第6話 蝉少女、着替える。
蝉少女出現の翌朝。
昨日より早めに目が覚めた僕は、朝食を済ませた後、部屋に戻ってインターネットに興じていた。午前中からネットですか、と言われてしまいそうだが、まだ夏休み二日目なので宿題をする気にもならないし、当然どこかに出かけるつもりは無いので、他にやることも無い。
蝉はまだ、現れていない。ただ、気持ちの悪いことに、僕の学習机の上には蝉の抜け殻がそのまま放置されている。
奴は昨日の帰り際、絶対にこれを捨てないように、と僕に釘を刺した。
「わたしはここから出入りするしかないから、絶対に捨てたり壊したりしないでね」
「はいはい……」
言われなくても触るのもおぞましいので、僕にはどうにも出来ない。
ちなみに僕の宝箱は、学習机の引き出しに安置されている。ただし、鍵は「わたしが預かっておくから」と言って蝉が持っていってしまった。
「じゃ、また明日」
そう言って蝉はまた、白い靄になり、抜け殻の中へ吸い込まれるように帰って行った。
「今日は来ねぇのかな……」
そんなことを呟きながら、僕はパソコンの画面を眺める。何気なくニュース記事を読んでいたら、国内のバドミントン選手が世界大会で健闘したというニュースが目に入った。
「あ、この人って確か……」
僕は記事を全文表示にする。
やっぱりだ。
そのバドミントン選手は、僕と同じ中学出身の選手だった。僕より七歳も年上なので面識は無いけれど、顧問の先生はかつてその選手に教えていたらしく、よく自慢げに話を聞かされたものだった。
「へえ、やっぱりすごい選手だったんだ……」
カチカチ、と写真をクリックして拡大してみる。試合中の選手の写真。真剣な表情で、でもどこか楽しげだった。
「まあ、僕だってバドミントン自体は好きだけどね」
だからと言って、蝉の飛び交う道をわざわざその為だけに毎日通う気にはならない。
「はぁ……」
僕ってつくづくヘタレだなあ。
なんて思っていたら、あの抜け殻から白い靄が漂い始めた。今日も蝉は、ピンクのパジャマを着ている。
「やっほ……ぅ」
昨日の帰り際には威勢が良くなっていたくせに、一晩置いたらもう人見知りが再発してしまったのか、ちょっと恥ずかしげに蝉は登場した。
「おう。今日もごくろーさん」
僕がそう言うと、蝉は少しほっとしたように、表情を緩ませた。
こいつ、積極的なようで、たまに内気な一面を見せるよなあ。
「あのね、コタ。実は今日は蝉講義の後で、蝉とのふれあい体験の為にちょっとお外へ出て見るのもいいかなって」
「外……か」
窓の外から響いて来る蝉の声……。今日もお元気でなによりだ。
「でもね、外に出ようにも、わたしパジャマだから……。何か服って借りられる?」
「ああ……服なあ。僕のじゃ、ちょっと大きすぎるしな。よし、妹のを見てくるよ」
「ごめんね」
蝉は本当に申し訳なさそうな顔をしている。蝉の元気がないと、こっちも調子が狂うってものだ。なにもそんなに身体を縮こまらせたりしなくたって、服くらい用意するのに。
「ちょっと待ってろ」
僕は急いで部屋を出、妹の部屋へと駆けこんだ。タンスに手を掛けて……あれ、もしかして今自分、とんでもないことしようとしてる? なんて一瞬ためらいつつも、思いきって「えいっ!」とタンスの一番上の段を引いた。
……いきなり下着コーナーでした。
赤面しながら一段目を閉じる。
ごめん、志乃舞。
二段目、行きます。
二段目は、制服や体操服が入れられていた。服といえば服だがさすがにこれを持ち出したらバレてしまうだろうし、蝉には中学生の制服は窮屈そうに思えた。
それでは、三段目。
開くとそこには色とりどりのワンピースやスカートが入れられていた。
どうやらお出かけ着を入れる棚だったようだ。普段あまり妹が来ていないようなガーリーなアイテムがずらりと並んでいる。
そういえば志乃舞って、母親が買って来た服ってあんまり好きじゃないみたいで着ないことが多いんだよな。きっと二人の服の好みが違っているせいなんだろう。志乃舞はどちらかっていったらもっとスポーティーな感じの服装のことが多いし、そのほうが妹らしいなとは僕も思う。
この棚の服ならきっと、しばらく持ち出していても気づかれないだろう。
僕はそう踏んで、棚の中から水色のギンガムチェック柄をしたコットン素材のワンピースを取り出した。
部屋に戻ると蝉が、身を縮こまらせながらベッドの上にちょこんと座っていた。
「あの、借りられるの、あったかな?」
「あったぞ。これなら着ても大丈夫だ」
「ほんとに? じゃあ、着替えてみる」
そう言って蝉はワンピースを受け取ると部屋のカーテンに包まり、さっそく着替えを開始した。
おいおい、なにもそんな風に着替えなくても僕が出て行くからいいのに。
外から射す強烈な日差しが、カーテンの中に包まる蝉のシルエットを透かしだしている。丸みをおびた肩、豊満な胸、女性らしい、すこしムチっとした太腿……。
とその時、ハラリとピンク色のパジャマのズボンが、カーテンの端から床へと落ちた。
うわあ、なにこれ。つまり今、カーテンの中の蝉は、パンツ一丁ってことですか。
ハレンチ娘?! 思わず赤面しますが⁈
いやいや、何を考えているんだ僕は。あの純真で無垢な性格の蝉相手に欲情など、あってはならないことだ。スーハ―スーハ―。こういう時はヨガの呼吸だ。ウジャイで吸って、ウジャイで吐く。スーハースーハー。
しかし僕がそんなことを考えているとも知らず、蝉は無造作に落ちたパジャマを足で踏みつけながら、着替えを続行している。
ハラリ。今度はパジャマの上着が落ちた。
え?
