第17話 二学期が始まる。
体育館に、ラバーシューズの底が擦れる音が響いている。夏の大会を終え、三年生が引退した直後である他の運動部と同様、バドミントン部にもどこか初々しい空気が流れているのであった。
「そろそろ終わろう」
二年生の部長が、慣れない素振りで皆に声をかける。僕も打ち合いをやめ、ラケットを体育館の隅に置くと、他の部員と共にストレッチを開始した。
僕は今、約一年ぶりにバドミントンの練習をしている。思っていた以上に身体は鈍ってしまっていて、サーブもレシーブも思うようにいかない。だが、日に日にコツが戻ってきているのは実感している。きっと二・三か月経った頃には、試合でも元のように動けるようになっているだろう。
ひきこもりがちだった夏休み前半に比べて、部活を始めてからの夏休み後半の僕の生活の充実っぷりといったらなかった。体力を戻すための早朝マラソンに始まり、昼は部活の練習、その後は、部員たちと一緒に遊びに出ることもあったし、学校の図書館に寄って溜めてしまっていた宿題を片付けてみることもある。
それでも、何もやることが無くなってしまった夜には、やっぱり夏香のことを思い出した。
あの病室で会った日以来、彼女の消息は不明だ。試しに夏香の父親が務めているという東中学を訪れてみたこともあったが、夏休み中なので職員室に教師の姿は見当たらなかった。そうして何もわからないまま、もう八月を終えようとしている。
ストレッチを終え、片付けを始める。ネットは先輩たちが外してくれていた為、モップをかけることにする。体育倉庫へモップを取りに行ったら、同級生の部員である里原くんが声をかけてきてくれた。
「夏休み、終わっちゃうね」
「そうだね」
彼はまだ部に溶け込みきれたとは言い難い僕の緊張感をいつもほぐしに来てくれる、なかなか優しいやつなのだ。今度の大会では、もしかしたら彼とダブルスを組むことになるかもしれなかった。なんとかそれまでには、足を引っ張らないように実力を戻しておかないとな。
「明日は始業式だからいいとして。明後日からはまたクーラーのない教室で一日授業かぁ。考えただけで気が重いよ」
里原くんはさらりとした栗色の前髪をうざったそうに掻き上げる。笹井が「授業まじでダリぃ」とか言うのとは、文章の内容は全く同じであるにもかかわらず印象が全く違う。笹井に言われると「黙れバカ」と言いたくなるが、彼が言うと「そうだよね。あせもが出来ちゃいそうだし嫌だよね」なんて答えたくなってしまう。まあつまり、彼はどことなくお上品な人なのだ。
部活を始めてから、彼以外にも様々な人と交流が深まった。顧問の磯貝先生とも、部員の皆とも、いつも同じ体育館の隣半分を使って練習をしている女子バドミントン部や、卓球部なんかとも。
そうして色々な人と関わるようになると、世の中色々な人がいるんだなあと思えて、視野が広がってくる。ただ部活を始めたというだけで、まるで生活環境も知り合いの数も変わってしまった。
高校入学以来、中学時代より日々の生活がパッとしないと思い続けていたのだが、結局は自分で交友関係の幅をせばめていただけだったのだろう。
この夏。僕は蝉が、嫌いじゃなくなった。
まあ今でも、突然飛び出してきたり地面を転げまわっていたりすると、ギョっとしてしまうことはあるのだが。
でも、蝉のせいで外に出たくない、と思うことは無くなった。
夏香のおかげだ。
これには僕の家族も驚いていて、特に妹はいまだに信じられないらしく、「お兄ちゃん、どこかで変な薬でも飲まされたんじゃないの?」「蝉の恐怖と闘ってまでして学校に行きたくなるほど可愛い女の子が、バドミントン部にいるんでしょ」なんて、ひどいことを言ってくる。そりゃあ確かに、女子バドミントン部には可愛い子もいっぱいいるけどさ。
そういえばあの後、庭にあるアルベルトの墓が見つかったときもちょっとした騒ぎになったっけ。ガーデニングを趣味にしている母が、お墓の近くの花壇に水くれをしようとして気がついたらしく、夕食の時に話を切り出したのだ。
「ねえ、あの『アルベルトの墓』っていうの、志乃舞が作ったの?」
「へ? 知らないけど。何それ」
「あ、それ僕の……」
ひかえめに、手を挙げた。気まずくはあったが、壊されたりしたらたまったもんじゃないし。
「お兄ちゃんの?!」
志乃舞は顔をしかめる。
「そうだよ……」
