第3話 教室にも忍び寄る、蝉の恐怖。
せっかく汗をかきつつ精一杯自転車を飛ばして来たというのに、八時三十分になっても担任の教師は姿を見せない。今日は終業式や通知表の配布もあるので、いろいろバタバタしているのかもしれなかった。
「おーっす、日馬。ここんとこ、遅刻ギリギリだな」
友人の笹井航介がひょっこり現れた。僕は既に何度か、いかに自分が蝉を嫌っているのかをこいつに説明したつもりなのだが、一向にその深刻さを分かってもらっている様子が無い。
「蝉がいるから外に出るのが億劫なんだよ。前にも言ったろ」
「そんな、蝉蝉ってさあ。蝉がなんだっつーんだよ。あんなもん、ハエがでっかくなったようなもんだろ」
「ハエがでっかくなったら結構嫌だろうが!」
「……怒鳴るなって。ほら、沢藤さんも驚いちゃってるよ」
「あ……ごめん」
沢藤さんは目をまんまるくして僕を見つめている。しまった、さっきに続いてまたもや失態をおかしてしまった。まだ気まずさを微妙に払拭できていない状態だったので、また沢藤さんに変な人だと思われてしまったのではないかと、焦りがつのる。
ちなみにラッキーなことに、僕は今彼女と隣同士の席なのだ。最近少し喋れるようになったのも、この席のおかげ。前回の席替えの際、新しい席が発表になって隣が彼女なのだと分かった瞬間、僕はこの世に生を受けたことを八百万の神に感謝して回りたくなった。
「ううん、全然。せ、蝉? 蝉がどうかしたの?」
沢藤さんは話が見えないといった様子で首をかしげる。
「あーうん、まあね……」
蝉が嫌いだなんて、やっぱり男として格好悪いよなあ。どうも、自分から進んではっきり公言する気にはなれない。
「だけどなあ、日馬。これから夏本番なんだから、蝉なんか今どころじゃなく増えると思うぞ?」
「そんなの言われなくても分かってるよ。だから夏休み中はずっとひきこもってるつもり」
「はあ? マジで?」
笹井は信じられないという表情を浮かべる。
「お前なあ。高校生の夏に遊んでおかずに、いつ遊ぶ!」
「僕にとっては青春の思い出より蝉対策のほうが重要なんだよ!」
――マジで。
僕の真剣な表情に、笹井は言葉を失った。
「本音を言うと、七月から十月くらいまで、登校拒否をしたいくらいだ!」
「そんなにかよ……。まあ、うちのクラスには高校入学したその日から不登校のやつもいるけどな」
「ああ、あの席の人……」
僕らはちらりと、ついに一学期の間中、ずっと空席であり続けたその席を見つめる。廊下側の一番後ろの席。始業式の日に担任から、体調を崩して入院中の為しばらく学校には来られないであろう、との情報を得て以来、続報は入ってきていない。初めのうちはクラスの間でも「いつ来るんだろうね」なんて話題になっていたが、最近ではその話も飽きられて、話題にさえ上がらなくなっていた。
「なんだっけ、あの席の人の名前」
それさえ、忘れてしまった。笹井も眉をひそめて唸りだす。
「うーん。……う、から始まったような、気がするようなしないような」
「う……。ウイさん……じゃないな。ウエダさん、でもないよな。ウエノさん……」
「ウエノ。ちょっと近い気がするぞ!」
なにかが閃きかけたように、笹井は目を輝かせる。
「う、う、う……。ウノさん、だっけ?」
「ああ、そんなような感じだったような、もうちょっと違う感じだったような……」
笹井は両手で頭をかかえながら身をよじらせている。お馬鹿な脳味噌をフル稼働させすぎてしまったのかもしれない。憐れだ。
と、なにやら騒がしいオーラのやつが、こちらへずかずか接近してきた。
「虎太郎! 遅いっつーの! 待たせんじゃないわよ」
小学生のころからの腐れ縁、寺海砂亜子だ。なにやら大声をあげながら近寄ってくる。こいつは常にハイテンションなので、正直僕は苦手だというのに、なぜかことあるごとに、つるんでくるのだ。両手を後ろに隠して満面の笑みを浮かべており、心底怪しい。ちなみに待たせるなとか言われたけれど、僕は特にそう言われなければならないような約束をした覚えは無い。
「なんだよサー子。ニヤニヤして」
「はいこれ。ぷれ、ぜん、と!」「?!」
ビジジジジ、ビジジジジジジジジジジジ、ビジジ。
サー子がパっと僕の目の前に差し出した両手の中から、もう、呼ぶのもおぞましいそのアレが、身体をサー子の掌に打ち付けながら羽ばたき、そして縦横無尽に!
