純心
吉川春人の章
母は厳格な人だった。
彼女が白と言えば白だし、黒と言えば物事はすべて黒く見えた。それらは、実際にそうなり、そして僕はその答えに助けられ、今日こうして生きている。
彼女に従って生きていれば、不自由なく生きていける。そう感じている。
「一緒に働かないか?」
流れ星が降ってきて、僕の前で爆発し、そして「あなたは選ばれました」とコンピュータに言われたようだった。
「今の仕事もあるし…」
でも正直、今の仕事はもう着地点が見えてて、その先のことが起きそうにない。
今のまま続けても、これ以上の昇格は見込めないし、年を取ればともすると左遷の道を辿るかもしれない。
実際に、貢献のない先輩たちの姿は見て、ああはなりたくないな、と同期と嘲笑っていた。「未来の僕を見ているのか?」という自分の疑念に、否定をすることができないでいた。
結局、その先輩がいざ左遷となると、陰で嘲笑するものの、僕は不安でいっぱいだった。「次は僕の番なんじゃないだろうか」と。
そこへきて、この話だ。浮きに食いつく魚のように、目に見えて食いつきはしない。しかし、充分自分の求める幸せには結びついているように思えた。
僕は逡巡している風を装う。
「簡単に食いついたらいけない。自分の価値が決められる」そう思った。
きっと、ヘッドハンティングを頻繁にされている人だったら、上手に不明点を訊き、自分の利益不利益を正しく捌き、受け入れるにしても、勿体つけて答えるだろう。
僕だって社会に出ている男だ。甘やかされて育ったから、基本人任せなところも、自分に甘いところもある。しかし、それ以上に天より高いプライドがある。どう返したもんか。
しかし、正直なところ、僕の心は「好機だ」と捉えていた。
僕たちは、十年来の付き合いだ。
彼とは、大学のパーティで知り合った。パーティといっても、サークル対サークルの要は合コンというやつだ。もちろん、主人公は男対女だ。
ただ、彼にはその即物的な縁を結ぶことさえ忘れてしまう、人を惹き付ける魅力があった。それが何なのか、と問われると、さらりと答えることはできないのだが。
どっしりと構えて座り、時として適切な主張を述べ、しかし輪の協調も乱さず、笑顔で周囲を和ませる。見た目は美形といかないまでも、清潔で人に好印象を与える。「お手本をまじまじと見せられている」そういう印象だった。
こうして知り合い、かたや敏腕社長、かたや平社員。神様は平等だ。種に見合ったものをくれる。僕の人生には平社員が似合うと判断したのだろう。
熊本の市街地に聳え立つ一流ホテル。ロビーには、大きな絵がいくつかとアンティーク調の柱時計や、一見高そうな花瓶などが飾られていた。備え付けのソファに座り、彼と向き合っていた。
僕たちは、これからの未来について夢、希望、そんないつもだったら臭く感じてしまう物たちについて、熱を込め、語り合った。
彼は、仲間内で一番出世した存在だった。その彼に、話があると呼び出されるとは、何という幸運であろう。
いくつか仕事の具体的な話をしてくれる。会社の所在地、待遇、休日、その他諸々。そうすると、目の前に新しい仕事をしている自分が見えるようで、僕は好奇心や、新しい世界が広がるキラキラとして希望感、それと少しの安堵を感じていた。
「返事はなるべく早く貰いたいけど、焦らなくていいから、じっくり考えてみて」
彼はそう言った。もうすでに心の傾いている僕は、時間をくれるということに変にドギマギし、わかりました、となるべく上ずらないように、自分なりの無機質な声で応えた。
目覚ましの電子音で目が覚めた。朝からこの音を聞くことは好きではない。
だが、夢の世界で生涯を終えるわけにはいかない。自分を律しベッドから起き上がる。
夢の中では一年前のことが上映された。この悪夢が始まってもう一年。プロローグの幕も開きあがらない間に、僕は絶望を記憶し、終幕を待つ日々を過ごしている。
僕は彼に、入社する意志を伝え、若葉の芽吹く季節に東京にやってきた。