願わくば詳しく突っ込まないで欲しい、と思っていたのだが、そういうときに限って根ほり葉ほり質問されてしまうもので。
母と妹の質問攻撃を巧みに交わすことなど、口下手な僕には不可能。結局正直に言わなければならなくなった。
「蝉のお墓だよ……」
「「はあ?」」
二人は声をハモらせる。奴らはよくハモらせるのだ。まったくもってうざったい。
「なんで虎太郎が蝉のお墓を?」
「蝉の名前がアルベルト?」
「だからその……。あれだよ、ベランダで死んでて可哀そうだったから作ってやったんだよ」
「なにそれ」
母さんと志乃舞に、顔を見合わせて笑われてしまった。なにをセンチメンタルになっているんだ、蝉が怖くて毎日引きこもっていたから頭がおかしくなったんじゃないのか、アルベルトというネーミングセンスはどうかと思う、とまあ、散々馬鹿にされた。
それであのお墓が守れるのならそれでいいのだが。
母さんなんか、そのエピソードがいたく気に入ってしまったらしくて、毎日のようにアルベルトの墓の前に庭に咲いていた花をお供えしている。夏香の大事な蝉だったようだから花を供えてもらえるのは嬉しいのだけれど、見るたび微妙な気分になるのは事実だ。
「日馬くん、そろそろモップがけはいいんじゃないかな」
里原くんに声をかけられて我に返る。気がついたらもうモップをかけたところを何度も磨いていたことに気がついた。
「あんまり暑いから頭がボーっとしちゃった?」
里原くんが爽やかに笑っている。
「かもしれない」
僕も笑い返して、モップを戻すために急いで体育倉庫へと走った。
新学期。
教室の中は一カ月ぶりに再開したクラスメイト達の弾みに弾んだ会話で満ち溢れ、すごく賑やかだ。
どうやら新学期早々、席替えを検討しているらしく、その方法についてああでもない、こうでもない、と皆口ぐちに騒いでいる。こういう場合、実際はどんな決め方になろうがどうでもいいのだ。騒げればそれでいいのである。
「おはよう、日馬くん」
席につくと、既に隣の席に座っていた沢藤さんに声をかけられた。
「おはよう」
ふんわりとした、優しい笑顔。相変わらず癒し系だなあ。いつも通り髪をゆったりとひとつに結んでいるが、シュシュが水色のものに変わっていた。まあピンク色のは僕が持って帰ってしまったのだから当たり前なのだが。ごめんね沢藤さん、と心の中で手を合わせる。しかし水色のシュシュも涼しげでとても素敵だ。もうこっそり持ち帰ったりはしないけど。
「席替えするみたいだね」
「そうね。今日で日馬くんと隣同士の席なのも、最後かもね。残念だわ」
そう言って、両手で目を擦るような仕草をしてみせてくれる。別れを悲しんでの泣き真似らしい。
「僕も残念。沢藤さん、どうもお世話になりました」
「いえいえこちらこそ、どうもお世話に……」
そんなほのぼのとした会話をせっかく繰り広げていたというのに、突然うるさいのが現れて雰囲気をぶち壊しにする。
「虎太郎! 蝉嫌いは直ったあ? 直ったら次はコレよコレ!」
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああ」
沢藤さんの絶叫が教室中に響き渡る。サー子があろうことか蛇を片手にやって来たのである。
「おまえ、それはいくらなんでもシャレにならないだろ!」
「うあ、逃げちった!」
サー子の手からスルリと蛇が抜け落ちる。
「でやぁぁあああああああああああ!」
「近寄るな! 近寄るな! 近寄るな!」
「サー子のバカぁぁぁぁぁぁ」
一学期の終業式以上に、教室はパニックに陥った。蛇が得意なやつなんて、そうそういるわけもないのだ。
――ガラガラガラ。
教室の戸が開く。織川先生が顔を出す。
「こらー! あんたたち何騒いでるのよ! 隣の教室はもうホームルーム始まってるんだからきゃああああああああああああああああああああああああああああああああ」
またこのパターンか。つくづく先生もツイていない。
「蛇! 蛇! やだああ! 蛇やだあっ!」
年甲斐もなく甘えたような声を出して先生は後ずさる。しかし蛇のほうは先生に対して威嚇するかのように上半身を起こし、口を大きく開いてシャーっと舌を出し、口を大き、警戒しながら先生に近付いていく。
絶体絶命。
織川先生の顔には、そう書かれていた。
と、先生の後ろにちらりと、人影が見えた。真新しい制服と、ボブカット。豊満な胸と白い手足。
あんな子、うちのクラスに居たっけな?
