第16話 見つけたけれど……。
総合病院五階の、とある個室の前に、僕は立ちつくしていた。
「あった……」
本当に、あった。
病室入り口のネームプレートには『羽野瀬夏香』と書かれている。
この中に、いるのか。
本物の夏香が。
そう思うと、緊張感が高まってくる。
僕と一緒に蝉恐怖症の克服に付き合ってくれていた夏香は、いつもぷるぷると胸をはずませて、とても元気そうにしていた。
でも、病室の中の夏香は、きっと違うだろう。
そんな夏香を見るのが、少し怖くなった。
だが、せっかくここまで来たのだ。
一刻も早く、会いたい。
ドアをノックする。返事はない。
いいのかな……入っても。
ドアノブに手を掛け、ほんの少しためらってから。
僕は扉を開いた。
「な…………」
言葉を、失った。
青白い顔をした夏香の顔には呼吸器が取り付けられ、くたりと横たえられているやせ細った腕には点滴の管が繋がれている。
「夏香」
声をかけても、返事はない。
ただ、深く瞼を落とし、ぴくりとも動かずに、横たわっている。
「夏香……夏香!」
僕は思わず、夏香の元へ駆け寄った。そして小さな手のひらを、ぎゅっと握りしめた。
すると夏香が、わずかに瞼を上げた。
「夏香!」
「あ……れ……コタ?」
小動物みたいにくりくりっとした眼が僕を見上げる。闘病生活ですっかり落ち窪んだ目元が、とても痛々しかった。
「会いに……来て、くれたの?」
うんうん、と無言で激しく首を縦に振った。もう、これ以上言葉を発したら、泣いてしまいそうだったのだ。
「ありがとう。……でも、なんで? わたし、コタに、ひどいこと、したのに」
そう言って夏香は、顔を曇らせた。
喋るだけでも辛いのか、息を弾ませている。
「苦しいんだろ? 無理して喋らなくてもいいんだぞ」
そう声をかけたが、夏香は首を振って、喋り続けた。
「わたし、もう。疲れたの。……わたしみたいなの、この世界から、いなくなったほうがいいもの」
「そんなこと、言うな」
「ふふふ。コタ、ありがと。コタといると、楽しかった。最後にまた、一緒にいられて、よかった」
「最後じゃ、ないだろ?」
「最後。だよ。だってもう、肺が苦しくて息も、できない。体中が重たい。食べ物も、喉を通らない。……コタ、見えない?」
「へ?」
夏香はぼんやりと、部屋の中を見渡した。
「たくさんの悪い霊が、この部屋に、集まってるんだよ。わたしの、マイナスの心に、引き寄せられてる、みたいに」
「そ、そんな……」
部屋を見渡す。僕には霊感なんてないから、わからないけれど、そこに夏香の敵が、確かにいるようにも感じた。
「コタ。わたし、小さいころから、不思議な力を持ってた。神の子だって、褒められたことも、あったけど。大抵、怖がられた。忌み嫌われた。……みんなわたしのこと、不気味がって、誰も友達に、なってくれなかった」
僕はあの村での夏香を、思い出していた。夏香は魔女だお化けだと罵られ、石を投げつけられたことまであったのだ。
「最悪の、人生だった。いじめられては、転校して。病気になって。お父さんと、お母さんにも、心配かけて、ばっかで。……わたしなんか、生きてても、人に迷惑、かけるだけ……けほっけほっ」
息も絶え絶えにか細い声で話しながら咳き込む夏香の姿は、痛々しくて見ていられないくらいだった。
「そんなことない! 全然そんなことないよ、夏香!」
力を込めて僕はそう言った。夏香は力なく笑う。何かを諦めたような顔をして。
「いいの。もう、わかってる。ずっと前から、死にたかった。だからきっと、みんなも、わたしがこの世界とさよならできるように、協力してくれてるの。これは、わたしの気持ちが引き寄せた、結果だから」
「そんなの、嫌だ! 絶対嫌だ!」
「コタ?」
僕は夏香の手を、ぎゅっと握りしめた。ありったけの想いを、こめながら。
「夏香、これからもずっと、一緒にいたいんだ。だから、この世界とさよならしたいなんて、言わないでくれ! 悪い霊なんか全部、払いのけてやるから! また、元気な夏香に戻ってくれよ。お願いだ」
「わたしと、ずっと、一緒にいたい?」
信じられないという顔で、夏香が尋ねてくる。
「わたしのこと、怖く、ないの?」
「お前の力のことは、僕だって、わけわかんないよ。でも、そんなの関係ないんだ。とにかく僕は……僕は、夏香のことが好きだから、だから一緒にいたいんだ! お前みたいに、ずうずうしくて、子供っぽくて、不器用で……楽しくて、優しくて、まっすぐで、可愛いやつ、他にいないんだよ! だから絶対、死にたいなんて思っちゃ駄目だ! そんなの、許さないからな、絶対に! お前はもっと、笑って、生きてなきゃ、駄目だ!」
夏香は僕の顔をじっと見つめる。
「コタ……。でも、生きて行くのは怖いよ。不安だよ」
「当たり前だよ。誰だってそうだ。でも、夏香は夏香のペースで生きればいいし、僕はそれをずっと一緒に応援していくから。一人なら不安でも、二人なら少しはそうじゃなくなるだろ? それに夏香には心配してくれる両親もいるじゃないか。そうだ。たけちゃんって覚えてるか? お前に謝っておいてくれって言ってたぞ。元気になるように祈ってるって。だから、な。もっとこの世界で生きてみたいって、そう思ってくれよ、夏香」
「コタ……」
声を詰まらせながら、夏香は言った。
「コタの蝉恐怖症より、わたしの恐怖症のほうが酷いかもよ? 生きること自体が、怖いんだもん。それでも、そんなわたしと、これからも一緒にいてくれる?」
「一緒にいる。ずっと、一緒にいるよ。そんでいっぱい、楽しいことも教えてやる。大体お前は気づいてないのかもしれないけど、お前には人生を楽しむ素質が人一倍あると思うぞ。だからここでさよならなんて、もったいなさすぎるんだ」
「誰かに、そんなこと、言って欲しかったのかもしれない」
ぎゅっと夏香が、僕の手を握り返してきた。
「なんだかこうしてたら、生きる勇気が湧いてきた。段々体も、軽くなっていくみたい。ねえ、コタ。しばらく、手、握っててくれる?」
「ああ、いつまででも、握っててやるよ」
「ありがと。ねえ、コタ」
「うん?」
「わたしも、コタのことが好き」
「お、おうっ」
しばらくすると夏香は、安心したようにスヤスヤと眠り始めた。その寝顔はとても穏やかな様子に見えたけれど、僕は彼女がそのまま死んでしまうんじゃないかと不安を覚えた。
悪い霊だか何だか知らないけど、夏香をあの世へ連れて行かないでくれ!
力を込めて、夏香の手をぎゅっと握りしめる。
僕の想いで、夏香をこの世に繋ぎ止められたらいいのにと願いながら。
翌日、再び病室を訪れると、既に夏香の姿は無かった。病室の入り口に取り付けられていたネームプレートも外され、真新しいシーツに交換されたベッドが一つだけ、ぽつんと取り残されているだけだった。