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やがて執務室にたどり着く。勇者は扉をさっさと開け放った。
「ノックぐらいしましょう?」
「魔王の部屋に? 必要ないよ。魔王だし」
「なるほど」
「おい待てミランダ。何故納得した?」
声のする方、執務室の奥を見れば、魔王が頭痛を堪えるようにこめかみを押さえていた。
ふわふわと、執務室の中に入る。すぐに勇者も中に入った。
「ただいま戻りました、魔王様」
「ああ。よく戻った。勇者も、わざわざ悪かったな。その、なんだ。感謝する」
「気持ち悪い」
「いい度胸だな貴様……」
魔王の視線が鋭くなる。勇者はそれに対して何の反応も示さず、ミランダへと向き直った。
「ミランダ」
「はい? 何でしょう」
「こいつ、こんなだけど、悪いやつじゃないから。仲良くしてあげてね」
「え?」
突然何なのだろう。ミランダが困惑している間に、勇者はまた魔王へと向き直っていた。
「それじゃ、帰る。メルとお昼寝してくる」
「すでに昼寝の時間ではないがな……。さっさと帰れ」
「ん」
そして、何の前触れもなく勇者が消えた。転移魔法、だろうか。魔力の流れが全く感じ取れなかった。
勇者が消えた後も、魔王はしばらくの間は黙っていた。
「あー……。ミランダ」
ようやく口を開いた魔王は、彼にしては珍しく、申し訳なさそうな表情をしていた。少しだけ言い辛そうにしている姿など初めて見る。
「少し、急ぎすぎたかもしれない。あのような形になってしまったが、良かったか?」
「え? えっと……。ガネート侯爵のことですか?」
「そうだ。自分で手を下したいと考えていたのなら、俺がやったことは余計なお世話というやつだろうからな」
魔王はそんなことを気にしていたらしい。ミランダは内心だけ呆れつつ、肩をすくめて言う。
「すごく今更ですよね、それ」
「む……。そう、だな……」
「ふふ……。大丈夫です。気にしていませんから」
友人たちの障害になりそうな者は排除できた。一番の目的はそれだったため、果たせた以上は特に何も気にしていない。どうせならもう少し嫌がらせをしたいとは思わなくもないが、あまり我が儘を言うものではないだろう。今のミランダは魔王の魔力によって存在を繋ぎ止められているのだから。
「ミランダ。詫び、というわけではないのだが……」
「はい?」
「面白いものを用意しておいた」
そう言って魔王が後ろから何かを持ち上げた。バケツだ。首を傾げるミランダを魔王が手招きする。そっと近づいてバケツの中を見てみると、
「うわ……」
赤黒い液体だ。まるで血みたいだ、と思ったところで、ミランダは慌てて数歩下がった。
「ま、魔王様! これ、血ですか!? だ、誰のですか今すぐ謝りに行きましょう一緒に行ってあげますから!」
「お前は俺の何なんだ? 安心しろ、血のように見えるが、血に見えるだけの液体だ。吸血鬼が普段飲んでいるものだな。実際の血と遜色がないと評判の人気商品だ」
「さ、さすが魔族……。こんなものまであるんですね……」
人族では考えられないものだ。匂いも血のそれらしい。人族が食べ物にこだわるのと同じことらしいが、どうしても忌避感が先にきてしまう。
「それで、これをどうするんですか?」
「うむ。ガネート侯爵は今は牢にいるらしい。勇者のことがあるからな、扱いは完全に犯罪者のそれであるようだ」
「うわあ……」
罪を犯したとはいえ、貴族がいきなりそんな牢屋に入れられることはない。今回それをしているということは、やはり勇者の言葉はそれだけ重かったということだろう。
「本題だが」
「はい」
「実を言うと俺も勇者も、秘密裏に転移をする手段がある」
それはつまり、そういうことだろうか。一緒に行ってくれると、そういうことだろうか。
「最後の嫌がらせにでも行くとするか」
にやりと意地の悪い笑みを浮かべる魔王に、ミランダは満面の笑顔で頷いた。
・・・・・
「何故だ。何故こんなことになった……。あの魔族か、それとも勇者か……。ゆるさんぞ……!」
ガネート侯爵は地下牢で怨嗟の声を吐き続けていた。ぶつぶつと、許さない、殺してやると繰り返している。すぐ側にいる監視の兵士は聞くに堪えないその言葉の羅列に、顔をしかめていた。
「絶対に、絶対に探し出して、殺して……ぶっ」
唐突に。天井から水が落ちてきた。それも、まるで大きなバケツをひっくり返したかのような、大量の水だ。なんという仕打ちだ、と腹を立て、そしてすぐに気が付いた。
その水は、何度か嗅いだことのある匂いだ。
その水は、赤黒い。
その水は、水ではなかった。
血、だった。
「うおあああ!」
思わず侯爵が悲鳴を上げて、兵士が慌てて振り返る。そしてその兵士も、短い悲鳴を漏らして尻餅をついた。
「な、なんだこれは。血? 本当に血なのか? だ、だれの……。おい……?」
兵士が、こちらを見て震えていることに気が付く。こちらを、というよりは、侯爵の奥の壁を。
嫌な予感がしつつも、侯爵がそっと振り返ると。
血で、ゆっくりと、文字が書かれていくところだった。
「は……?」
意味が分からない。理解できない。いや、理解、したくない。
目の前の壁に、まるで誰かが血でべったりと濡れた手で書いていくかのように、文字が増えていく。ずるずる、ずるずる、と何かを引きずるような音と共に。
『これで終わりと思うな』
そして最後に描かれたのは。エルメラド公爵家の紋章だった。
それを認識した瞬間、ついに耐えきれなくなってガネート侯爵は気を失って倒れてしまった。
壁|w・)次話は午前7時です。