はじめの一か月は慣れることに大変だった。ありきたりだが、物価の違いに戸惑い、標準語に慣れず、スクランブル交差点で人にぶつかったりした。それでも、地方出身者のプライドとして、予定の給料に見合う部屋に住み、すれ違う若者に倣い渋谷で服を買ったり、懸命に食らいついた。まだまだ甘いと思うが、ある程度都会の洗礼は受けたつもりでいる。
事前に郵送されてきた地図を片手に、僕は大きなビルの前に立った。田舎では数えるほどしかない、窓の多いビル。太陽を遮断する森のようなその中に、彼の経営する会社があった。
初出勤の日、彼が待合室で迎えてくれた。緊張して入った森の中で、昔の仲間を見つけると、軽い安堵を覚えた。着慣れないスーツが腹の辺りを押し付け、僕は再び緊張を手に入れる。
彼から、ホテルで説明を受けている待遇や休日について、改めてレクチャーを受けた。
彼の会社は映像関係を主としていて、ネット配信などで業績を上げているとのことだった。細かい話はわからないことを察してか、彼も専門用語は避け話してくれた。不況だが、その分、家で過ごす人が増え、インターネット事業は右型上がりらしく、彼の会社も例外ではないとのことだった。
「委縮することなく、技術はこれから身につければ良い」
と彼は言った。
仕事は始めれば何とでもなる。フリーターの期間が長かったし、いろいろと働いたので、吸収には自信があった。それより僕は休日や賃金のほうが気になっていた。
こうして、僕は晴れて彼の会社の従業員になった。
もっと、将来について考えていれば良かったのかもしれない。就職活動をして、人並みの給料をもらって家族を養う、そうしていれば、どんなに良かっただろう。
僕は大学の四年間、不真面目に過ごした。朝起きて、眼をこすりながら電車に乗り、睡眠が足りないので講義中に舟をこぎ、授業が終わるとバイト先まで向かう。休日は仲間と連れ立って街に繰り出す。そういう大学生活だった。振り返っても戻れない。
学生というブランドを手放した後、就職活動もしていない僕は、流れに任せフリーターとして生きていた。時に恋愛事があったり、それはそれで楽しいものだった。後悔はしていない。この大学生活やフリーター生活がなかったら、僕は現状にはいないだろう。
チャンスに飛びつき、それでこの結果。今の生活に満足しているかと訊かれたらそれはノーだが、今より低くなることなどないと考えて、貴重な経験ができたと思っている。
僕は熊本の公務員住宅で育った。
元々引っ込み思案で人見知りもする性格だったので、兄と一緒にいることが多かった。探検、買い食い、プロレスなどをして遊んでいた。今思うと情操教育と言えるのだろう、僕の家にはテレビゲームがなかった。当時、それはとても痛手だった。子供にとって、楽しいおもちゃをどれだけ保有しているかがステータスなのだ。時々友人の家に遊びに行っても、僕はゲームに興じる友達を背中越しで眺めているだけだった。たまにやらせてもらうが、いつも下手くそで、慰めるのがかわいそうなくらい、僕はゲームが苦手だった。手先を使って十字キーやAボタンを押すことができなかった。だから、仕方なく僕は騒ぐ友人を背中越しに見ていた。
そんな中、彼女が現れた。
小学三年生の二学期。
「姫川葉月です」
よろしくお願いします。そう言って、構台でちょこんと頭を下げた。
僕の目は釘づけになった。慣れない教室に戸惑い、初めての席に向かう彼女を目で追う。彼女には、夏を過ぎたというのに、一度も日光を浴びていない、そんな透明感があった。その長い髪を後ろでひとつに括り、ワンピースからは白く細い腕が漏れていた。
当時、僕のクラスでは「恋」が流行っていた。まるでインフルエンザのように、流行り病のように、その感染は日に日に増していた。「春人は好きな人いないの?」そう聞かれることもしばしばで、見た目も中身も成長が遅かった僕は、しかしいつまでも思い人もおらず無邪気なままでいると格好がつかないので、ステータスを上げるために恋をしたかった。
そこで現れた彼女だ。一目で気に入り、この子に初恋をしよう、そう思って僕は恋をすることを決意した。
勉強も運動も得意ではない僕は、彼女を振り向かせるために、たまたま家が近所だったことを運命とでも言うように、下校時は彼女を誘って一緒に帰っていた。
