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第14話 もう一度君に会いたくて。

「ふんふふ~ん」

 

 母さんが鼻歌を歌いながら、ゴキゲンで車を運転している。くねりにくねった山道をこなれた様子ですいすい登ってゆくのだが、カーブのたびに強い遠心力がかかり、それをグっと堪えるたびに胃から何かがこみ上げそうになる。


「気持ちわりぃ……」

「ああ、あんた車酔いしやすい性質だったっけ?」

「うん……。もう直ったかと思ってたけど、さすがに山道だときついな」

 

 そういえば子供のころにおばあちゃんの家に行くときも、いつも車酔いで具合が悪くなってゲーゲー吐いていたんだったっけ。すっかり忘れていた。

 

「我慢しなさいよ、もう少しで着くんだから」

「もう少しって、どのくらい?」

 

 遠い昔、全く同じ言葉を口にしたことがあるような気がする。


「あと三十分くらいでしょ」

「……」

 

 そしてこの絶望感。

 僕は口元を押さえながら、意識をなるべく現実からそらすよう努めた。


 見覚えのある光景が、広がり始める。小学三年生の夏休み以来の、おばあちゃんの住む村。もはや文化遺産かと思うほどに古びていて、しかし実はひっそりと生きている商店街と、村唯一のこじんまりとした郵便局。天然水のCMでも撮影できそうなほどに美しい清流と、それにかかる赤い橋。ブロック塀に設置されている昭和レトロなホーロー看板。


 表通りから離れること数分、車一台がギリギリ通れる程度の砂利道へと入る。対向車が来たらどうするのかと思うくらいに狭い道幅だ。


「ここもコンクリートで舗装すればいいのにねぇ」

 

 そんなことを呟きながら、母さんは恐れることなくその狭い道をぐいぐい飛ばして進んでいく。事故りませんように、と僕は心の中で手を合わせた。


「ほら、あそこがおばあちゃんち。覚えてる?」

 

 そう言って母さんは、遠くに姿を現した一軒の家を指さす。庭の入口近くに植えられている柿の木、つつじの垣根、黒というよりは銀色に近いような色で光を反射する屋根瓦。


「ああ」

 

 思わず、そう声を漏らす。変わってないな。本当に。

 

 その家の前で、わざわざおばあちゃんは表に出て僕たちを待ってくれている。それを見ると、いくらトラウマのせいとはいえ、今まで長年にわたり遊びに来てあげられなかったことを申し訳なく思った。

 

 車を庭に止め、外に出る。思ったより蝉の鳴き声はしない。町にいても山の中にいても、さほど蝉の量は変わらないのだろうか? むしろ街中の公園なんかのほうが蝉の密度が異常に高くて怖いような気がする。


「よく来たね、虎太郎」

 

 おばあちゃんは嬉しげに、顔をくしゃっとして笑った。数ヶ月前に家に来ていたときに会った時のおばあちゃんとは、どことなく印象が違う。田舎にいるおばあちゃんは、どこか穏やかで気を抜いているように見えた。


「さあ、早くおあがんなさい。お昼はまだでしょ? うどん茹でてあるから」

「ありがと、お母さん」

 

 ふふふ、と母さんが笑った。母さんも、家にいるときとはどことなく違って、子供に戻っているようだった。

 

 数年ぶりに、おばあちゃんちの玄関に上がる。玄関と言っても、ちょっと靴を出しっぱなしにしておくとたちまち足の踏み場が無くなってしまうような、うちの玄関とは全然違う。農機具を端に置いてあるというのに、残りのスペースが簡単な子供の遊び場になりそうなくらいに広々とした空間。確か土間と言うのだったっけ。ああ、こんな風だったよな、と懐かしく思った。

 

 靴を脱いで上がると、母さんの後に続き、僕は掘りごたつの部屋に向かった。テレビだけは薄型の最近の液晶テレビになっているけれど、古いレコードプレーヤーとアンプは昔のまま部屋に残されている。カセットデッキもあるし、昔母さんが読んでいたらしい古い少女漫画もそのまま本棚に残っている。


「はい、長旅お疲れ様」

 

 そう言っておばあちゃんは、お茶を入れてくれた。そして次々に、食べきれないほどのお昼ご飯を運び込んで来た。


「うぷ、もう食べれない……」

 

