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どうやら今日は戻ってこないらしい。
魔王の帰りを待ってからと思っていたが、日が沈んでも戻ってこないようなので、諦めて出かけることにする。
今回お邪魔しようと思っている屋敷は、行こうと思いながらも避けていた家。
アトメシス侯爵邸だ。
かの侯爵の屋敷は王城からほど近い場所にある。ここだけは、誰にも聞かずともミランダでも場所を知っていた。
なぜなら、幼い頃から何度も訪ねていたためだ。
ふわふわと王都の空を飛んで、真っ直ぐに侯爵の屋敷へ。今回は魔道具の類いは持ってきていないので、何も気にせず壁をすり抜けて内部に侵入した。
意図したわけではないが、フローラの私室に入ってしまったようだ。見覚えのある部屋に、変わってないなと口元が緩む。使っている家具はどれも高級品ではあるが、無駄な家具があるわけでもない、ある意味で貴族らしい実用性の高い部屋だ。
使用人が毎日清掃しているのだろう、部屋には埃一つ落ちていない。優秀だなと感心しながら、部屋を出る。静かな屋敷の中をふわふわと、目的地へと文字通り真っ直ぐに。
そうしてたどり着いた部屋は、書斎だ。アトメシス侯爵は夜は執務室ではなく、このこぢんまりとした書斎で仕事していると、フローラから聞いたことがあったためだ。
そしてそのフローラの言葉通り、侯爵はソファに座り、何かしらの書類を確認しているようだった。彼の目の前のテーブルには、書類が山のように積まれている。まだまだ眠るつもりはないらしい。
その姿勢に、素直に尊敬する。思えば父も、アトメシス侯爵のことは認めて、そして信頼していた。
そしてだからこそ。この侯爵が関わっているとは思えない。
今回は、いつものようなことをするつもりはない。アトメシス侯爵は復讐相手ではないと、信じているから。
だから、今日やることは。
ミランダは侯爵の目の前のペンを手に取った。独りでに浮いたペンに侯爵がわずかに目を見開く。その侯爵の前で、何も書いていない紙にペンを走らせた。
『ミランダです』
短く、名前だけを書いた。侯爵が今度こそ大きく目を見開き、驚きを露わにする。
だが、それだけだった。侯爵はすぐに冷静な顔色に戻ると、持っていた書類をテーブルに置いた。
「待っていたよ。ミランダ」
「え……?」
「貴族の間で、幽霊が出た、という荒唐無稽な噂が流れていた。直接話を聞いてみると、エルメラドの幽霊だと聞くことができたからね。いつかきっと、ここにも来てくれるものだと思っていた」
どこかで聞いたような話だ。何か、罰でも求めているのかと思ってしまうが、そういった様子は見られない。ミランダがどこにいるのか気になるらしい侯爵は、周囲を見回しているところだった。
ミランダが適当な書類を一枚手に取る。侯爵はすぐに視線をその書類へと向け、そして面白いほどに青ざめた。どうやら大事な書類らしい。
「落ち着いてほしい。その書類は、すまないが、大事なものだ……」
残念。もっとも、ミランダとしてもこのような形で迷惑を掛けたいわけではないので、素直に従っておく。書類を戻すと、侯爵はあからさまにほっと安堵のため息をついた。
さて、どうするべきか。いらない書類というのは少ないはずだ。だが紙がないと、筆談はできない。
そうしてミランダが悩んでいると、侯爵がおもむろに立ち上がった。
「すぐに戻る。待っていてほしい」
そう言い残すと、足早に書斎を出て行く。ミランダは呆然としたまま見送ってしまい、そしてその呆然としている間に戻ってきた。
本当にすぐだった。そして侯爵の手には、数枚の紙。どれもが白紙だ。わざわざ持ってきてくれたらしい。侯爵はソファに座り直すと、書類をテーブルの隅に移動させて、目の前にその紙を置いた。
「これを使ってほしい」
ご丁寧に新しいペンまで置いてくれている。ミランダはそのペンを手に取ると、さらさらと白紙へとペンを走らせた。
『ありがとうございます』
「ああ……」
まじまじと、侯爵がその文字を見る。そしてすぐに、自嘲めいた笑みを浮かべた。
「はは……。間違い無く、ミランダの字だ。懐かしい……」
それは、ミランダに聞かせようとした言葉ではないのだろう。とても小さな声だったが、それでもミランダの耳には届いてしまった。
やはり、この侯爵が関わっていたとは思えない。誰かが侯爵の名を騙ったという方が自然だろう。
『申し訳ありません。失礼を承知で、お伺いしたいことがあります』
「うん? ふむ……。聞こう」
ミランダの文字を読み、侯爵は姿勢を正す。ミランダは少しだけ緊張しながら、続きを書いていく。
『私には、協力者がいます。誰とは言えません』
「だろうね。もちろん言わなくていい。君にとっては、どの貴族も敵に見えるはずだから」
そう言いながらも、侯爵の表情はどこか寂しそうだ。少しだけ、胸が痛い。
『その方は、最初は私の処刑には反対だったそうです』
「ほう……」
『賛成に回った理由は、借金を代わりに支払う条件だったとのことです』
「それはまた、奇特な者もいるものだ……。そんなことをする意味が分からない」
『アトメシス侯爵が、その提案に来たとのことでした』
「は?」
侯爵が、間の抜けた声を発した。しばらくミランダが書いた文章を何度も読んでいたが、やがて疲れたように大きなため息をついた。目を伏せ、何事かを考えているようだ。
「ミランダ。その協力者が、私だと判断した理由は聞いているかね?」
『アトメシス侯爵の執事が来た、とのことです。アトメシス侯爵家で長く仕えている人だから間違い無い、と』
これはパール伯爵から直接聞いたことだ。しかもそれだけでなく、
『侯爵の家紋が入った封書を持っていたそうです』
「ふむ……」
家紋の入った書類はとても大きな意味を持つ。どこの国でも、その国独自の特殊な魔法が使われていて、簡単に偽造はできないようになっているはずだ。それが使われていたからこそ、パール伯爵だけでなく、多くの貴族が従ったのだろう。
『心当たりはありますか?』
「ない。あってたまるか!」
どん、と侯爵がテーブルを叩いた。すぐに我に返ったようで、咳払いをする。
「すまない。取り乱した」
『構いません。侯爵、私はあなたを、信用してもいいのでしょうか?』
「無論。といっても、そう簡単に信じられるものではないだろうが……」
侯爵は、少し考えるように視線を上向かせた。それは偶然にも、ミランダのいる場所だった。あちらは気付いていないだろうが、自然と侯爵と目を合わせることになる。
自分に人を見る目があるとは思わない。そこまでの経験を積むことすらできなかったのだから。それでも、今の彼を見ていると、信用してもいいだろうと素直に思うことができた。
「ミランダ。私からの使いを名乗った者の名は分かるか?」
『はい。聞いています』
パール伯爵から教わった名前を侯爵にも告げる。すると侯爵は、獰猛な笑みを浮かべた。見れば、分かる。怒り狂っている、と。
「なるほど、なるほど……。これが君にとって良い情報になるかは分からないが、その執事はガネート侯爵から譲り受けた者だ」
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ではでは。