そのうち、放課後も一緒に過ごすことが多くなり、僕は彼女をどんどん気に入り、自分がかけた初恋の暗示にかかっていった。
あの頃に戻れるのなら、僕は彼女と現実のように向き合ったりしない。大勢いるクラスメイトの一人として、お互いを見たい。
僕は彼女を殺した。
あれは、小学四年生の秋口だった。
知り合った小学三年生の時より、少しだけ体が大きくなり、それは自分の行動力に直結していた。
三年生までは怖くて降りれなかった陸橋の麓。陸橋と言っても生活排水を流している川なので小さいが、僕たちは、嬉々として橋の麓に降り、橋を屋根に見立て、川辺に座りお喋りをした。岩が僕らの尻を押していた。
「ここを二人だけの秘密基地にしよう」
姫川葉月にそう伝えた。精一杯の勇気だったのだろう。頬が引きつっていたのを覚えている。
彼女は、笑顔で頷いてくれた。その笑顔がとても嬉しかった。僕たちは秘密基地にすべく、材料を持ち寄った。お互いの宝物や、他者からの視線を避けるブルーシートや、ケガした時のために絆創膏や赤チン。絆創膏や赤チンは彼女が持ってきたもので、僕は子供心に男女の違いを感じていた。彼女は足元に咲く花を見つけ、その花の名前を教えてくれた。それはもう覚えていないが、とても小さな花だった。そういう何気ない時間を彼女と過ごすことが、その頃の僕は一番幸せだった。彼女の言葉の一言一言が、輝かしく思えた。彼女の仕草が、ひとつひとつ僕の中に残っていった。
彼女と過ごすことが多くなって、兄と遊ぶことが少なくなった。とは言え兄弟なのだから、同じ屋根の下で過ごし、日々の出来事を語り合った。
彼女のことを話すと、兄は「いつもその子の話だな。今度連れて来いよ」と言った「そんなんじゃないし」と、兄に見透かされていることが恥ずかしかった。
彼女は長女で、僕は次男なので、その関係は姉弟のようだった。姉に属する彼女は、僕の要求を聞いてくれ、しかし、いざというときは、その場を律する強い意志を持っていた。
彼女を形成したその教えを習い、なるべくそれに沿うようにしていた。たとえば、昼の月は見てはいけない、とか、炭酸は飲んではいけない、とか彼女の教えを素直受け入れていた。
ある時だった。その日は彼女がクラスで親しく付き合っている女の子も入れて、三人で帰路についていた。二人きりの時間を邪魔された不快感などなく、彼女の人間関係も淀みなく流れてほしい、と僕は三人でいても常に彼女のことを考えていた。
三人で歩くのは、二人の時より、歩調が緩やかになる。きっと三人ともが他者の歩く速度に合わせていたのだろう。話も尽きず、僕たちは歩いていた。
ふと、その女の子が言った。
「なぜ、二人はいつも一緒に帰っているの?」
と。思わぬ直球に僕は茫然とする。「方向が一緒だから」「一人よりも二人のほうが賑やかだから」「なんとなく」今思えばそれらしい言い訳はたくさん出てくるのだが、僕は沈黙し、彼女も何も言わず、ただ、それを回答しているような沈黙があった。
僕の思いは気づかれてしまったと思う。彼女ともならず、たまたま今日一緒に帰っている女の子にまで。
でも、誰も咎めず、囃し立てず、粛々と時間が過ぎたように記憶している。
本当は記憶から消してしまっているのかもしれない。自分の気持ちがばれる。それは、とても自分の内面を見られているようで、我慢できず記憶を消したのかもしれない。
僕が彼女を殺した理由。彼女を愛しているから、殺した。
たとえば、両親と兄を愛している。
彼らが殺人を起こしたとする。そうすると、僕は生涯加害者の家族で、おそらく過酷な人生を強いられる。もちろん、被害者とその家族の悲しみに比べれば、大したことはない。ただ、その人生を僕は両手を広げて受け入れられるとは思わない。きっと、加害者となった家族を恨むだろう。亡くなってしまった被害者を憎むだろう。そうして、自分が生まれたことさえ悲観する。
でも、それにより僕は、加害者となった家族を殺したい、と思うだろうか。
こういったことは考えられないだろうか。兄が誰かを殺したとする。僕はもちろん学校での地位や存在を失い、孤独になる。戸惑うのは最初の一年で、その後はその生活にも孤独にも慣れ、そしてある思いを抱く。兄への憎悪。兄さえいなければ、孤独にもならず、周りと同じように順風満帆な学校生活を送れたのではないか、その後の人生も平凡ながら幸せに過ごせたんじゃないだろうか。
