第2話 僕、自転車で学校に向かう。
ジーーーーーーーーーーーーーーーーシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャ……。
耳を占領する、クマゼミの鳴き声。
僕は数ある蝉の中でもクマゼミが一番嫌いだ。あれは鳴き声といい、その大きさといい、本当に恐ろしい。
ああでも、体当たり率でいったらアブラゼミのほうが分が悪い。あれはろくにうまく飛べもしないくせに、ビービーあちこちを飛び回るから最悪だ。
ヘッドホンから爆音で音楽を流して恐怖心を消そうと試みたこともあった。
だけど結局、存在していることを知りながらその存在感を覆い隠したところで余計に不安になるばかりだったので、今はとにかくよく耳を澄ませて状況把握するよう努めている。
よく聴いてみれば、蝉の多くは結構遠いところから鳴いているのだ。ぶつかる距離にいないことを確認して走行する、これが唯一僕にとれる作戦だ。蝉への恐怖心から頭を覆うようにてぬぐいを巻きつけているが、その布越しの世界に耳を澄ます。
――BUUN!
何か大きな羽音が、後頭部をかすめていった。僕はごくり、と唾を飲む。
今のは、蝉だったのだろうか、それとも大きめの蜂やアブだったのだろうか。
蜂やアブのほうが刺されたら危ないじゃないか、と人は言うかもしれない。もちろん僕だってそいつらに刺されるのはゴメンだ。
だけど、蝉でなかったことを、僕は祈る。あんな近距離をもしも蝉が通り過ぎていったのだとしたら……想像しただけで、身体がブルっと震えて鳥肌が立った。
急ごう。
とにかく、学校に着けばいいのだ。学校に着けば全てが終わる。
シャカシャカシャカシシャカ……巧みに変速機を操作しながら、身をかがめて加速体制に入る。ちなみに必要以上に身をかがめているのは頭部を蝉から守るため……。五官の備わっている頭部へのダメージを想像すると、どうしても身体が縮こまってしまう。
このまま道の左側を走っていると、この先に神社がある。
神社には木がある。
木には蝉がいる。
だから僕は、本来必要ないのに道路を渡り、わざわざ一時的に右側を走る。
程なくして無事に神社、通過。しかしまだまだ、油断は禁物だ。この先は逆に右側のほうが並木道となり蝉出現可能性が高くなるため、そうなる前に左右を確認して再び道路を横断。
下り坂。足をペダルから離して今まで以上に身をかがめる。この先にはトンネルがあるのだが、トンネルの入り口付近の壁には、稀に蝉が貼りついていることがある。
――シュワン……。
今日はいなかったようだ。一安心。そのまま勝手に回る車輪にしばらく身を任せた後、トンネルの中間辺りで再びペダルに足を踏み入れる。
この先は、昇り。出口付近は入り口同様、なるべく迅速に通過したい所。
「おりゃあああ」
加速を全力でサポート。無事、トンネルを脱出した。よし、このまま……。
と。
キキーッ!
僕はブレーキを強く握りしめ、停止する。
運が悪いな……。交差点の信号に引っかかってしまった。ここの交差点は引っかかるとなかなか青に変わらない上、左側が総合病院の敷地である為、看板、木、高さのある生垣など、蝉出現ポイントに満ちていて、待ち時間には大幅に精神力を削られることとなる。
だが、ストレスになんか負けては駄目だ。この先にまだまだ難所が待ち受けているのだか
ビビッ!
――ん?
今、音が、したな。
すぐ後ろから。
ビッ! ビビッ!
