第1話 僕、玄関を出る。
――午前七時四十五分。
僕はここのところ毎朝そうしているように、玄関で靴を履くとその場で足を組んで座り込み、玄関ドアの小窓から差し込む夏の強烈な日差しで自らの頭頂部を温める作業を開始する。
暑い。とても暑い。
我が家の狭苦しい玄関には熱が籠り易く、独特のムッとした熱気とほのかに柔道部を思わせるような臭いの立ちこめる中、あっという間に制服のワイシャツは汗でべっとりと皮膚に貼りつき始める。
しかしまだ、足りない。暑くてここにいるのが死ぬほど嫌になるまで、僕はいつだってこの場所から動き出すことが出来ないのだ。
とはいえ、この作業中、僕の身体は非常に暇である。
そんなわけで今日も、俯いてじっと、床の木目を観察。
木目は三つ見つけたら顔になる。これと、あれと、あれで。目、目、口。あ、あっちにも。目、目、口。目、目、口。
およそ十五分間、僕はこの作業に徹する。そういう計算で、家を出るべき時刻の十五分前に僕は玄関に腰を下ろすようにしている。
学校までは自転車で約二十五分。立ちこぎで最大限に飛ばしたとしても途中に信号が多かったりする都合上、やはりどうしても二十分近くはかかってしまう。
朝のホームルーム開始は八時三十分。自転車を駐輪所に止めてそこから教室まで急いでも五分ほどかかる。そんなわけで、遅刻を避けるためには八時までに家を出たいところである。
嘘か誠か分からないが、噂によれば僕の通う高校では一学期中に四回無断遅刻をすると、保護者当てに学校から手紙が送られるのだという。お宅の息子さんは遅刻が多いですよという、ただその事実を知らせるための手紙。
もちろんそんなものを送りつけられるわけにはいかない。
僕は夏が嫌いだ。
いつからなのかはよく覚えていない……。ただ、まだ幼かった頃は別にそんなことを思っていなかったような気がする。おそらく小学三・四年生くらいの頃から、僕はものすごく夏が嫌いになった。
どのくらい嫌いなのかというと、既に五月ごろから、ああ、あと数十日したら七月か、嫌だなあと思い始めるくらいに、嫌いだ。夏がまた来るだなんて、信じられない! とすら考える。
よく温暖化が進んでいるだの氷河期がもうすぐ来るだのとテレビかなんかで特集が組まれることがあるが、もちろんどちらも来られては困るのだけれど、でももしどちらかを選べと言われたら、僕は氷河期に来てほしい。氷河期が来たら、きっと夏なんて無くなってしまうに違いないから。
そして六月に入ったら、とりあえず僕は一端堪忍する。人間、諦めが肝心だ。じたばたしたって仕方が無い。
親父の仕事に転勤は無いので、「蝉のいなさそうな北欧に急遽移住が決まったぞぉおおおおよっしゃああああ」なんてハチャメチャな妄想を楽しむことは不可能。僕は今年も日本列島の真ん中辺りで、ごく一般的な日本の夏を迎えようとしているんだ。そのことを、全身の細胞に必死に叩きこもうとする。しかし全身の細胞は、こぞってそれに拒否感を示す。
七月に入る……。だが僕は、まだだ、まだだと自分をいさめる。もし恐怖心を抱いてしまったなら、そこから十月頃まで、ずっと僕は怯え続けて生活しなければならなくなる。それだけは避けたいから、なんとか堪える。
まだだ。まだ、聴こえていない。まだ、視界に入ってはいない。もしそんな音が耳に届いているとしたら、それはすべて幻聴なのだ。七月といったって、まだ梅雨も明けていないじゃないか。
大抵毎年、七月中旬を迎える頃までは何とか、見なかったふり、聴こえなかったふりをすることができる。そして「もしかして、僕大丈夫になったんじゃね?」と、1グラム程度の希望を胸に抱いてしまったりもする。
そしてその希望は、毎年梅雨明けと共にに打ち砕かれる。
五日前、ついに今年も梅雨が明けてしまった。
梅雨こそが、僕に残された唯一の心の砦だったというのに。
それからというもの毎朝、学校への登校は苦行以外の何者でもなくなった。いや、それまでだってかなり警戒はしていた。登校中の各ポイントポイントで、例えば大木の側には近寄らない、路上に転がっているのがいないかよく目を凝らす。聴こえたと思ったら怖がるよりまず先に耳を澄ませてアレの位置を正確に把握し、冷静に行動を取るよう努めること。
だがもう、無理だ。