そして、両親を恨む。兄を産んだ憎しみ。兄を孕んだ汚れ、殺人者としての兄を育てたその価値観。「兄弟なのだから、もちろん僕もその価値観の下で育っている」そのように、周囲の人間は要らぬ心配をする。お兄ちゃんが殺人者で、弟も同じ血を受けている。僕は違う、と周囲の人間は簡単に納得などできない。同罪、同種、同一。そう考えるほうが自然で、それを避けるために行動する方が、彼らを安心させる。だから、彼らは僕を攻撃する。目に見えての攻撃もあるだろうが、同一視すること。彼らがその思いがなくても、僕はこの攻撃に生涯晒される。耐えられるだろうか。おかしくならずに済むだろうか。
兄と両親に殺意を覚えるだろう。「愛」が成長して、殺意に変わるのだ。
五年生の八月だった。
九州は台風の直撃を毎年受ける。熊本だって例外ではない。
台風のせいなのか、心境の発達か、今となっては定かではないが、僕はその日、再度彼女に告白をしようと決めていた。今度こそ成功させようと。
実は一度、僕は思いがけず、姫川に告白をしていた。四月のことだ。
冬場は、秘密基地に来ることは控えていて、春が来てから、僕たちはここに来ることが増えていた。
陸橋の脇は、桜並木が広がっており、春は零れ落ちた花弁が水面に浮いて、さらさらと流れていく。その流れは緩やかで、川辺には花弁がたむろする。ピンクと緑、それと空の青の風景が、この辺りを占拠する。大人は毎年この川辺で花見をする。ごつごつとした岩の上にシートを敷き、昼間から酒を飲む。地区の恒例行事だ。
桜の花びらが舞い散る川辺で、僕は、はしゃぐ彼女を眩しく見つめていた。姫川のあまりの神々しさに、気づかないうちに愛を告白していた。僕の唇からは、彼女を讃え、崇めるほどの言葉が放たれていた。
しかし、彼女は頷かなかった。いやだ、と言った。僕が恋人になってほしいと伝えると、はっきりいやだと言ったのだ。思わずついた傷口を隠すために、笑ってごまかしたが、僕は姫川の言葉を忘れてはいなかった。
「恋人はいやだ。私、楠本君が好きだから」
楠本は、僕と姫川と同じクラスの男子だ。体格もよく、顔も整っていて、運動も勉強もできる。女の子の憧れの的だ。対して僕は、身長も低く顔だって褒められたことはない。運動も勉強も得意ではない。
小学五年生にして、僕は初恋で初失恋を経験した。認めたくない傷。誰にも知られたくないし、目の前の彼女にも悟られたくない。だから笑ってごまかした。
しかし、果たして姫川はこのことを他言せずにいてくれるだろうか。一抹の不安が生じた。
もし彼女がこのことを学校で言ったら、僕はクラスのみんなの晒し者になる。ただでさえ、小学校も高学年になって、いじめという単語が出だしたころだ。自分がその対象にならないという安心はない。彼女の行動によっては、僕の学校生活が悲惨なものになる。それはどうしても防がなければならない。彼女に失恋してから、そのことを四六時中考えていた。母にも、最近ボーっとしていることが多いと指摘された。学校で孤立するわけにはいかないのだ。
そして僕は、この台風の最中、彼女と連れ立って陸橋にやってきた。台風の勢力の強さに、大人は子供に、出歩いてはいけない、川に近づいてはいけない、家にいなさい、と有無を言わさぬ風体で言った。
雨が降りしきる中、僕と彼女は、大人の言うことを聞かず、秘密基地で遊んでいた。雨の日は外が暗い。陸橋の下となれば言わずもがなだ。大人が近づくなという理由がしっくりとわかった。
その時のものも大型で、風も雨も強かった。歩いていると何度も立ち止まり、風が収まったところで、また歩き出す。僕たちは傘をさしてこなかった。どうせ強風で壊れてしまうし、川に来れば水遊びをするのでずぶ濡れになってしまう。この台風の中歩く障害になるので、傘を持たず丸腰で歩いてきた。いつもの倍の時間をかけて、僕と姫川は陸橋にたどり着いた。
川の水量を気にかけていたが、思っていたよりも水面が低く、僕たちは安心して川辺に降り立った。陸橋の下は、風も橋が遮ってくれ、道を歩くよりもここにいたほうが安全だ、そう思わせるほどだった。