――むんず。
その白い腕が先生の後ろから伸びて、蛇を捕まえた。手が触れると蛇は一瞬たじろいだが、なぜかすぐに大人しくなり、寧ろ気持ちよさそうにその手の主のほうに擦り寄っていく。
「おお」
「なんだ?」
クラスメイトたちが、その手の主を注視しだす。
手の主は蛇を持ったまま「外に逃がしてきます」と言って去っていった。しばらく呆気にとられていた織川先生は、彼女が去ってからようやく我に返り、教室内へと足を踏み入れる。
「全く……。一学期にあれほど注意したのにみんな忘れたの?」
溜め息をつきながら教壇に上がる。先生。全部サー子のせいです。
「あら、何これ」
先生は黒板を眺める。それはこれから行われる席替えのために用意された席の図で、ひとつの机ごとに数字が割り当ててある。どうやらくじ引きで決めようという話の流れになっているらしく、委員長は既にくじも用意し始めていた。
「ああ、席替えね。まだ全校集会まで時間はあるし、どうせ今教室の中の机、ぐちゃぐちゃみたいだし……。とっとと、やっちゃって?」
そう言って先生はダルそうに椅子に腰を下ろした。教室には歓声が湧き起こり、席替えのためのくじが廊下側の席から順に廻されてゆく。
「せんせー! ここの席の人の分はどうすればいいですかー」
空いている机を指差して、誰かが先生に尋ねる。
「ああ、その席の分は最後に残しておいてくれればいいわ。どうせくじなんでしょ?」
「りょうかいしましたー」
僕は隣の席の沢藤さんに訊ねてみた。
「ねえ、あの席ってなんだっけ?」
「あら、忘れちゃったの? 日馬くん。あの席、一学期ずっとお休みだった子の席だよ」
「ああ」
あの、一学期中ずっと登校してなかった、不登校の人か。
「さっき先生の後ろに誰かいたよね。もしかして、あれがその人だったのかな?」
「そう、かもね。言われてみれば」
沢藤さんは何か納得がいったという風に頷いている。沢藤さんも、あれが誰なのか分からず謎に思っていたのかもしれない。
もう一度、先生の後ろにちらりと見えたシルエットを思い返してみる。
逆光でよく見えなかったのだが、どことなく……。いやいや、そんなわけがない。
やがてくじの順番が廻って来た。えい、と僕が引き当てたのは三十七番。窓側の列の後ろから三番目。沢藤さんは六番で廊下側の席。残念ながら、今度は非常に遠い席になってしまった。
「それじゃあ日馬くん。お元気で」
沢藤さんは名残惜しそうな顔をしながら机を移動させ、去って行った。その後姿はどことなく席の移動を嫌がってうなだれているように見える。廊下側の席ってなんか薄暗い感じがするもんな。外の景色も見えないし。
一方僕は窓際。見晴らしと風の通りはいいけれど……しばらくは強烈な太陽光にじりじり左半身を焼かれることになりそうだ。
「おお、近いな!」
笹井がピカピカの笑顔で机を移動させ、僕の真ん前に机を置いた。うわ暑苦しー。
そして次第に、クラスメイトたちはそれぞれの移動を終え始める。僕の隣の席は例の不登校さんだ。
僕の前の席になった笹井は席に座るとくるりと後ろを振り返り、頬杖をつきながら僕に訊ねる。
「なあ、お前、夏休みに何があったんだ?」
「え? 何が?」
「だって急にバドミントン部に入部するなんて、おかしいじゃないか。春から勧誘されてたのに、ずっと嫌な顔して断ってきただろ? それに蝉が嫌だって言ってたのに、わざわざ夏休みになってから入部するなんてさ。え、どうせバドミントン部に可愛い子がいるとかだろ?」
くいっくいっと、肘鉄砲を食らわしてくる。また体温が上がったような気がした。
「そういうんじゃないけど。まあ、なぜか蝉が嫌いじゃなくなったんだよ。それで部活するのもいいかなーと思ってさ。夏休み、暇で仕方なかったから」
「絶対嘘だな。もしかしてアレか? 彼女が出来たか? そんで、いいとこ見せるために入部したのか?」
「違うって」
――パンパン、と織川先生が手を叩く。
「はい、みんな移動終わった? それじゃ、さっそくホームルームを始めたいと思いますけど、ちょっとその前に」
そう言って、なぜか教室の外に出る。クラスメイトは何事だ? と先生の動きを注視しながら、静かに待つ。
ガラガラ、と教室の扉が開く。
白い足が、ゆっくりと教室に足を踏み入れる。
「…………あ」
そいつの顔を見た瞬間、僕は開いた口が塞がらなくなってしまった。
やっぱり。
やっぱりか。
「はじめまして」
女の子は、ゆっくりと頭を下げる。ボブヘアがさらりと顔を覆い、そしてまた彼女は顔を上げる。
「う……羽野瀬夏香と、いいます。一学期は入院していて学校に来られませんでしたが、無事退院できたので二学期からは学校に通えるようになりました。授業に追いつけるように頑張りますので、よろしくお願いします」
教室中から歓声が上がり、拍手が巻き起こる。夏香は頬を赤く染め、はにかみ笑いした。
「それじゃ、羽野瀬さんはあそこの席だから」
担任が僕の隣の席を指さす。そして夏香は僕を見て。
それまでの控えめそうな表情とは打って変わって、実に嬉しげに、にんまりと笑ったのだった。