 逆流しそうなうどんを、なんとか身体の奥へ奥へ沈めるように努めながら、僕はゆっくりと横になった。


「こら、虎太郎。食べてすぐ横になると、牛になるわよ」

 

 違うよ母さん。食べてすぐ横になると、逆流性食道炎になるんだよ。なんて突っ込みを口にすることさえ出来ずに、俺は畳に伏せた。


「梨もあるから食べなさい、二人とも」

 そう言いながら、おばあちゃんは果物ナイフで梨の皮を剥き始めた。

「もう、いいからいいから」

 さすがの母さんも苦笑いしながらおばあちゃんを止めにかかった。

「あらそう?」

 残念そうなおばあちゃん。

「まったく、虎太郎が来たからって張り切っちゃうんだから……」

 母さんは溜め息をついた。

 

 クーラーもついていないのに、山の中だけあっておばあちゃんの家は涼しい。網戸にしておくだけで心地よく過ごせるというのは素晴らしいことだ。ほんのりと香ってくる蚊取り線香の匂いも、なかなか夏らしい風情を醸し出していて素敵である。


「あ、そうだ」

 

 畳に手を付いて、よいしょっと身を起こし、僕はおばあちゃんに訊ねた。


「あのさ、昔僕がここに来た時、一緒に遊んだ子たちがいたと思うんだけど」

「ああ、たけちゃんたちね。たけちゃんは今、浪人生してるわよ」

「え、浪人?」


 子供のころのイメージしかないので、浪人生、なんて聞いてもしっくりこない。


「そんな年だっけ?」

「たけちゃん、あんたより三つ上だったからねえ。あの時遊んでた子たちのなかで一番年上だったんじゃないかしら」


 そうか、それで面倒見が良かったのか。まあそれは元々の性格なのかもしれないけれど。


「毎日車で一時間半もかけて、予備校に通ってるらしいわ。医学部を目指してるんだって」

「へえ」

 

 医学部。ほんの少ししか顔を合わせたことのない僕が言うのも難だけど、思わず「あのたけちゃんが?」なんて言いたくなってしまうくらい、柄にもない感じだ。


「あきこちゃんは隣町の高校に通ってるし、坂井さんちの息子さんは全寮制の私立中学に行っちゃったし、残ってるのはたけちゃんと、北村さんとこの息子さんと春菜ちゃんくらいかしらねぇ。若い子はどんどん外に出ちゃうから」

 

 もうそこまで言われると、誰が誰のことだは僕には分からなかった。大体、たけちゃん以外の人の顔は、おぼろげにしか覚えていないくらいだし。それだって最近夢に出て来たからたまたま思い出したという感じなのだ。

 

 だが、おかしいなと僕は思った。奴の名前が、出てこないではないか。


「あの……さ」

 

 少し間を置いてから、僕は切り出した。


「夏香ちゃんっていう子が、いたと思うんだけど」

「ああ。夏香ちゃんね」

 

 おばあちゃんは両手を打って、思い出したという様子で何度も頷いた。


「あの子は、可哀そうだったわねえ……」

 おばあちゃんは眉をひそめる。僕はその暗い表情にドキリとした。


「え? それは、どういう……」

 やっぱり、ずっと苛められていたんだろうか。

 

 しかしおばあちゃんの口から出た言葉は、僕の予想とは全く違ったものだった。


「あの子ねえ、丁度虎太郎が帰ったすぐ後くらいから重い病気にかかっちゃって、学校にも行けないようになっちゃったのよ。なんでも原因不明の難病だとかで」

 

「えええ?」

 

 難病? 苛められていたから学校に行きたくなくなったとかではなくて?