その日の姫川は、Tシャツにロングスカートという出で立ちだった。川に入るために、スカートを捲し上げていた。僕はポロシャツに半ズボンという、いかにも小学生という恰好だった。
彼女がオッケーを言えば、事は解決するのだ。小学生で恋人ができるなんて、自慢にもなるし、周りの同級生に先立って手に入れたステータスになる。
姫川のことは好きだが、それはもう恋愛感情だけに留まらず、僕の沽券の問題にまで成長していた。彼女がイエスを言えばいいこと。僕を好きじゃなくたって、楠本のことが好きだっていい。試しに付き合ってみたらいいのだ。僕だって、そんなに悪いことない。そう気が付くだろう。
しばらく、川辺に腰かけて話をした。何を話しただろう。テレビやクラスメイトの話。おそらくそうだ。記憶に残っていないくらいだから、大した話ではなかっただろう。
姫川が川に足を入れ、びちゃびちゃと水を蹴っている。彼女はサンダルを履いていた。僕もサンダルだ。川で遊ぶために、僕と姫川はランドセルにサンダルを入れて持ち歩いていた。たいてい毎日使うため、入れっぱなしにしていた。
話がひと段落した時、僕は彼女に再度気持ちを伝えた。姫川が好き、試しに一度付き合わないか?という趣旨を伝えた。
彼女は困った顔をしていた。僕があまりにも詰め寄るので辟易していたのだろう。
しかし、僕の目を見て答えた。
「やっぱり、付き合えない」
と。
風が鳴り、雨が激しさを増してきた。
一番近くにいるのに、隣にいるのに声を聞き取ることさえ危うい。彼女は僕に、友達でいたいという意味の言葉を伝えていたんだと思う。
ザブン
大きな音がした。
気が付いたら、彼女を突き飛ばしていた。言うことを聞かないおもちゃだから放り捨てる、そんな感じだったと記憶している。
姫川は濁流に足を取られ、転んだ。
僕は助けることをせず、その様子を見ていた。
川の流れは激しさを増し、彼女はまだ起き上がれない。姫川は、両手両足をバタバタと動かしていた。時々何かを言っているようだったが、口が川に沈んだり出てきたりで、何を言っているのかは聞き取れなかった。
来た時より、川の水量が上がっている。僕らの胸の高さまでだったと思う。溺れる彼女で濁流の深さを測った。服が重しになっているのだろう。姫川は、顔を水面から出すことさえ、次第に難しくなっているようだった。
川の流れはとても速い。僕は、川辺に座り、足をつけていたが、その足が持っていかれそうになるほどだった。その流れが、彼女を連れ去っていこうとしていることがわかった。僕はそこで彼女の危機に気づいた。そして僕の希望にも気が付いた。
姫川がこのままいなくなれば、僕の沽券は守られる。誰も彼女に、僕が思いを伝えていたことなんて知る由もなくなる。クラスメイトにいじめられることも、彼女の友達に茶化されることもない。僕に平和が訪れる。そのことを考え、僕は流れに抗えないで必死でもがいている彼女を蹴り飛ばした。水に吞まれながら何かを訴えている様子だったが、僕は気にしない。姫川がいなくなれば、僕は安泰なのだ。姫川がいるから、僕の心は乱され、こんなに傷ついて、未来はかわいそうなのだ。姫川さえいなければ。
僕は流れの先に目をやった。川の流れはとても早く、底の泥を含んだ水は轟々と音を立てている。姫川が僕に手を伸ばす。
やっぱり、姫川はかわいいな、と思った。差し出された手をもう一度蹴飛ばし、彼女が起き上がることを抑える。赤子の手をひねる。そのたとえが、今まさに。なんだか可笑しくなって、僕は笑った。大声で笑った。この雨だ。雨音にかき消されて僕の声は誰にも聞こえない。とても愉快だ。漫画やテレビのバラエティよりおかしくておかしくて。僕は大声で笑った。できれば、しばらく彼女に手を貸し起き上がらせて、そこでもう一度彼女を濁流へ突き飛ばし、もがく様を見ていたい。
そう考えているうちに、彼女は、起き上がることをあきらめたようで、次にやってきた濁流にのまれ、瞬きをしている間に、見えなくなった。
しばらく、川の流れを見ていた。起きたことを頭の中で反芻した。
僕が、姫川を突き落とし、見捨てた。姫川は流されていった。
