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「魔王様。本当に大丈夫ですよね?」
ミランダの不安そうな声。魔王はそちらに一瞥くれると、問題ないと軽く手を振った。
ガネート侯爵の執事が持ってきた紙に、ささっと文章をしたためる。内容は、要約すると訓練中に負った負傷はいかなる理由があろうと本人の自己責任とする、というものだ。もちろんこれには死亡も含まれるが、彼らでは不可能だろう。
「これでよろしいか?」
サインをして、ガネート侯爵に見せてやる。侯爵は何度か読み直すと、頷いてその簡易的な契約書を執事に渡した。
「確かに受け取った」
「ああ。早速やりましょうか」
高揚感は、すでにない。あるのはただの義務感だ。
「では、こちらへ」
「ああ」
案内をしてくれるらしい執事に魔王はついて行った。
・・・・・
魔王がこの場を離れて、少しして。
「侯爵。正気か?」
王子の静かな、しかし明確に苛立った声に、ガネート侯爵はあからさまに狼狽えた。王子へと深く頭を下げて、謝意を示す。それを示す相手が違うと思うのだが。
「申し訳ございません、殿下。少々頭に血が上ってしまいました」
「あの契約書は?」
「ああ、無論、破棄しておきますとも。もちろん、怪我などしてしまったら、しっかりと治療をさせていただきます。費用も全てこちらが持ちましょう」
「そうか」
王子は疑わしげな目を侯爵に向けていたが、やがて中庭に視線を戻した。王子と同じ方を、ミランダも見る。丁度、魔王が入ってくるところだった。
魔王が持つのは、訓練用の木剣だ。対する私兵たちも、木剣に持ち替えている。私兵たちは何事かを囁き合うと、一人目が前に出た。
短い金髪に精悍な体つきをした青年だ。といっても、私兵たちは誰もがたくましい体つきをしているのだが。ミランダには、全員がとても強そうに見える。
見た目だけなら、誰もが今の魔王よりも強そうだ。けれど、魔王は心配ないと言う。何を見てそう判断したのだろう。
私兵の一人が中庭の中央へ。どうやら彼が審判役らしい。一対一で戦うようだ。
審判役が手を振り上げるのと同時に、相手が木剣を構えた。魔王は、何もしない。ぼんやりと相手を見つめている。まるでやる気が感じられないその様子に、私兵たちも最初は困惑しているようだったが、少しずつ苛立ちが顔に出てきた。馬鹿にされていると思ったのかもしれない。
事実、そうなのだろう。魔王は彼らをかなり低く見ているようだ。その油断が命取りにならなければいいのだが。
そしてその心配は、杞憂に終わった。
審判役が手を振り下ろして、そして次の瞬間には魔王の相手はうずくまっていた。そして魔王は、いつの間にか彼のすぐ目の前に移動していた。
「お前たちの動きは先ほど見ていたが、なるほど確かに技術はそれなりのものだ。魔族にも、お前たちほどの使い手はなかなかいないだろう」
だが、と魔王が続ける。
「お前たちは、魔力を、魔法を蔑ろにしすぎだ。戦時では誰か味方に魔法をかけてもらえばいい、とでも思っているのか? 実に甘い。甘すぎる」
魔王が足を上げて、そして勢いよく下ろした。私兵の頭を踏みつける。が、と短い、くぐもった悲鳴が微かに聞こえた。
「その結果が、これだ。俺が少し身体能力を上げただけで、俺の動きすら目で追えなくなる。はっきり言うが、今のお前たちではただの的にしかならんぞ」
いや、中途半端に動くから的以下か、と魔王が嘲り、私兵たちが顔を歪めていく。
あの魔王は少し挑発しすぎではないだろうか。
満足したのか、魔王は晴れやかな笑顔でこちらを、というよりもガネート侯爵を見る。あの笑顔が少し腹立たしい。ミランダですら何とも言えないほどに、ここの空気は死んでしまっている。
「ご満足いただけたかな? 侯爵」
侯爵は魂が抜けたように呆然としていたが、魔王のその言葉を聞くと我に返り、今度は憎悪のこもった目で魔王を睨み付けた。人とは、ここまで醜い表情ができるのかと、少し驚いた。しかし、すぐに王子もいることを思い出したのだろう、憎悪の表情はすぐに笑顔の仮面で隠されてしまった。
「いやはや。さすがだね。手も足も出ないとは思わなかったよ」
「そうですかな? 必然の結果ですが。この者たち程度、何度やっても同じ結果にしかならんでしょう」
「…………」
侯爵の笑顔が引きつっている。王子も魔王の言い方に苦笑を浮かべていた。
「まったく……。ついてきて良かったよ」
王子の、小さな声。王子もここまで一方的な結果は予想外だっただろうとは思うが、きっとどのような結果になったとしても、魔王の普段の態度からこうなることは分かっていたのかもしれない。
中庭から魔王が戻ってくる。魔王は侯爵の方は見向きもせずに、王子へと言った。
「どうだ、ロイド。俺は強いだろう?」
「あー……。うん。そうだね」
何とも微妙な表情を浮かべ、王子は頷く。彼の視線は魔王と侯爵を何度も往復していた。何を言っていいのか分からない、という気持ちは理解できる。
ガネート侯爵の私兵は貴族間でも有名だ。その強さが侯爵の自慢であり、誇りでもあった。それらがあっさりと砕かれてしまったのだ。彼の心中はいかほどか。
「いやあ、それにしても、弱い。この程度で自慢など、呆れるしかないな」
「その、ルーク、そろそろ黙ろうか……」
「見ろ、奴らのあの茫然自失とした姿。滑稽だな! ふはははは!」
「やめてあげてくれ……」
頭を抱える王子と、顔が赤を通り越して土気色になりつつある侯爵。
とりあえずミランダは思った。夜道に気をつけよう、と。
壁|w・)もっとはちゃめちゃにしようかと思いましたが、収拾がつかなくなったのであっさり目になりました。
魔王はお前ら魔法も使えということを言ってますが、ちゃんと彼らも身体強化ぐらいはしているのです。
まあ、うん。蟻の身体能力が十倍になったところで、二倍になった恐竜には勝てないという……。
誤字報告ありがとうございます。
誤字脱字の報告、感想などいただければ嬉しいです。
ではでは。