聴いてごらんなさい、この声を。
こんな不特定多数に遠近様々な箇所から囲まれて、どう対応しろというのだ。八方塞がりの四面楚歌。こうなってしまえば打つ手など残されてはいない。
朝は特に、活発であると感じる。そして丁度下校時刻に当たる夕方も。実に憎たらしいことである。なぜアレらは僕に活動時間を合わせてくるのか。
世の中には様々な虫に対する殺虫剤がある。蚊取り線香、ゴキブリ撃退スプレー、コバエ誘引ポット。他、ダニ用蜂用ムカデ用と、薬局の殺虫剤コーナーに並ぶ殺虫剤の種類は多種多様。でも、アレのは見た事が無い。
さらに悪いのは、家族や友人に言っても、あまり分かってもらえないことである。
「アレのどこが怖いんだ? お前がアレを怖いと思っている以上に、アレだってお前のことを怖いと思っているだろうさ」
「アレは一週間しか生きられないんだよ? 可哀想だと思わないの?」
「えー。わたし寧ろ、アレって好きなんだけど。アレって可愛いよね。よく子供の頃山に行って捕まえてたなぁ。アレがいると自然が豊かな証拠だって感じがしない?」
全部、僕にとっては的外れ。
可哀想? 可愛い? どこが。
グロい。ひたすらグロい。
そして縦横無尽に飛び回り、突然、体当たりしてくる。
アレの危機回避能力は低すぎると思う。なぜいつも、僕のほうへ向かって飛んでくるんだ?! お前にだってそうすることに、なんの得も無いんだろう? 僕も無い。というか双方にとって害しか無いと思う。自殺願望の持ち主でもあるまいし、もっとうまいことやっていってくれれば僕だってそこまで怯えずに暮らすことができそうなのだが。
まあそれについては思っても仕方のないところなのかもしれない。
例えば蚊に刺されると痒くなるのがうざったいからといって「血は吸ってもいいけど痒みのエキスを注入するのだけは辞めてくれねーかなあ」とか「あらかじめ血をお供えしておいたらそっちで用事を済ませてくれて人間は刺されずに済むっていうシステムとか、蚊の代表と話しあって構築できないもんなのかなあ」と考えてしまうこともあるけれど、結局そんなの僕が考えたところで蚊に伝わるわけもない。
蚊は今日も、僕に痒みを与え続けている。
だがそれでも、僕からしたら蚊なんてまだ可愛いものだ。人によってはアレより蚊のほうがずっと害があるじゃないかという者もいるけれど。
とにかく僕は、アレに絶滅してほしい。
無理なら、住み分けとか、絶対に体当たりはしませんとか、そういう政策をマニフェストとして示してほしい。
よく鳥を避ける目的で、畑にキラキラ光るビニールテープやら要らないCDやらがぶら下がっていることがあるけれど、ああいうような視覚的な方法で、アレが寄ってこない対策を取ることは出来ないのだろうか。アレが嫌う素材や色で出来たスーツとか、誰か開発してくれたりしないんだろうか。
まだまだあるよ、巨大なマーケットがここにあるよ。
絶対売れるから。傘のような形状でもいいし、ストールでもいいし。もしくは匂いで寄ってこなくなるという方法は無いのだろうか? 虫よけになるハーブがあるという噂も聞いたことがある。もしアレにも効果的なのなら、是非スプレータイプにして売ってほしい。
大体あの鳴き声、なんとかならないのか。
みんなうるさいと思ってるんだろう? 絶対に。完全に騒音レベルじゃないか。
ミーンミンミンミンウエァー、とか、ツクツクボーシツクツクボーシツクツクウィーアーツクツクウィーアーツクツクウィーアーズザザザザザザザ……とかならまだしも。
あのシャーンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンシャンとかギジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジとか、あんな大音量でやられて頭おかしくならないのだろうか? 僕は、なる。
もう、おわかりいただけただろうか。
僕は蝉が嫌いだ。
だがまさか、蝉が嫌いだから、という理由で学校を休むわけにもいかない。そんな理由で誰が納得してくれるというのか。
もし母さんにそんなことを言えば「本当に怖いのは蝉じゃなくって人間なんじゃないの?」と学校での人間関係についていらぬ心配をされてしまいかねない。