赤いサンダルが、岩に堰き止められ浮かんでいる。姫川の履いていたものだ。一足だけ浮かんでいる。川を横切り、僕はそれを下流へ思い切り、力を思い切り入れて投げ飛ばした。
雨はやむことなく、帰った時には、びしょ濡れだった。母に怒られたが、それより僕は姫川のことで頭がいっぱいだった。この昂揚感。初めて味わう感覚。そして、自分自身は守られたという安心。体は紅潮していた。殻を破った感じだ。頭が冴えて、何もかもが、自分の思う通りになる気がした。僕に不利益を与える人間には、こうやって制裁を与えてあげればいい。
神様にでもなった気がした。こうやって、僕の人生は進んでいく、そう感じていた。
熱気さめやらず、ベッドに横になっていると、母が部屋に入ってきた。
「姫川さんから電話があったんだけど、葉月ちゃんまだ帰っていないんだって。こんな台風の日に。心配よね。葉月ちゃん、何も言わず出て行ってて、お母さんすごく心配してるみたい」
僕は、それで、ああ、姫川は僕と遊ぶことを伝えずやってきてたんだな、と思った。
「今日は葉月ちゃんと一緒じゃないわよね?」
僕は沈黙した。母は目を見開く。
「一緒だったの?なんで春人だけ帰ってきてるの?」
母親とは鋭い生き物だ。僕は黙っているのも不自然なので
「雨が強くなったから、僕だけ帰ることにして。姫川はまだ遊んでるって」
と嘘をついた。本当のことは秘密にしよう。そう思った。僕と姫川の二人だけの秘密。
「そうなの?」「この台風なのに?」訝しがってはいるが、わが子が嘘をつくことなんてないと思い込んでる僕の母親は、一応納得した様子だった。
その日の夜、部屋で漫画を読んでいると、再度母が入ってきた。ベッドに腰かけている僕へ歩み寄り、目の前に立った。怒られる。母の面持は怒るときのそれに似ていた。何かしただろうか。学校から帰ってきて、確かに台風の最中、言うことを聞かず、遊びに行っていた。きっとそのことだろう、と僕は思い、面を見せた。
母は視線が定まらず、話すタイミングを探しているようだった。怒られるとわかっていたが、沈黙も苦しいので、僕は母を促した。
「なに?」
すると、言い出しにくそうに、母はぽとりぽとりと話し始めた。
「あのね、今日、春人ね、寺川君の家に遊びに行ってたことになってるから」
豆鉄砲を食らった気持ちになった。何の話だ?川へ行ったと先ほど伝えてるじゃないか。そう言おうとした時、母は僕を制して言った。
「寺川君と寺川君のお母さんもそうしてくださるって」
やはり意味が分からず
「なんで?」
と母を見た。
母は目を伏せていた。これをこの子に話していいのだろうか?今考えればそういった思いがあったのかもしれない。一分程の沈黙の後、ようやく決心したように、ポツリポツリと話し出した。
「あのね、実はついさっき、葉月ちゃんが…見つかったの」
その言葉で、僕は姫川が生きて誰かが保護したのだろうか、と感じた。だとすれば、僕の計画はパーだし、何よりも姫川が僕が殺そうとしたことを警察に話して、僕は捕まってしまうんじゃないのか?目の前が真っ暗になる感覚がした。
また母がゆっくりと話し始めた。僕の今の精神では聞くことをあまりしたくなかったが、聞かないわけにはいかない。
「葉月ちゃんね…、川に流されたみたいで、助からなかった…んだって。この台風だもんね…足でも滑らせちゃったのかな……春人も悲しいと思うけど、ご家族の方…の方がもっと悲しいと思う…から…今夜だけど…お通夜…行こう…ね」
どんどん声が小さくなり、嗚咽も入り、最後は聞き取れないくらいだった。
そうだ、姫川は僕の家にも来たことがあって、母とは面識がある。母は彼女のことを気に入っていた。春人にもあんなお嫁さんが来てくれたらいいのにね。そう言っていた。その言葉に僕もまんざらでもなく、でも恥ずかしさから、そんなことにならないから、と母に声を荒げたことがあった。
僕の中に、一つの思いがある。根深く蔓延る思い。
好かれなくたっていい。嫌われたくない。嫌われるのは、絶対に嫌だ。何より怖い。そして、僕の中のこの思いが時として難問を産む。
堂々としていれば、何も怯えることはない。そうも思うが、どの場面でも短絡的に、嫌われたくないと思ってしまう。
