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人魚の肉


  ひっく、ひっく


 薄暗い森の中を、夏は泣きながら歩いていた。何度も転び、下草で足も傷ついているが、歩みを止めることもできなかった。


 夏は人買いから逃げてきたのだ。


 凶作で、食うに困った親に売られた。しばらくは人買いと共に山道を歩いていたが、急に霧が出てきて、夏は足を滑らせ、坂から転がり落ちたのだ。幸い捻挫や骨折はしていなかったがすり傷や切り傷だらけ。恐らく自分は花街に売られるのだろうと、幼いながらも察していた。近所に住むお姉さんが、ある日突然いなくなり、大人たちがそう噂をしているのを聞いた。村でも可愛いと評判の女の子だった。しかし今の自分は傷だらけ。もっとひどいところに売られるかもしれない。それならいっその事逃げてしまおうと思った。幼女と言っても差し支えない自分が逃げおおせるとは期待していないが。 

(足痛い……お腹すいた…)

 もう諦めようかと思ったが、暗い視界の向こうに明らかな人工物が見えた。

 

 橋だ。それも話でしか聞いたことのないような立派なもの。その向こうには屋敷が立っている。


(狸とか狐かな…?旅の人を騙すって、お婆ちゃん言ってたし)


 狐狸の類でも、もしかしたら泊めてもらえるかもしれない。屋根さえあればいい。祖母によく聞いた話では翌朝に騙されたことが判明するものだったから。

 意を決して、屋敷の門を叩く。小さな手で鳴らされる音はか細かったが、少しして開かれた。


「あれ、可愛いお客さんだね。こんな時間にどうしたの?」


 現れたのは、少々子供っぽい口調の女性だった。


  ※


 傷だらけの夏の姿を見、「まずは手当だね」とひょいと抱えて、女性は屋敷へと入って行った。

 小袖に羽織、そして柔らかそうな素材の襟巻。色合いは地味だが生地は高級感があり、穏やかな笑みを浮かべたその人に良く似合っている。

 丁寧に包帯を巻かれてから、夏は事情を話した。

 親に売られたこと、偶然とはいえ人買いから逃げてきたこと、もう駄目だと思った時にこの屋敷を見つけたこと、今日だけでもいいから泊めてほしいこと。話しているうちに涙が出てきたが、女性は急かさず聞いていた。

「ま、泊まるのは構わないよ。それよりお腹すいてない?ご飯にしよう」

 その言葉にどこからか一人分の膳を持った子供が現れた。膳は夏の前に置かれる。食事までもらうわけには、と夏が慌てたが、その女の子に見覚えがあった。


「菊!何でここにいるの?!」


 二年前に、流行病で亡くなった村の友人だ。こんなところにいるわけがない。よく似た人なのか?呼ばれた子は少し困った顔をしている。


「その子はキミの知っている菊ちゃんじゃないよ」


 女性が言う。

「ちょっと事情があるんだ。でも大丈夫。心配することは何もないよ」

 それよりもしっかり食べてくれると嬉しいな、子供は元気でなくちゃ。と続ける。

 膳を見る。白米に汁物、おかずもついていてこんな豪華なものは見たことがない。くぅ、とお腹が鳴り、促されるまま箸をつける。


 ――「あの世のものを食べてはいけないよ。そこの子になってしまって、二度とうちには帰れなくなるからね」――


 祖母から繰り返し聞かされた「ヨモツヘグイ」の記憶が蘇ったが、そんなことどうでもよくなるくらいには美味しかった。そもそも既に家には帰れないのだ。気にすることはない。

 続いて白と黒の、少々気味の悪い物を口に運ぶ。コリコリした食感が愉しい。これはなんだろう?


「気になる?それ。人魚の肉だよ」


 箸を落としかけた。なんというものを食べてしまったのだ。


――「人魚の肉も食べたらいけないよ。人の道から外れてしまうから」――


 またもや響く、祖母の言葉。「人の道」というものがいまいち分からなかったが、もう聞くことはできない。祖母も去年亡くなってしまったのだ。

 やっぱりこの人は悪い狐だったのか?でもこんな自分を招き入れ、手当までしてくれたのだ。疑いたくはない。「人の道」から外れるとどうなるのか。夏は嫌な想像が止まらなかった。

 幼い夏には「あの世の食べ物」と「人魚の肉」の恐ろしさの違いなど分からないが、祖母は「人魚の肉」の恐ろしさを特に説いた。


 やがてくすくすと笑い声が聞こえた。目の前の女性だ。


「ごめんごめん、冗談が過ぎたね。これ、人魚じゃないよ。あわびっていう貝さ」

 そう言いながら手を延ばし、夏の膳からあわびを一切れ摘まんで口に入れる。人ならざる者の疑いのある者がそれをやっても説得力に欠けるが、疲れもあったため夏はあまり考えずに食を続けた。

 

 満腹になったところで、夏は涙ながらに頼み込んだ。

「一日なんて言ったけど、どうかここに置いてください……。花街なんて怖くていきたくないです…!雑用でもなんでもするから……」

 一日泊めてもらった程度で、どうにかなる問題ではないのだ。ここから出て、行く当てがあるわけでもない。村は遠くて、たどり着けるとは思えないし、戻れたところで噂を聞きつけた人買いが報復に来るかもしれない。森の中で人買いと再開しても、結局は売られるだけだ。


「駄目だよ。キミはかえりなさい」


 口調は柔らかく、だが内容は、今の夏にとっては冷たかった。


  ※


 翌日、門の前。夏と女性はそこにいた。夏の目は少々腫れぼったい。

 これ以上無理を言ってはいけない。女性は夏に「人魚の肉よりもいいものだよ」と綺麗な髪紐を渡した。


「橋を渡りきるまでは、絶対に振り返っちゃ駄目だよ」


 言われた通りに、振り返らずに進んだ。足元が木の橋から土になった。それでも歩き続けた。


 やがて霧の中ではぐれた人買いと再開した。彼は人買いという職ではあるが、純粋に夏の心配もしていた。そして当初の予定通り、夏は花街へと売られたが、厳しくも優しい女将や姐さんに育てられ、人魚の肉を食べたかのように美しく成長し、たちの悪い客もつかなかった。

 道具入れにはあの時の髪紐が、和紙に包まれて丁寧に保管されていた。

 そろそろ準備をしなくては。

 夏を身請けしてくれる、馴染みの客が来るまでに。


  ※


 夏の姿が見えなくなった門前に立ったままの女性に、菊と呼ばれていた子が駆け寄った。


「夏ちゃん、行っちゃいましたね」

「そうだね……寂しい?」


 曖昧に笑って誤魔化す。寂しいくないといえば嘘になる。しかしもう諦めていたことだ。


 菊は夏の友人本人だ。ただし、もう人の世には戻れない。


 七つまでは神様の子。

 夏に出した食事は現世のものだ。無理やり連れてくるのは彼女の趣味ではない。


「風が出てきました。屋敷へ戻りましょうか、凪子様」

「そうだね。旦那様も、そろそろ帰ってくるし」


 風が二人の髪を、着物を、凪子の襟巻を巻き上げる。

 

 その首には、強い力で絞められた痕が、痣となって残っていた。




  決して振り返ってはいけないよ?

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