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第10話 本当の、名前。


 帰り道は別のルートから帰ろう、ということになり、市街地を通ってやや遠回りをして帰宅することになった。だがもはや、僕に気負いは無い。ゼロだと言えば嘘になるが。


「いやー良かった良かった。これでコタも蝉マスターだね」

「別にマスターはしてないけどな」

 

 慣れては、きたかもしれない。

 誰かと一緒に出かける。たったそれだけで症状がマシになるとは思いませんでした。

 まあ、自分が直そうという気になったというところも結構ポイントだったのかもしれないが。

 

 今や、カラスにくらべれは蝉は怖くないかも、と思えるレベルになってきている。ほんの数日前までの僕だったら考えられないことだ。

 

 市街地を自転車で走り抜ける。様々な飲食店が目を引く。学校に通う際にも通る、メイン通りである。


「色んなお店あるから迷っちゃうねえ」

 

 舌舐めずりをしながら蝉は飲食店の看板に目を泳がせる。


「何言ってんだ? どこにも寄らずに帰るからな」

 

 そう毎日毎日、蝉に奢ってやるわけにはいかない。僕の財政状況的に。まあ、今のところゴリゴリ君しか奢ってないけどさ。

 

 しかしこの通りには、本当に何でもそろっている。本屋、レンタルビデオ屋、中華料理屋、回転寿司屋、図書館、警察……大きな総合病院も、ある。


「わたし杏仁豆腐でもいいよ?」

「いや、全然訊いてないから」

 

 蝉には一切構わず、ペダルを漕ぎ続ける。

 と、肩にぽつり、と水滴が落ちてきた。


「あれ」

 

 路面にも、ぽつり、ぽつりと水玉模様が出来始めいている。


「まじかよ」

 

 雨だ。夜から雨という予報だったので油断していたが、不運なことにもう降り始めてしまったらしい。遠回りして失敗したなあ。


「おい蝉、雨降ってきたから近道で帰るけど、いいよな」

「うん、そうしよ」

 

 僕はメインストリートから脇道へ入り、のどかな田んぼ道へと自転車を走らせる。 ここをしばらく走れば住宅街になり、僕の家がある通りに出ることが出来る。


「まあ五分もあれば着くか……」

 

 どうかそれまで、土砂降りになりませんように。そう祈りながら僕は田んぼ道を抜けて、住宅と竹藪との境目の細い道を走ってゆく。普段は蝉が出るので絶対に通らない道なのだが、蝉克服の特訓とさらなるショートカットをかねて、無意識のうちにチャレンジしていた。

 

 ジジッジジッツ。

 

 雨のせいか蝉の鳴き声は普段より聞こえてこないが、一匹飛びまわっているやつがいるらしい。生々しく鳴き声が耳に届く。恐怖心が再び湧きおこりそうになるのを、なんとか堪えようとする。

 だが、アレはそんな僕の気持ちなど、知る由も無い。

 

 ――ジジ、ジジジ、ペチッ!


「ひぃあっ!」

 

 甲高い叫び声をあげて、僕は急ブレーキをかける。全身に走る、寒気。今、何がおこったのか、考えたくも無い。だが、感覚は残っている。

 僕の、おでこに、蝉が、当たったのだ。

 そんなに勢いよく当たったわけではない。向こうもヨロヨロ飛んでいたし、こっちも向こうが近づくと分かった時点から、無意識のうちにスピードを緩めていた。だから衝撃はそれほどでもなかった、が。


「うぇぇ……」

 

 やっぱり、駄目だ。身体は強張ったまま、動くことができない。


「大丈夫? コタ」

 

 心配そうに蝉が僕に声をかけ、後ろの荷台から降りた。そして、僕の足元に転がっているアレを、発見した。


「ひい」

 

 僕はそれを確認するや否や、足をスっと引っ込める。それは弱りきった、末期の蝉の姿だった。再びジジジと飛び立とうとするが、雨に濡れているせいなのか、元々寿命がきていただけなのか、うまく飛び立つことが出来ない。ビジジと言っては辞め、ビジジと言っては辞めを繰り返し……。やがて、動かなくなった。


「アルベルト?」

 

 そう言って蝉は、その動かなくなった蝉を手に取った。


「や、やめとけよ……」

 

 思わずそう言って顔をしかめる。だって、ねえ、蝉を、手に取るだなんて。考えただけでも、気持ちが悪い。

 

 だが、蝉はやめなかった。蝉を包み込むように、優しく手にとって。掌の中でぴくぴくしているそいつを心配そうな顔で眺めてから、目を閉じた。


「お、おい」

 

 雨が、本降りになってきた。早いところ家に帰らないと、ずぶ濡れだ。


「駄目だよアルベルト。そんなの嫌だよ」

 

 蝉は独り言を、ブツブツ呟いている。どことなく、只ならぬ空気であることが伝わってきて、僕は彼女に声をかけられなくなってしまった。


「待ってよ。だって、まだ……」

 

 そう言って彼女は、目から涙を流した。


「まだ、死んだら駄目だよ……。これから、いい報告、出来そうだったのに……」

 