「それで、もっと大きい病院にかかってみたほうがいいだろうっていうことになって、家族そろって引っ越しちゃったのよ。まあ、元々あのお宅はお父さんが村の高校の先生として転勤してきていただけで、この辺の人だったわけではなかったんだけどね。でも、今頃どうしているのかしらねぇ。病気、治ったのかしらねぇ」

 

「そんな……」

 

 うそだろ、あいつが病気だなんて。

 

 その後もおばあちゃんに詳しく話を聞こうとしたが、結局それ以上の情報は得られなかった。しかし病気で相当体調を崩していたのは事実だったようで、引っ越す直前におばあちゃんが見かけた夏香は、青白い顔色をしてマスクをかけ、腕には痛々しいほど点滴の針を刺した跡が残っていたのという。一人では歩けず、母親に抱きかかえられるようにしていたそうだ。

 

 夏香の父親の同僚づてに、その後夏香が大きい病院を転々としているらしいことは聞いたらしいが、結局どうなったのかは分からないという。

 

 まさか病気だとは思っていなかった上、既に引っ越しているとは考えてもみなかった僕は、すっかり途方にくれてしまった。

 

 じゃあ、夏香にもう一度会うためには、一体どうすればいいんだ。


 落胆しながら僕は、あてどもなく村の中を散歩して歩いていた。気分が落ち込んだのでそのまま家の中で世間話を続ける気にもなれず、「懐かしいからちょっと散歩してくる」と言っておばあちゃんの家を出て来たのだった。


「病気だったのかよ……」

 

 少なくとも蝉の様子を見る限り、そんな様子はなかった。無邪気で、健康的で、発育も良かった。特に胸部の発育には目を見張るものがあった。けふんけふん。

 

 しかし、あちこちの大病院を転々としている、というのが最後の情報ということになると、探しようも無いではないか。仲間はずれにされていたくらいだから、いまだに交流のある友達、なんてのもこの村の子の中にはいないだろうからな。


「はぁ」

 

 溜め息をついて、僕は足元に転がる石を蹴飛ばした。それにしてもこの村、さっきから歩いていても誰も通らない。結構な過疎化の進み具合である。

 石は、また僕の進行方向の程よい位置でぴたりと動きを止める。もう一回、もう一回。いつのまにか無心で、石転がしに興じる。

 

 そうしてしばらく歩いていたら、どこか見覚えのある道に出た。


「あれ」

 なんだっけな、ここ。でも、すごく覚えがあるぞ。

 でも、どこなのかが思い出せない。

「けど、確か……」

 この道を、こっちのほうへ歩いていったことがあったはずだ。僕はそっちのほうへ、石を蹴ってみた。石はころころとそちらへ転がる。そして僕も、なんとなしにそちらのほうへ歩みを進めてゆくのだった。


 この道の先に何かがあるような気がしてならない。その感覚は、次第に深まってゆき、確信へと変わっていった。

 

 この道を昔、僕は歩いたことがある。そして、どこかに向かおうとしていたんだ。

 それは、どこだったか。

 

 僕はポケットの中から丸くて小さな缶を取り出し、ふたを開ける。その中にはあの蝉の抜け殻が入っている。


「夏香……」

 

 きっと、夏香との思い出だったんだ。そんな気がする。今となっては思い出を辿ることくらいしか、僕には出来ない。

 

 道幅は次第に狭くなり、やがて道なき道のようになってしまった。舗装されていないのは当然のこととして、もはや「たまに人が通るので辛うじて道です」という程度に、藪の中に地面が露出している個所があり、そこを辿っている、という風である。

 周囲は草が生え放題なので足にチクチク当たって痛いくらいだし、木々に囲まれているので当然、蝉もいる。

 

 みーんみんみんみんうえああああ。

 

 夏香の蝉の鳴き真似を思い出して、僕は思わず吹き出し笑いした。


「しっかし、いつ通ったんだっけ」

 

 この山道にも僕は、覚えがある。はっきりとは分からないし、そもそもこんな草ぼうぼうの道なら、どの草ぼうぼうの道を歩こうが区別なんかつかない気もするけれど。

 

 そうして、しばらく歩いていく。日は傾き始めている。そろそろ五時頃だろうか。もう少し歩いたら、引き返したほうがいいのかもしれない。

 と。

 

 道の先に四角い石のようなものが見えて、僕は立ち止った。

 あれは。


 幼いころから繰り返し見て来た夢の、あの場所じゃないか。

 

 ――僕が蝉を嫌いになった場所。

 

 ごくり、と唾を飲む。

 おびただしいほどの蝉が身体中に貼りついた、記憶。

 足がすくむ。

 でも。


「ここで乗り越えないと、いけないよな」

 