それに何を隠そう今日は、一学期の終業式なのである。
授業は一切ナシ。半日程体育館で校長先生のオハナシやら様々な部活動で活躍した生徒の表彰式やらを済ませ、通知表を受け取ればそれにて解散。明日からは夏休みだ。
夏休みの何がありがたいって、外に出なくて済むのがありがたい。願わくば、蝉がいなくなる日までずーーーーーっと家の中に引き篭もっていたい。
とはいっても、こんなにありがたい夏休みを迎えるのは今年が初めてのことだ。
なぜなら小学生時代には早朝のラジオ体操なるものに、毎日強制的に参加が義務付けられていた。そして中学生時代には「蝉のいない室内での競技だから」という理由でバドミントン部に所属していたのだけれど、結構熱心な部活動だった為に夏休みはお盆の一週間以外は全て練習の予定が組まれており、登校しなければならなかった。その上、練習が始まる前には必ず学校の外周を三周走る決まりになっていた。
あれは本当に地獄だったなあ。学校の周りって木で囲まれているから蝉がうじゃうじゃいるのだ。そして蝉は、急に近づいてくる対象に大してはジジジっとなんか不潔なものをチビりながら体当たりを決めてくると相場は決まっているわけで。
「うわっ。お兄ちゃんまだ家出てなかったの?」
中学生時代の夏休みから現実へと、一気に脳味噌が引き戻された。
妹の志乃舞が、白いセーラー服の襟を整えながら僕を見下している。わざわざ自ら短く加工した制服のスカートの裾が、ちらりちらりと揺れている。しかしもちろん、覗きはしない。僕に妹萌えの属性は無い。大体、実際に妹を持っている男子はリアルな妹がどういうものかを知っているから、きっとそうはなれないものなのだと思っている。もしくは「二次元は二次元!」とよほど割り切っていれば楽しめるものなのかもしれないが。
キューティクルが密に整っている自慢の健やかな髪が、今日も高めの位置で二つにくくられている。いくら中学生とはいえあんな髪型が許されるのは、兄バカになってしまうかもしれないが妹の顔立ちが端正だからである。キリっとして清潔感に溢れ、各パーツのつくりがきめ細やか。ボサボサ頭でいいかげんな顔の僕とは大違いだ。
「早く行かないと遅刻しちゃうんじゃない? あんなに学校が遠いのに私より遅く出て間に合うはずがないもんねぇ?」
意地悪な微笑み。大抵、妹というのはこうやって小生意気な口をきいて兄の神経を逆なでする生き物なのである。二次元の世界では信じられないほど萌える妹たちで溢れかえっているようだが、あれは完全に幻想。ファンタジーの世界の生き物たち。
「別にいいだろ。お前こそ、さっさと学校行けよ」
「お兄ちゃんが邪魔でローファーが履けないんだけど」
「ああ……悪い」
僕は履いた靴を一端脱いで、靴下で玄関に上がる。確かに朝の忙しい時間に玄関を占領していたら迷惑だよな。
「ぷっ……」
妹がいかにもおかしいといった風に、吹きだし笑いする。
「なんで一端履いた靴をわざわざまた脱いで家の中に戻ったの? そんなことしなくても、そのまま外に出てくれればそれで良かったのに。お兄ちゃんって馬鹿なの死ぬの?」
「……どいたんだから、早く行けよ」
「はいはい」
やれやれと言った様子で首を振りながら、妹は腰をかがめてローファーの汚れをさっと靴磨きで落とし、足を通す。
今年中学二年生になり、テニス部に所属している我が妹の足は、スラリとしてよく引き締まっている。あまり前かがみになるとわざわざ覗きこむまでもなくパンツが見えそうになるのだけれど、なぜかギリギリで、見えない。こういう術を女子はどこで鍛え上げてくるのだろうか。すごい見えそうなのに、絶対見えないんだよなあ。まあその独特の緊張感で常に見えない状況をキープされているからこそ、見えた場合の一秒一秒に対する価値が高まる、というものなのかもしれないけれど。
靴を履き終え、志乃舞はさらり、と身体の前側に流れてきてしまっていた長いツインテールを、背面へ掻き出す。髪には妹の性格がよく現れていて、まるで定規で測ったかのように左右均等に、頭の真ん中できっちりとまっすぐな分け目を作りながら分けられている。
ゴムの結び具合といい、結び目からの髪の流れ具合といい、フィギュアなのかと思うくらいに完璧な造形美。志乃舞……コスプレとか向いてんじゃないか?
