲がった。溶けたことで可動域が広がったらしい。
自分の体のことながら、氷織はたいそう驚いたが、それは相手も同じだったらしい。
「…野垂れ死んでんじゃねえよ、通行の邪魔」
自分を抱えている相手の声は、若干上ずっている様に感じた。そんな声で言われても説得力はないな、と思いながら反論する。
「仕方ないでしょ、ていうか、お前の手が熱い。焼ける」
「お前が冷たいんだよ馬鹿。こっちは凍傷になりそうなんだけど」
そう返しながら、氷織の体を抱え込んで、鱗也は足で病室の扉を開けた。鱗也は、かなり面倒くさそうに雑にドアを開けたものの、入室の仕方とは対照的な丁寧さで氷織をベッドに座らせた。
触れられた部分から氷が溶けていくような感覚に、人肌とはこんなに熱いものだっただろうか、と思いながらも氷織は大人しくしていた。
「外で寝てんじゃねえ。周りがヒヤヒヤするだろうが!」
そう言いながら氷頬にガーゼを貼ってくれる鱗也に、氷織は笑って返した。
「凍ってるだけあって?」
「今はふざけるな」
冗談だったのに、と氷織が言っても鱗也は不機嫌そうに鼻を鳴らすだけだった。冗談ではないことはお互いに分かっているからだろう。だからこそ、鱗也は最近顔を見せなかったのかもしれない、と氷織は思った。
「鱗也、」
氷織の言葉は、そこで遮られた。酷い男だな、と思いつつも、何も言わない鱗也に対して怒りは湧いてこなかった。そういう男だって、知っていた、覚えていたから。
しょうがないな、と軽く頭を振った氷織に、鱗也は無言で本を差し出した。タイトルを見て、氷織は目を丸くした後、からからと笑った。
そうか、お前が持っていたのか。何時、貸したのかすらもう忘れていた。病室に揃っていたシリーズの、唯一抜けていた巻。自分が一番、好きだったであろう一冊。
一番お気に入りのメモ紙と、インクで書かれた栞の挟んである頁を開くと、唯一ある会話文が目に入った。
氷織はそれを眺めて、鱗也の方に目線を遣った。鱗也は、静かに首を振った。気に食わないくらい、氷織の予想通りの反応だった。
「キミのこと」
静かに口を開く。冷気がその場を支配した。氷織の、本を持った指先が、宙ぶらりんになっている足先が、上下する瞼が、ゆっくりと、再び凍り付き始めた。
鱗也は、何も言わずに、真っ直ぐ氷織の目を見つめ、その声に耳を傾けていた。
「嫌わせてすらくれないのか」
氷織は、もう自分がどんな顔をして、どんな声をで言ったのかわからなかった。確かめる術はなくても、きっとこれが正解だと、根拠のない自信があった。
最後に、氷織は、何処かが焼け付く痛みのような、じんわりと温かく落ち着くような、不思議な感覚に包まれながら、白がすべて支配した。
どうあがいても、明日は訪れない。
氷織、読みは「ひおり」、女性。
好きなものはミルクティー、コンソメスープ。
嫌いなものはミカン。
趣味は読書、特技はトランプ含むカードゲーム全般。