神経をこれ以上ないほど鋭角に尖らせている僕だからこそ、分かる。これは蝉の羽音だ。
「っく……」
恐る恐る、振り返る。
「うぁぅ……」
声にならない呻きが漏れる。
生垣から、蝉が飛び出してきた。
飛んではまた生垣の中に消え、そしてまた飛んでは生垣の中に消えてゆく。
「……ちっくしょう」
両足で地面をけりながら、蝉から距離を取る。奴は何を考えているのか全く分からないが、とにかくビビッビビッと、気が狂ったように暴れ飛んでは姿を消す。
――考えていることが分からない。これが蝉の怖さの原因の一つでもある。
犬だったら、猫だったら。そりゃ、手に取るように分かる訳ではないにしろ、少しは何を考えているか分かるものだ。ああ、今喜んでいるな。ああ、今エサが食べたいんだな。かまってほしいんだな、散歩に行きたいんだな……。そういう意思が、気持ちが、伝わってくる。
だが、奴はどうだ。意味が分からん。飛び方に意思も規則性も感じない。そんなのどの虫だって同じではないかと言われれば答えはNOだ。
例えば砂糖菓子を落としたら群がってそれを運ぼうとする蟻。敵を見かけて威嚇するカマキリ。分かる分かる。僕、分かるよお前らの気持ち!
だが、蝉の気持ちは断じて分からない。
ようやく信号が青に変わった。狂った蝉よ、さらばだ!
ペダルに足をかけ、力強く漕ぎだす。時間に余裕が無い。ほぼ立ちこぎのような状態で、サビに弱い一万円前後のママチャリを馬車馬のように働かせる。
ここから先は賑やかな通りになる。朝の通勤ラッシュで道が混んでいるし、数々の飲食店が立ち並んでいる。ここ周辺に住む住人にとってはメインストリートとも呼べる通りである。
だが、自然が無い=蝉がいない、訳ではない。蝉は、いる。どこにでもいる。
やつらはさながらカラスのごとく、この都会(と言えるほど僕の住んでいる市は都会でも何でもないのだが、それなりに人口のある街の中心部なのだ)で幅を利かせている。マンションの壁だろうがラーメン屋の壁だろうが、とにかく止まれるところならどこにでも止まっている。そしてどこにでも、死んだふりをして転がっている。
死んだふり、というのがミソなのだ。例えば
「うあっ!」
早速、蝉が転がっているではないか。巧みなハンドルさばきで接触を回避。しかし近くを車輪が通った衝撃は蝉にもれなく伝わってしまい、焦った奴は……。
ジジッ!ジジジジジジジジジジジジッ!
ほれみろ! 暴れおる!
バタバタとアスファルトに自らの羽やら身体を叩きつけ、転がりまわって、まるで数秒前まで死体のような有様だったとは思えないほどの可動範囲を見せつけてくる。今回は自転車だったから良かったようなものの、もしもこれが徒歩だったとしたら……。
背筋にゾクゾクと寒気が走る。やはり蝉という生き物は、正気では無いのだ。
転がる蝉を後にして、メインストリートをつき進む。しばらく直進が続くのだが、ここの道の難点は信号が多いことである。
「ちっ! また赤かよ!」
思わず舌打ちしてブレーキをかける。断っておくが、僕は常時こんなDQNみたいな言動を取っているわけではない。今は気がたっているからDQN風味なだけである。これというのもみんな、蝉が僕をそうさせたのだ。
苛立ちを、隠せない。ポケットから携帯を取り出し、時間を確認する。あと十二分で学校に着かなくてはならない。
信号が青になり、僕は短距離走の選手のロケットスタートばりに自転車を走らせる。どうだ見たか。これが僕の実力よ……。
「赤ぜよ!」
再びブレーキ。本当にイラつく。腹が立つ。あと暑い。びっくりするくらい毛穴という毛穴から汗が噴き出してくる。
シャシャシャシャシャシャシャシャシャシャ……。
公園が近いせいか、前方から「超音波ってもし聞こえたらこんな音がするのかな」レベルに達してしまっている、もはや生き物が発しているとは思えないような雑音が大音量で響いてくる。あそこの横を今から通り過ぎなきゃならないわけか。僕、正気でいられるかな。自信が無い。
青になる。自転車をまたスタートさせる。
シャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャアシャアシャアシャアジャアジャアジャアジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ。
聴覚だけじゃない。思考も、呑み込まれる。ラジオのノイズのような、放送終了してしまったアナログテレビを間違ってつけてしまったかのような、音の砂嵐。
