方違え
「おかしいですね……」
従者が呟く。その声は車の中の主人にも聞こえたようで、物見を開けて「何がだ」と聞く。
「そろそろ道が開けてくるはずなのですが一向にその気配がなく……。このあたりはほぼ一本道なので、迷ったなど考えられないのですが」
車を止める。
「少々お待ちください。このあたりを見回って来ますので」
主人の返事も待たずに歩き出す。幼いころからの付き合いで、頼りになる従者ではあるが、昔からせっかちなところは変わらない。自分以外の人に仕えたら苦労しそうな性格である。
所要で都を離れ、用事も済んだため帰京しようという矢先、行きと同じ道のはずが、なぜか迷ってしまった隆信。車の中でため息を吐く。身重の妻のことが気がかりでならないというのに……、と己しか車に乗っていないので、顔に不満を露わにする。
例にもれず、親同士の決めた結婚だったが、お互い探り探り歩み寄り、やっと手を取り合ったと思ったところだ。まだお産までは何か月もあるが、それでも気がかりだ。
従者が戻ってきた。
「この先に屋敷がございます。尋ねたところ泊めてくださるそうなので、参りませんか?急いでこの辺りを抜けるのは危険だそうです。方違えとでも思いましょう。それに、殿は少々お休みになられた方がよろしいかと」
確かに疲れは感じている。その言葉に従うことにした。
※
橋の向こうの屋敷は、都のそれと遜色のない立派なものだった。可愛らしい童たちに案内され、女主人と会う。
「ようこそ。今旦那様は出かけているけど、ゆっくりしていってね。明日道案内するから今日はゆっくり休んで」
姿は姫らしく見せないが、それ以外は全く高貴な素振りが見えない女性の声。隆信は頭が痛くなった気がした。
旦那が不在だというのに、見知らぬ男を招き入れる警戒心のなさ。ざっと見たところ男衆もおらず童ばかり。加えて人里から遠い。これでは襲ってくださいと言わんばかりの屋敷だ。
「急なことだというのに、お心遣い感謝いたします。しかし失礼ながら一言お許しください」
警戒心を持て、旦那がいないのにほいほい男を招き入れるな。
隆信が親切心で言った助言だが、女性は笑いながら答えた。
「大丈夫大丈夫。ここは旦那様が守ってくれてるから安全だし、本当に悪い人はそんなこと教えてくれないよ。大体ここに来れるはずないし」
隆信は諦めた。この女性に、自分が何を言っても無駄だということを知ったのだ。
見たこともない食材や調理法に感激しながら夕餉を終え、眠るには早いかと渡殿を歩いていたところ、妙齢の女性が月見酒をしていた。見事な半月だ。
「あれ?お客さんだね。どうしたの?眠れなかった?」
声と口調で分かった。危機感の欠けた、ここの女主人だ。
呆れて諌める言葉も出てこない。招かれてご相伴にあずかる。
「私はあんまり都とか、華やかなところには縁がなくてね。お客さんさえよければお話聞かせてよ」
「自分はそれほどのものではありませぬが、多少なりとも一宿一飯の御礼となるのであれば喜んで」
それにしても、屋敷の格式とひどく不釣り合いな女性である。ここの主は彼女のこういったところを好いているのだろうか。
「とはいっても政治のことは退屈でしょう。都で流行っている物語などはいかがですか?」
隆信は沢山語った。女房たちが気に入っている物語に始まり、官位も低かった友人が蹴鞠でやんごとなきお方の目に留まったこと、碁は打てるのにすごろくのやり方を知らない不思議な人がいるらしいこと、そして自分の妻のこと……
「そしてその瓜がまた絶品でして……と、失礼。遠慮がなさすぎましたかな?」
食べ物の話は品がないとされている。この女性なら気にしないと思いたいが、何気ない、ほんのちょっとした仕草に何とも言えぬ気品を感じることがある。
「そんなことないよ、食べ物の話って大好き。いいなあ、そんなに美味しいなら食べたいなあ……」
話にしか聞いたことのない蘇を摘まみながら言う。こんな高級品を惜しげもなく出すあたり、相当な物持ちと見える。
「もし良ければ届けさせましょうか?運よく手に入った場合のことですが」
豪華すぎる持て成しを、従者たちまでしっかりと受けてしまったのだ。この位は当然だろう。妻には勘ぐられるかもしれないが。
しかし断られてしまった。彼女は続ける。
「奥さんに会いたくて、急いで帰りたいんだよね。
でもこうかいしたくないなら急いたら駄目だよ。
どの方角でもいい。まっすぐ進むのだけは絶対避けて」
有無を言わせぬ気迫。隆信たちの感覚からして、成人はしているとは思うがそれでもまだ少女らしさをのこす彼女は、隆信を真っ直ぐ見据え、静かに言った。
「さて、お酒も終わったし、そろそろお開きにしようか。お兄さんも明日は朝早いんでしょう?寝た方がいいよ」
隆信がどういうことか、聞き返そうかとしたが、先ほどの気迫など微塵も感じさせぬ様子で自ら空いた食器類を片し始めた。
やはり屋敷とちぐはぐだ。
※
活発そうな童に先導され、屋敷を後にする。
「すまないが、昨日女主人から真っ直ぐ進むなと忠告を受けてな。そのように案内してくれると助かる」
童は自信たっぷりに「任せとけ!」と歩みだす。
自宅に着き、妻が「よくぞご無事で……」と涙ながらに語るので詳しく聞いてみた。曰く、自分が迷った辺りでひどい土砂崩れがあったようだ。彼女の言葉に従わなかったらと思うと背筋が凍る思いだ。
数か月後に、可愛らしい子に恵まれた。運よく例の瓜が手に入ったが、さてどうしたものかと悩む。
あの辺りに立派な屋敷など存在しないことが分かった。瓜も別にいらないと言われたが、それでは自分の気が済まない。
少し考えたのち、自宅の渡殿に酒と切った瓜を置く。
丁度、共に見た月と同じ、下弦の月の形であった。