「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
クラスメイトの注目が集まるだとか、沢藤さんにどう思われるだとか、もうそんなことを考えるような余裕は一切無くなっていた。あの性悪女。くそくらえだ。こんなことをして一体誰が楽しいと言うのか。笑っているのなんかサー子くらいのものだ。
「いやあああああああああああああああっ!」
「きゃああああああ! 蝉がっ! 蝉がっ! 蝉がっ! 蝉がっ! 蝉がっ!」
クラスの半数程度の女子が、パニックに陥った。そりゃあそうだろう。こんなグロテスクなものが自分の近くを飛び回っているのだから。
耳をつんざく程に鳴り響く、奇声、金切り声。
逃げ惑うクラスメイトたちは机を蹴飛ばし椅子に転倒。落下するペンケースと散らばる様々な文房具たち。
「あーっはっはっはっはっは!」
「くくくくくっ」
うわ。サー子と一緒になって笹井も笑っていやがる。腹を抱えて涙まで流して……。あの二人とは今後の付き合い方を考えさせてもらう必要があるかもしれない。
悲鳴と、笑い声。室内を、あちこちぶつかりながら音を立てて暴れ飛び回る蝉。
教室の中は狂気の色を濃くしていった。
「こらーっ! なに騒いでるの!」
いつもより五分ほど遅れてようやく教室にやってきた担任の織川先生は、顔を歪める。
「明日から夏休みだからって浮ついてなキャーーーーーーーーーーー! あっち行って! やだっ! やだっ!」
まるで子供のような声をあげながら先生は頭を手で覆ってその場に座りこんだ。彼女もなかなかの蝉嫌いのようだ。僕はクラスを見渡した。今、蝉に怯えているクラスメイトの顔を、よく覚えておくことにしよう。その人たちとはきっと仲良くなれそうだから。
「窓開けて外に逃がそうぜ!」
さっきあれだけ笑っていたくせに、笹井はそんなことを大声でのたまいながら率先して窓を開け始めた。笹井は熟女好きなのである。特に織川先生の場合、外見は大人っぽくて妖艶な雰囲気をしているのにたまにお子ちゃまな一面を見せることがあり、そのギャップがたまらないのだとか。趣味趣向ってのは人それぞれである。
そうとも知らず、笹井の声を真摯に受け止めた窓際の席のクラスメイト達が彼に従い窓を開けるのを手伝う。すると蝉は、しばらく旋回した後にビーンと羽音をたてながら空へと飛び立っていった。
「ふぅ。一体どうして教室の中に蝉が……」
ヘタリこんだままそう呟く織川先生に笹井が手を貸すと、先生は「ありがとう」と言いながらその手をとって、よろよろと立ちあがった。笹井は心の底から湧きあがってきたような笑顔を浮かべ、教壇へ戻る先生を目で追う。その目は確かに、先生のタイトスカートのシルエット変化を捕らえようとしていた。僕だったらスカートよりも先生のバレッタのほうに目が行くけれど。べっ甲色をした大き目のバレッタが熟女らしい落ち着きと品の良さを醸し出していて、なかなか素敵だ。
「とりあえずこの後八時四十五分から体育館に移動になりますから、連絡事項を手早く伝えさせてもらいます。みんな席に戻って!」
時間が押しているのか騒ぎが不快だったのか、先生は不機嫌そうに教卓を叩いた。床に伏せていた僕も、立ちあがって膝についた埃を払い、席へ戻る。
「大丈夫? 沢藤さん」
沢藤さんは顔の両側に日本史の資料集と美術の資料集を立てて机に突っ伏していた。
「あ、うん。もう蝉いない?」
顔をあげる沢藤さん。机に顔を押し付けすぎていたのか、おでこがほんのり赤い。
「うん、いないよ。全く、サー子のやつ何考えてるんだか」
資料集を机の中に戻した沢藤さんは、ほっとしたように身を起して髪を整えなおす。ほんのり汗ばんだ額に前髪がちょっぴり貼りつきぎみ。
「……日馬くんも、蝉が苦手なんだね」
「あはは、実はそうなんだ。情けないよね……」
「そんなことないよ、誰にでも弱点はあるし。あんな日馬くん見るの初めてだったから、なんだか親近感が湧いちゃった」
そう言って沢藤さんは優しく微笑んでくれた。し、親近感が湧いちゃっただとおお?