なんて妹を見ながらいらぬことを考えているうち、志乃舞の準備は整ったようだった。
「……じゃ、行ってくるけど」
妹が振り返る。猫みたいに少しつり上がった目が、僕をまっすぐに見つめる。
「玄関の外、蝉がいないか見てあげようか?」
「ほ、ほんとか?」
「いいよ別に」
こういうところ、僕の妹はとても優しい。一見常に怒っているかのように見えるけれど、案外僕を気遣って行動してくれる。気色悪いからそれをツンデレとは呼びたくないけれど。
「頼む。実は昨日、車庫の柱に一匹止まっててさあ……」
「……はぁ。分かった。じゃあ、うちの庭出るとこまで見てきてあげるから、ちょっと待ってて」
そう言って妹は難なく玄関ドアを開き、外の世界へと飛び出して行った。僕が十五分も頭を温めないと出ることのできない世界へ、いとも簡単に。
下駄箱の上の置時計に目をやる。七時五十七分。
「やばいな……。今日は飛ばしぎみに行かないと」
それでもやっぱり、今すぐ玄関を出る気にはならない。妹に安全を確認してもらってから出ればいいではないか。そう思って、再び靴を履いて玄関に腰を下ろす。
何やってるんだろうなあ、僕。
女子でもあるまいし、こんなに蝉を嫌うなんてちょっと異常なんだろうな。
しかし、考えてみればなぜ蝉が苦手になったんだろう。僕は全ての虫が苦手なわけではない。
そりゃ、ゴキブリやムカデなんかを手づかみできますってほど野性的ではないのだが、もし可愛い女の子が「きゃー! ゴキが出たわ、助けてー!」なんて騒いでいれば、僕は多少無理をしつつも一瞬でノートを丸めて、パーンと殺れると思う。ハエや蚊が飛んでいても、不快ではあったとしても、それ以上にはどうとも思わない。大きいから怖いのかと思いこんでいたが、大きさだったらトンボとか蛾だって大きいような……。
――ガチャリ。
玄関ドアが勢いよく開いて、妹が顔を出す。
「今日はいなかったよ」
「そうか。自転車の周りも?」
「いない、いない。ていうかどうせ嫌なんだろうなと思って、自転車は道に出しといてあげた。じゃ、私学校行くから」
「ああ。ありがと、志乃舞」
「まったく、早く蝉嫌い直しなよ?」
そう言い残して志乃舞は、ドアをバタンと閉めた。
「そうだよなあ」
妹は僕がもう何年も前から強烈な蝉嫌いであるのを知っているから、こうやって悪態をつきながらも色々面倒を見てくれているけれど、正直中学生の妹に蝉がいないか見てもらわないと怖くて家から出られない高校生男子なんて、この世に存在してはならないような気がする。
とはいえ、そう簡単に治るものだったらこんなに苦労はしてないわけで。
「あ、やべ。もう八時回ってるし……」
僕はドアノブに手をかけ、一回深呼吸をしてから、グイっとそれを捻って、外側に押し出した。あまりにも明るすぎる日差しが、僕の全身を包み込む。
「まぶしっ」
誰に言うわけでなくても、思わずそう口にしてしまいたくなる。もわっとした暑さの籠っていた玄関と比べると風があり幾分か暑さが増しなようにも感じられたが、それも一瞬のこと。すぐにジリジリと照りつけるような太陽光に気分が萎え始める。
妹の言っていた通り、どうやら今日は家の周りに蝉の姿は無い。だが、鳴き声はそこら中から嫌と言うほど聴こえてくる。
門の前には自転車が置かれていた。家の自転車置き場の側には木が植わっているので、毎朝僕は蝉に恐怖しながらそれを道まで運び出さなければならなかったのだが、今日は妹のおかげ様様で、幾分気を楽にして学校へ向かうことが出来る。
「よし、行くか」
今日はかなり飛ばしていかないと間に合わないからな。僕は気合を入れながら頭に蝉避けのてぬぐいを巻き、ぎゅっとその端と端を固結びにして自転車に跨った。
はじめまして、猫田パナと申します。これから色々小説を投稿していきたいと思いますのでよろしくお願い致します。
「僕は蝉が嫌いだ」をお読み頂きありがとうございます。完結まで、毎日投稿予定です。もしブックマーク登録していただけたらうれしいです。評価や感想もお待ちしています!
8/18 後書きを追記しました。(本文に改稿なし)