 だって夏香は僕が蝉嫌いを克服することを望んでいたのだから。

 もしかしたら、あれからずっと、そのことを気にしてくれていたのかもしれない。だからあんな幽霊みたいな形で僕の前に姿を現して。


「幽霊……」

 

 あまり、考えたくないな。

 とにかく、行こう。

 歩みを進める。


「ああ……」

 

 近づくにつれて、思い出がより鮮明に蘇る。そうだ、ここの石の上に、僕と夏香が座ってたんだ。それで、夏香が目を瞑ってと言ったんだ。

 

 丁度その場所に腰掛けてみる。あのときの気持ちが、蘇る。

 

 真夜中だったから、心細かった。でも、好きだった夏香に誘われたのが、嬉しかったんだ。プレゼント、なにが貰えるんだろう、とドキドキしていた。夏香の不思議な力のこともあって、だいぶ期待していた。

 

 そして目を開けて。

 

 今の僕の前には、何もなかった。蝉もいないし、夏香もいない。

 

 さっきポケットから取り出してから、ずっと手に握りしめたままだった蝉の抜け殻の入った缶の蓋を開き、抜け殻を取り出す。いつまた夏香が現れてもいいように、肌身離さず持ち歩くことに決めたのだ。

 

 あの日、ものすごく怖かったのは確かだ。

 

 だけど、あんな反応を見せたまま、なんの弁解も出来ずにこの場所を去ってしまったことを、今は後悔している。

 

 きっと夏香、大勢の蝉に声をかけて、あの晩、あの場所に集まってもらったんだろうなあ。

 

 よくよく思い出してみると、あれは確か、僕が家に帰る前日の晩の事だったと思う。その日の昼間、二人で蝉を捕まえようと網を片手に山の中を歩き回ったけれど、なかなか蝉が捕まえられなかった。そしてついに一匹も捕まらないまま、夕方になってしまって。

 

 帰り際に、夏香が言ったのだ。夜中の十二時に、こっそり家を抜け出してきてねって。

 

 好きな子から夜中にこっそり遊ぼうと誘われた僕は、それはそれは舞い上がったものだった。

 

 夏香は、蝉を一匹も捕まえられなかったことを申し訳なく思ったのかもしれない。


 まあ今思うと、蝉の気持ちが分かる夏香は蝉を捕まえることを可哀そうだと思っていただろうから、そのせいもあって一匹も捕まらなかったのだろうけれど。でも僕は、本当は蝉なんかどっちだって良かったのだ。とにかく夏香と一緒に遊べることに、価値があったのだから。


 ――そして夏香は僕に、たくさんの蝉を見せてくれようとしていたんだ。あの夜に。

 それが夏香から僕への、プレゼントだった。


「だけどいくらなんでも度を越えてるだろ……」


 僕は思わず独り言を呟いて苦笑した。



 そしてもう一つの記憶が、蘇り始めていた。それはあの、イチゴゴムの記憶だ。

 

 夏香は、河原で村の子供たちに石を投げられた日に、イチゴゴムを失くしてしまっっていた。あちこち探したけれど、結局見つからずじまい。きっと川に入ったときにとれてしまって、そのまま流されたのに違いないといって、ポロポロ涙をこぼしていた。あのゴムは夏香のお気に入りだったらしく、悲しむ彼女を見て、僕も悲しくなった。

 

 そしてその日の夕方も、翌日の夕方も、僕は彼女と別れた後にあの河原へ行って、暗くなるまでずっとイチゴゴムを探していた。何度も諦めかけたけれど、きっとどこかにあるはずだと思って、必死に探した。すると、イチゴゴムは意外なところで僕に姿を見せてくれた。

 

 彼女と川を泳いで村の子たちから逃げた後、僕らは赤い橋の下にある、コンクリートでできた橋脚の土台に腰を降ろし、しばらく一緒に休んでいた。その時、きっと夏香は髪を結びなおそうと思ったのだろう。ゴムを土台の上に置いて、そのまま忘れてしまっていたのだ。

 

 そしてそこからまた川遊びをしながら場所を移動していって、夕方になる頃、ようやくゴムが無くなっていることに気がついた。だから、その時遊んでいた周辺の河原を探しても見つからないのは当然のことだったのだ。