――嬉しいじゃないか!
ちくしょう、胸がキュンキュンしてきたぜ。
しかし残念なことに先生が今日の流れについて説明を始めたので、そこで会話は中断された。僕は先生の話を聞きながらも、ちらっと隣の沢藤さんを見る。沢藤さんはその長い髪をゆったりとシュシュで一つに結び、髪先を左肩のほうへ流している。穏やかな彼女の性格とマッチしていてとても魅力的な髪型だ。
ちなみに僕は、少々髪フェチの傾向がある。女性の髪の毛ってなんでこんなに細く可憐で、しかし艶やかで、そして良い匂いがするのだろうか。それと、髪留めの類も僕は大好きだ。今日の沢藤さんのシュシュ。ここ最近お気に入りで使っているらしいツルツルした素材で出来ている淡いピンク色のものなのだが、これがまた彼女の女性らしさを象徴しているかのようでとても似合っている。
ああ、いいなあ。いいなあ。なんて、文明社会に反して今だクーラーの導入されていない教室のモワっとした熱気の中、下敷きで自分の顔を仰ぎなんとか涼をとっているという状況下でありながらも、僕は夢見心地になっていた。しかしどうやら凝視しすぎていたらしく、視線に気づいた沢藤さんがちらりとこちらを振り返る。
「……あ」
気まずさを誤魔化すために、僕は下敷きで沢藤さんに風を送ってあげる。すると沢藤さんも気持ちよさそうにして、しばし涼しさに身を任せ、うふふと微笑んでからまた視線を教壇の方へと戻した。
うわあ。ドリームタイムだったなあ今。僕が下敷きで仰ぐたびに彼女の顔周りに垂れさがっていた毛束がふわりと揺れて、甘い香りが漂って……。今日は良い夢が見られそうだ。
終業式後のホームルームも終え、放課後。笹井は所属しているサッカー部が忙しいらしく早々に姿を消し、僕も蝉は嫌だがなるべくすみやかに家に帰って早く涼みたいものだと思いながら持ち帰るべき荷物の整理をしていたところ、織川先生から声をかけられた。
「あ、日馬くん。ちょっと職員室に来てもらえるかな? 磯貝先生が君とどうしても話がしたいって言ってきかなくって」
「ええー。もしかして、またバドミントン部の勧誘ですか?」
「らしいわ」
先生も顔を曇らせる。
「もう夏休みになるってのに、まだ諦めてなかったんですね」
「部員少ないみたいだし、君は強豪チーム出身だからね。でも、どうして入らないの? 君って帰宅部でしょ? 他にやることも無いんでしょ?」
「やることが無いとなにか悪いんですか?」
僕はボーっとするのが好きなんだよ。蝉のいない安全な部屋の中でな。
「……別に強制することでもないからいいんだけど、若いうちからやることが無いのに開き直るのもどうかと思うわよ。まあとりあえず、ちょっと行ってきてもらえない?」
「僕、荷物の整理がまだなんですけど。その後でもいいんですか?」
「いいえ、今すぐ行ってもらったほうがいいわね。磯貝先生、今日は午後からバドミントン部の練習試合に付き沿って出かけちゃうみたいだったから」
「……わかりました」
まったく理不尽だ。向こうの用事で勝手に呼び出しをうけた上に向こうの都合に合わせて動いてやらなくちゃならないなんて。
とはいえ、逆らって嫌われでもしたら困る。磯貝先生は僕のクラスの国語担当でもあるのだから。
……職員室にはクーラーがあるんだよな。
それだけを原動力に、僕は汗をだらだら流しながら職員室へと向かった。
長かった……。
職員室内のあちこちで教師たちが美味しそうに店屋物を啄ばむ中、僕は延々と、いかにバドミントン部にとって僕が必要であるか、どれほど僕が中学校時代におさめた成績が素晴らしいものであったか、そして我が校のバドミントン部がいつでもウェルカム状態である上に、夏の大会が終わり上級生が抜けた直後のタイミングが、僕が入部するのに最良の時期であり、逆にこのチャンスを逃したら入部するのが精神的に困難になるであろうことなどを熱く熱く説明されることとなった。さすが国語教師だ。よく喋る。
しかしそれに対してまさか僕も「蝉が怖いからなるべく夏は家に引き篭もっていたいので入部できないんです」とは言えない。だからじっと、「はい」「へい」「ほい」等適当に暗いトーンで相槌を打ちながら、やり過ごすより他無いのである。
「で、どうだい日馬くん。入部してくれるかい?」
「いいえ」