 彼女の喉から、嗚咽が漏れる。肩を震わせ、呼吸を荒げて、彼女は本気で泣いている。

 

 ――なあ、これはどういうことなんだ。

 僕は自分の脳味噌に問いかける。

 

 僕はそもそも、自分が彼女を蝉だと思っているのかどうかすら、よく分からなかった。ただ、彼女という存在がいて、共に時間を過ごす中で、大切な存在になりつつあるのかもしれないこと。それくらいしか分からないし、考えてなかった。

 

 でも、思うのだ。ただの人間の女の子が、死にそうな蝉を拾って涙を流すだろうか? その上まるで蝉と会話でもしているかのように、独り言を呟きながら。

 僕は彼女との間に、壁を感じざるを得なかった。

 

 彼女は、本当に人間じゃないのか。本当に、蝉なのか。

 彼女は一体何者なんだ?

 急に不安になってきた。


「ううっ。ううっ」

 

 鼻を啜り、俯いている彼女の顔を見るのが怖くて、僕は動けずにいた。


「アルベルト、アルベルト……」

 

 掌の中の蝉は、反応するようにかすかに足を動かして見せる。


「いやだよ、駄目だよ」

 蝉は、動かない。

「わたしを、置いていかないでよ……」

 やっぱり、蝉は、動かない。

 そしてそれから長いこと、僕と蝉はその場所で、雨に打たれ続けていた。もう完全に動かなくなってしまった蝉を手の上に乗せたまま、彼女はわんわん号泣し、次第に力を失って、水たまりの出来ている地面にへたり込んでしまった。

 

 彼女が蝉なのか人間なのか、未だ僕には分からない。でも、僕の大事な女の子が、今ひどく悲しんでいることは、事実なんだ。

 

 雨に打たれながらいくら考えても、それしか答えが浮かばない。

 

 だから、僕は静かに自転車を止め直し、その場にへたり込んでいる彼女の肩を、後ろからそっと抱きしめた。


 それから僕たちは、うちの庭にそのアルベルトという蝉のお墓を作った。雨の降る中、傘をさして、スコップで庭の隅に穴を掘る。そしてその中に花を敷き詰め、そっと蝉を横たえた。


「お別れは、もう済んだか?」

「う……。うっ、うっ」

 

 泣きながら蝉は頷いた。


「じゃあ、土をかけるぞ」

 

 僕はなるべく優しく、アルベルトの上に土を乗せていった。それでも蝉は、アルベルトの姿が見えなくなると顔を手で覆って、再びむせび泣き始めた。

 

 やがて土をかけ終わり、盛り土も出来たところで、あらかじめ持って来ておいた割り箸とマジックペンを、蝉に手渡した。


「お前が、書いてやれ」

「うん……」

 

 鼻をすすりながら、蝉は割り箸に『アルベルトの墓』と書いた。そしてそれを、盛り土の丁度まん中あたりに刺して、手で土を押しながら固定した。


「これで、完成だな」

「うん」

 

 蝉は、お墓の前で手を合わせ、だいぶ長いこと祈りをささげていた。


「知り合い……だったのか? その、蝉は」

 

 なんと言っていいのか分からなかったが、僕はそう訊ねてみた。


「うん。とってもいい蝉だったよ。わたしの話を聞いてくれたり、わたしの為に危険を冒してくれた、ほんとに、いい蝉だったよ」

 

 蝉の瞼は赤くはれていた。


「そうか、それは、残念だったな。惜しい蝉を亡くして……」

「でも、亡くしはしたけど、無くしはしてないよ」

 

 そう言って蝉は微笑んだ。


「どうせまた、すぐ会えるもの。ちょっとの間、お別れするだけ、なのよ」

「そ、そうか?」

 

 たった今まで悲しんでいたのに、意外と立ち直りが早いことに驚いた。


「そう。だから、もう泣くのはやめとく。アルベルトに笑われそうだし。コタ、お墓作ってくれて、本当にありがとう」

 

 蝉はめずらしく畏まって、僕に頭を下げてきた。

 

 僕は蝉との距離がまた開いてしまったような気がして、焦りを覚えた。


「……なあ、あの蝉にも名前があったんだから、お前にも名前があるんだろう? 最初の日に『わたしは蝉だ』って聞いてから、ずっと蝉蝉って呼んでたけどさ。お前の名前って、何なんだよ」

 

「ああ、わたしの名前、ね。知りたい? コタ」

 

 嬉しそうに蝉は、僕の顔を覗きこんだ。こういう顔をするとき、蝉は本当に可愛い。

「そりゃ、一応な」

 

 照れ交じりに、答える。


「じゃあ、特別に教えてあげるよ」

 

 そう言って蝉はにっこり笑う。どうしよう、もし変な名前でイメージと違ってたら。なんていらぬ心配をしながら、僕はごくり、と喉を鳴らした。


「わたしの名前は、夏香なつか、だよ」

 

「…………」

 

 それはどこか、聞き覚えのある名前だった。



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