 

 イチゴゴムを見つけた僕は歓喜した。そして、明日夏香にこれを渡してあげよう、と思っていたのだけれど、次第にそうするのが勿体なく思えてきてしまった。だって好きな女の子のものなのだ。僕がとっておけば、いつでも眺めることが出来て夢のようじゃないか。

 

 頭の中で天使と悪魔を戦わせながら、翌日、また僕は夏香と遊んだ。その日が夏香と遊べる最後の日だった。返そうか、返すまいか。ポケットにしのばせたイチゴゴムを時々確認しながら、僕はずっと迷っていた。

 

 そして、夕方になって夏香と別れる時間になっても、結局渡せずにいた。

 

 しかし、その日の深夜に待ち合わせをしょうと、僕は夏香に誘ってもらえた。だから僕は、夜に会う時に絶対に返してあげようと心に決め、ポケットにしのばせていった。

 けれど、結局夜はそんなことを言い出す前に蝉事件がおこり、僕は夏香の元から逃げ出してしまって……。

 

 そっか。じゃあ僕は、まだあのヘアゴムを夏香に返せていなかったんだな。

 

 しばらく、そうして回想しているうちに、日が暮れ始めた。そろそろ帰らないと、おばあちゃんや母さんに心配をかけるかもしれない。


「夕ご飯の準備も、してくれてるだろうからなあ」

 

 でもどうしてか、そこを離れる気になかなかなれなかった。

 掌の中の、蝉の抜け殻を見つめる。

 僕にも不思議な力が、あったら良かったのにな。向こうだけ行き来自由って、あんまりじゃないか。


「はあ」

 

 俺は、祈るように両手で蝉の抜け殻を包みこんで、独り言を呟いてみた。


「お願いだから、もう一度、夏香に会わせてください」

 

 そうして、しばし目を瞑る。目を開けて、夏香がいたら最高なんだけどな。

 ちょっとだけ期待しながら、ゆっくりと瞼を開く。


「…………え」

 

 白い靄が、僕の手の中から漂い始めている。


「うそ……」

 

 いつもより、靄が大きくなるのには、随分と時間がかかっていた。まるで一粒一粒の粒子が力を振り絞っているかのようにわなわなと震えながら、ゆっくりと数を増やしてゆく。


「頑張れ! 頑張れ夏香!」

 

 そっと手を丸めて抜け殻を風から守りながら、僕は靄に向かって念を込めた。

 

 どうかもう一度、夏香に会えますように。

 

 するとまた少し、靄が大きくなった。まだ人間ほどの大きさになるには時間がかかりそうだけれど、うっすらと丸みを帯びたシルエットを生みだし始めている。

良かった。そう、思った時だった。

 

 白い靄が、形を崩し始めた。あれだけ頑張っていた靄たちがみるみる消えて、粒たちが散り散りになっていく。


「あ……ちょ、なんで……」

 

 気持ち、伝わったんだよな?

 一緒にいたいって、気持ち。

 なんで、消えちゃうんだよ。

 なんで……。


「夏香……」

 

 霧のようになった粒子たちは、いつものように蝉の抜け殻の中に吸い込まれていく。そして抜け殻は、霧の圧力に徐々に耐えきれなくなって、バリっと音をたてて壊れ始めた。


「うああっ」

 

 慌てて僕はどうにかしようと思うけれど、どうにも出来るわけがない。ただただ、掌の中の抜け殻がバリバリ割れてゆくのを見ているしかない。


「やめろおぉぉ」

 

 やがて抜け殻は、ただの粉みたいになってしまった。べっ甲色をしたその粉は、真夏の生ぬるい風に吹かれてサラサラと、僕の掌から空へと舞い上がってゆく。


「そんな……」

 

 もう、僕の掌の中には、何も残っていない。

 

 ――ジジッ。ジジジッ。

 

 木の上から、僕の足元へ一匹の蝉が、転がり落ちてきた。抜け殻が粉々になってしまったことにショックを受けてその場から動けずにいた僕は、なんとなしに、その蝉を眺め続けていた。

 そしてその蝉は、しばらくのたうちまわった後、僕の靴にコツンとぶつかり、ついにはピクリとも動かなくなった。



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