「…………」
以上で、会話は終了した。
失礼します、と僕は職員室を後にする。話を聞くのは苦痛だったが、クーラーのある部屋で涼めたせいか、だいぶ汗はひいていた。だが、肌がベタつくのでやはり不快指数は高い。早く家に帰ってシャワーを浴びたい。
――帰り道も、蝉か。
廊下を歩く。窓の外にある中庭にはこれでもかと緑が生い茂り花が咲き乱れ、そしてやはり、もれなく蝉の大合唱の付録つき。
だが明日からは夏休みだ。沢藤さんにしばらく会えなくなるのは寂しいが、とにかく蝉とのコンタクトを極力避けて生活することが可能になるのは嬉しい。夏休みがあって、本当に良かった。
教室のドアを開ける。
当然のごとく、もう誰も残っていなかった。
クーラーのないこの部屋で、長居をしたいと思う者などいるはずがない。部活に所属している生徒はそれぞれの練習場所へ、帰宅部は全員すみやかにクーラーのある場所へ、散って行ったのだろう。
しかし何だかこうして、いつのまにか教室に誰もいなくなっていると、少し寂しい気がするものである。じゃあ何がしたかったの、と言われても分からないけれど、女の子が残っていてラブロマンス的な展開にっ?! だとか……。まあ、そこまで高望みしないにしても、誰かに誘われて遊びに出るくらいのことは僕も期待しないでもないのだ。
どうもこの高校に入学してから、どことなく物足りない日々が続いている。青春の日々ってのはこんなにも淡々と過ぎ去ってゆくものなのだろうか?
と、こんなことを考えていたって仕方がないか。
「はあ。さっさと荷物まとめよう」
毎年やりがちなのだが、僕は夏休み前、事前に少しずつ荷物を持ち帰っておくという作業を忘れてしまう為、最終日である終業式の日になって沢山の荷物を持ち狩る羽目になってしまう。
別に資料集やら宿題の出ていない教科の教科書やらなら、そのまま置いていってしまったりするのだが、やはり主な教科の教科書や、なぜか持ち帰り忘れていた体育着だとか、学校で捨てることが禁止されている毎月の学校の広報誌だとか、なんだかんだで鞄に入りきらないくらいに持ち帰らなければならない荷物は多い。
席に戻り、早速机の中のものを全部取り出し、持ち帰るものとそうでないものを分けていく。これも置いていこうかな、これも置いていこうかな、と置いていく側に甘い判定を下していく。
本当は、教科書は全部持ち帰るように言われてるんだよなあ。盗難の恐れがあるとかで。
沢藤さんは、きっと真面目だから全部持ち帰っているんだろうなあ。と、なんとなく気になって彼女の机をちらりと覗く。すると。
「……やっぱり、からっぽだ」
それに雑巾がけでもしたのか、塵一つない。さすが沢藤さん。きっとサー子の机なんかはバリバリに教科書もプリント物も詰まりまくりで埃だらけに違いない。
と。
彼女の机の下に、何かが落ちていることに気がついた。
「これは……」
彼女が今日つけていた、ピンク色のシュシュだった。
なぜ落ちているんだろう。
ああ、そういえば放課後にクラスの女子たちで遊びに行くような相談してたっけ。
女子というのはマメなもので、学校帰りに買い物やカラオケに行くだけでも髪をいじったりメイクをしたり、靴下を履き換えたりするものなのだ。そしてスカートをウエストのところで折ってちょっと短くしたりする。
沢藤さんも誘われていたようだから、きっとここでお色直しをして出かけていったのだろう。その際に髪型も変えて、必要なくなったシュシュを床に落としたまま気づかずにそのまま帰ってしまった、と。
我ながら名推理。なんて自画自賛しながら、とりあえずシュシュを拾い上げる。
おお、滑らかな手触り。
念の為教室を見渡す。もちろん誰もいない。既に他のクラスからさえも、人の声は聴こえてこなかった。
そして。
そっと鼻元に近づける。
うん。甘くていい香り。
このシュシュ。沢藤さんという存在を象徴するかのようなこのシュシュ。
これをもし、毎晩眺められるとしたら、どんなに幸せな気分になれることだろう。
そう考えるとどうしても、僕の宝箱に入れたくなった。
ごめんなさい。変態でごめんなさい。
だけど僕が君を愛しているからこそ、こうしてしまうんだ!
僕はシュシュを、自分の鞄の奥へ、罪悪感と共にぎゅっと押し込んだ。