たとえばあの日、姫川が助かっていて、これからも変わらぬ生活を送ったとする。
そうなると、僕の二度の告白だ。彼女がそれを他人に話さずいれるだろうか。話を知った人はきっと僕を軽蔑する。二度も告白して、二度とも振られたのだ。話題にしない方が無理に思える。
きっと彼女は周りに話す。そして僕は独りになる。何としてでも、それは避けなければいけない。学校という小さな社会の中で、僕は孤独になりたくない。いじめられたり、噂話を立てられたり、そういうことはされたくない。
目の前の人が僕を嘲笑い、軽蔑をし、中傷する。それは是が非でも避けなければならない。
以前、目の前の人に軽蔑される場面を演じた。
あるクラスメイトが、学級全体から陰湿ないじめを受けていて、僕も加担していた。
それは、遊びの一環で、教師も黙認しているようだった。
彼をからかい、喧嘩に発展させ、ぼこぼこにする。一種のゲームのようだった。学級の日課のように、目標のようにみんなが彼をいじめていた。
ある時、僕は彼に対し、替え歌を歌った。
昼休み、特にすることもなくて、何人かで寄って、彼をいじめようとしていた。いつもの風景になるくらい、それはありふれた日常だった。
もう、何の歌か覚えていないが、たぶんテレビで何度も聞いていた曲だと思う。
僕は、彼を替え歌で中傷した。その時は、何も感じず、彼を貶し、笑い、歌っていた。
次の日、事件が起きた。
彼が学校へ来ないのだ。風邪を引いて来られない、というならまだマシだが、そうではなかった。彼は僕が歌った替え歌に病んで、落ち込んで、両親に打ち明けたというのだ。
僕の分は悪い。ほかに何人もクラスメイトがいる中で歌ったのだ。教師がその話を朝の会でし、替え歌で相当病んでいると。クラスの中には、僕の仕業だと知っている人もいる。
「誰がやったかは聞いているが、こちらからは名指ししないので、自分から名乗り出なさい」
教師はそう言った。
僕のところに視線が集まるのを感じた。相当分が悪い。刺すような視線と居心地の悪さに、僕はただ下を向いていた。
そのうち、何人かのクラスメイトは、歌っていないでもいじめていた、と認め名乗り出た。その様子を下を向いて感じていた。でも、僕は名乗り出なかった。地獄の時間だった。
一時間目の授業が終わり、居心地の悪い席にいるのも憚られ、僕はトイレに立った。
用を足していると、隣にクラスメイトが並んだ。安永君だ。彼は昨日の場面にいた。彼も喧嘩を煽り、野次を送る一員だった。そうして彼は言った。
「嘘が上手いね」
その時、自分が蔑まされたのがわかった。彼は僕のやったことをわかっていて、それを名指しすることもなく、このトイレという狭い空間で、僕に言い放ったのだ。嘘が上手いね、と。
僕はこれ以上ない恥ずかしさと自責の念、安永君への憎悪を感じ、彼の話に応えず、急いでトイレを後にした。
もしかして、明日から僕がいじめの対象になるんじゃないだろうか。恐怖を感じた。安永君は排尿が目的ではなく、僕を蔑むためにトイレに来たのではないか。
僕のことを蔑み、その様子を楽しんでいるのではないか。直接言い放たれたことが恐ろしくて、僕は教室に戻っても震えていた。
早く家に帰りたいと思った。まだ一時間目が終わっただけで、あとが長い。その日はいつもより時間が経つのが遅くて、何度も時計を見た。でも目を上げると、クラスメイトの視線が刺さるようだった。
嫌われるわけにはいかないんだ。あんな思い、もう二度と嫌だ。
僕は彼女を殺すことで、その信念も守った。
数日後、家に警察がやってきた。
その日は特に予定のない日曜日で、僕は部屋で漫画を読んで過ごしていた。
玄関のチャイムが鳴り、誰だろうとドアを開けたら、男の人が二人立っていた。
背が高くて細身で眼鏡をかけているおじさんと、逆に背は低くてちょっと太ったおじさん。背が高い方はたぶん僕の父親と同い年くらいで、背が低い方はたぶんその人よりはだいぶ若そうだったが、小学生の僕には二人ともおじさんに見えた。
母は彼らを居間に通し、僕と四人、一時間くらい話をして帰って行った。