「う……るせぇなあ……」
ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ
「負けるかよ……」
ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ
「くそっ!」
ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジ…………シャシャシャシャシャシャシャシャシャシャ、シャ、シャ。
ようやく、公園から離れることが出来た。蝉による聴覚レイプは本当に酷い。その音の波に負けてしまうと、脳が侵食され、まるで自分がこの世に存在していないかのような感覚……離人感に襲われてしまうことになるので気をつけなければならない。
最後の坂を昇る。ようやく、高校の門が見えてきた。
「っはあ。っはあ!」
蝉に負けず、ここまで来ることが出来た。
その充実感と達成感で、既に僕は感無量の状態になっていた。この気持ちは、きっと大の蝉嫌いの人にしか分かってもらえないと思う。
「やた、やった。校門だ」
急いで駐輪所に自転車を止めて、教室へ駆けこまないと。時計は八時二十五分を指している。
最後の、ひと踏ん張りだ。
「おれぁああああああああああああああああああああああああああ」
「えっ? 日馬くん?……」
「おっしゃあああああああ、ああ、あ?」
涼しげな声が、耳に届いたような気がした。
汗を垂らし、顔を真っ赤にして鬼のような形相で自転車のハンドルを力強く手前に引きながら立ちこぎをしていた僕は、ちらりと声の聞こえた方を振り向いた。
「あ……さ、沢藤さん」
「う、んんっ?!」
僕の形相に驚いたのか手ぬぐいを巻いていることに驚いたのか(たぶん両方)彼女は見たこともないような表情を見せている。その目は妖怪でも見たかのように大きく見開かれ、肩は強張り、口元はなんとも言えぬ形状のまま固まり、眉はくっつきそうなくらい寄せられて……つまり恐怖におののいていた。
「あっ……」
急いで手ぬぐいを取ろうとするが、固く結びすぎていて上手く取ることが出来ない。頑張ろうとすればするほど口元が尖って、自然とひょっとこに近付いていく自分に気付く。
「な、なんだか大変そーだネ♪」
笑顔を凍りつかせながら、沢藤さんが一歩後ずさる。気が優しい彼女はうちの生意気な妹とは違って、人を見下したり嫌な顔をしたりすることがない。だが、ここまで露骨に作り笑顔で気を使われると、逆に弁明をしないことにはいてもたってもいられない気分になってくる。
「ちがっ……これはその……」
これは全部、蝉のせいなんです。このてぬぐいは蝉がもしも顔にぶち当たったらと思うと怖くてしかたないからこのくそ暑いのにぐるぐる巻きに顔に巻きつけられているだけなんです。それに蝉が怖くて遅刻ギリギリの時刻にならないと家を出られないから、一生懸命自転車を漕いだ結果顔もゆでダコみたいに赤くなっちまってるし。そしてその蝉の恐怖と闘いぬいてようやく学校へ辿りついたんだという感動、プラス自転車に乗っている人特有のあの独特の陶酔感と申しますか、自転車ハイのようなものに襲われて、それでああいった感情をさらけ出したような表情に。
そういうことってありますよね。
ねえ、沢藤さん!
なんて、まだ会話をするようになってから間もない女の子と、うまく意思の疎通なんかできるわけもない。
僕がまごついているうちに、気まずい空気を抱えたまま、貼りつき笑顔のまま、ロボットのような動きで沢藤さんは去って行ってしまった。
「はあぁぁ……」
深いため息が漏れる。
沢藤泉。彼女は僕が今ひそかに片思い中……というか彼女はその美貌から学校の中でちょっとしたアイドル的な存在だったりもするので、僕の推しメン、くらいの感覚ではあるのだが、とにかくお慕い申し上げているお方だったのだ。彼女の前ではなるべくスマートに、ジェントルマン風味に振舞いたい、と思って今日まで過ごしてきた。だというのにこの失態。普段通りの自分だったらこんなことになるはずは、無かった。
蝉が、僕の精神バランスを乱したのだ。
「おっと、落ち込んでいる時間はないんだよな」
既に始業時刻五分前を告げる予鈴が鳴り響いている。そろそろ担任が教室に姿を見せている頃かもしれない。先生、いつも早めに来るからなあ。僕は急いで蝉に警戒しながら駐輪所に自転車を止め、教室へと急いだ。