じゃあなに?
今カーテンの向こうの蝉は、ぶ、ブラ。ブラ一丁ですか。
年頃の女の子のくせに、ですか?
か、神様。僕は、一体どうすれば……。
さすがにこの先はヨガの呼吸法じゃ誤魔化せそうにないですが。
「着替え、おわった」
嬉しそうな声でそう言いながら、蝉がカーテンの中から姿を現した。
「お。おお……」
無駄に胸を高鳴らせていたことをひた隠しながら、僕は蝉をじっと見つめる。
水色のギンガムチェック柄が涼しさを、コットン素材が夏らしさを演出し、胸元のブルーのリボンとパフスリーブになっている袖が、女の子らしさを引き立てる。
うむ。なかなかに夏らしくて清純そうで、素晴らしい出で立ちだ。
目の保養になる。
「かわいいな」
素で、そんな感想を口から漏らしてしまった。
「……へ?」
蝉の頬が赤く染まり……やがて耳まで真っ赤になった。
「か、かわいいの?」
「ああ……。ワンピースがな。最高だよ。そのワンピースをデザインした人は、女の子の魅力を引き出す天才だな。それうちの母親が妹に買ってきたやつだと思うんだけど、全然妹は着ないんだよ。志乃舞も着ればいいのになあ」
「……あっそ」
僕がワンピースを褒めていることが分かると、蝉はつまらなそうにそう呟いてふてぶてしい態度でパソコンの前に腰を下ろした。
「さっさと講義を始めよっと。今日はとにかく蝉に慣れてもらおうと思ってるから」
そう言いながら、インターネットの検索サイトを表示して、そこに「蝉 画像」と打ち込んでいる。
「おいおいやめろよ……」
しかし彼女はやめてくれなかった。画面いっぱいに表示される、おびただしい数の蝉画像。
「うあ、キメぇ」
思わず画面から目をそらす絶対に蝉の講義は僕の蝉嫌いに拍車をかけていると思うのだが。
「なにしてんの? もっとこっちに寄りなってば」
不機嫌そうに蝉は僕の頭部を両手でがっちりと掴み、パソコンの前に強制連行する。無理やりに、僕はパソコンの画面と数センチの距離にまで顔を持って来られた。
「ほら、よく見てみて。かわいいでしょ? ここが口、ここが目……」
高画質な蝉画像を、全画面表示。
「うああああああぁぁ。やめてくれぇぇぇ」
身の毛が、よだった!
きもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもいきもい!
ぎゅっと目を閉じる。
「あっ! 目を瞑るなんて卑怯だよ! ほらほら、ちゃんと見なくっちゃ」
彼女が僕の瞼を両手親指と人差し指を使って強制的に開く。
「づああああああああああああああああ」
――見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない!
僕は白眼を剥くことで視界のシャットダウンに成功した。
「……そこまでして」
呆れたように蝉は、僕の瞼から両手を離し、腕を下げた。うう、ドライアイで目がしみるでやんす。
「この作戦は失敗かあ。……まあいいや。もう一つの作戦のほうが重要だったから」
蝉は自信満々といった様子で胸を張る。
「もう一つの作戦……えっと、まだ暑いからもう少し後にしない?」
蝉嫌いを克服しなければという気持ちはあるものの、まだ外に出る覚悟はできていない。
「大丈夫、木蔭の多い公園に行けばいいんだよ! さ、蝉とのふれあい大作戦実行のために、今すぐ外に出られる格好に着替えて。コタ」
「ええ……」
ミシュンミシュンミシュンミシュンミシュンミシュン……。
窓の外からは、蝉が発する宇宙人のような声が響いてくる。
「無理かもです☆」
可愛くウインクを決めてみたが、蝉はそれくらいのことでは許してくれなかった。
どうも僕がワンピースを褒めたあたりから、蝉の機嫌が悪い。
「シュシュ」
「う」
「紺色のゴム」
「うう」
「イチゴのゴム」
「ううう」
「を、今からハサミでチョッキン、チョッキン」
「着替えるから! 着替えるから!」
僕は全速力でタンスを開き、中から適当なTシャツと半ズボンと取り出し、パジャマをほっぽり投げてサっと着替えを済ます。その間、わずか数十秒。
「やれば出来るじゃない」
息を切らして着替えを終えた僕を見下すように、蝉は笑った。
「で、でも。出かけるのはちょっと」
「チョッキンチョッキン!」
「出かけます」
完全に蝉のペースだ。
「じゃ、行こう! おーっ!」
蝉はグーにした手を天井に向かって突きあげた。やる気満々だ。
「だけど公園って、どこに行くつもりなんだ?」
「森林公園」
「森林公園……」
「森林公園には緑がいっぱい! 蝉もいーーーっぱい!」
「いやあああああああああああああああああああ」
「チョッキン! チョッキン!」
ということで、僕は蝉少女を後ろに乗せて、自転車で森林公園へ向かうことになってしまった。