途中、僕に向けた質問もあった。あの事件の日、君はどこで何をしていた?や彼女と親しい友達は誰か?などだ。母に言われていた通り、寺川君と、彼の家でテレビゲームをしていたと話した。君はゲームが得意なのか?と聞かれ、僕はまあまあだと嘘をついた。姫川と仲が良かったクラスメイトの名前も何人か教えた。
警察が帰った後、母親は寝室に籠った。すすり泣きが聞こえてきた。
兄もまだ帰宅していなかったため、することがなく僕はテレビを見て過ごした。
その夜、同じクラスの四宮が家を訪ねてきた。以前僕と姫川と連れ立って下校した女の子だ。僕と姫川に、どうして二人は一緒に帰っているのか?と訊いてきた子だ。
彼女は僕に、なんてひどいことをしたのだ、と詰め寄った。警察が来て、姫川が死んだことや色々話をしたと言うのだ。何のこと?と僕は白々しい返しをした。バレてはいけない、と思って、萎びれた顔をして見せた。
四宮は怯まず僕を問い詰めた。
「あんたが葉月ちゃんを殺したんでしょ、私知っているんだから。あの台風の日、二人で歩いていたの見たんだから」
頭の中で今聞いた言葉を反芻し、僕は焦った。
四宮に見られてた。僕はどうなるのだろう。彼女がこのことを警察や学校に言ったら、僕はどうなるのだろう。みんなに嫌われる。いじめの対象にされて、ひどいことをされる。石を投げられるかもしれない。無視をされるかもしれない。家が燃やされるかもしれない。いや、それでは済まず、殺されるかもしれない。そして殺した奴は今の僕のように白々しく、知らない、と答えるのかもしれない。
頭が猛スピードで駆け巡る。自分自身がその速度についていけなくて、起きていることがまるで嘘のように思えて、どう感じたらいいのか、それがわからず、自分の感情がどこにあるのかさえわからなくなった。
その時、寝室から母が顔を出した。
「何を言っているの!?あの日、春人は寺川君の家にいたんだから!!」
と、母は四宮に怒鳴った。
四宮は、母と僕を順番に睨み、目を見開き頬を紅潮させ、ぷいっと出て行った。
母の顔を見ると、能面のようだった。感情をくみ取れない顔。死人のような顔。きっと僕も同じ顔をしていただろう。
次の日、天気は良いのに、僕の心は晴れていなかった。学校へ行き、四宮が大人しくしているとも思えない。
彼女はきっと、朝の会か終わりの会で僕のことを発表するだろう。絵や書道が賞をもらっての発表なら嬉しいのだが、真逆だ。僕のことを非難し、貶め、泣きじゃくるに決まっている。
家を出るのも嫌で、でも昨日の激しい母の怒声を思い出すと、家にいることも憚られ、結局僕はいつも通り通学路を歩いた。足が重い。もうこのまま学校へは行かず、どこか遠くに行ってしまいたい。奇跡が起きて、どんなものでもいい、たとえば、異常気象でこの時期に季節外れの大雪が降って、学校が休みになるとか。何でもいい、とにかく学校へ行く気がしない。行く気はしないものの、でもほかに行く場所もない。小学生の行動範囲なんてたかが知れてる。駄菓子屋にでも行こうかな。そうも思ったが、大人に見つかって問題になるかもしれない。そうすると、また母を悲しませることになる。
今はただ歩くことだけをする。学校へ着くまで。着いたらそのあとは流れに身を任せよう。
学校に着くとクラスメイトから、四宮が死んだことを知らされた。屋上から飛び下りたというのだ。
驚いた。昨晩会ったばかりの人が、今日はいないということが不思議だった。
小学五年生が屋上から転落死。先日川で溺れて死んだ生徒もいる。二人は親友。友連れ自殺か!?マスコミは面白おかしく記事を書いた。
四宮が死んだってことは、僕は安泰だよな?でも、なぜ飛び降りたんだろう。死ぬにしても、僕のやったことを晒して、そのあとでも良かったんじゃないのか?不思議なことがたくさんあって、僕の頭は考えることをやめた。
マスコミと言えば、僕も、姫川と仲の良かった友達として、下校道で記者にしつこく付きまわされたことがあった。
「君は最初に死んだ子と親しかったそうじゃないか、何か知らないのか?」「飛び降りた子からそれらしいことは聞いていないのか?」「二人に最近変化はなかったか?」など。
僕は、はい、そうですね。はい、ないです。いいえ、知りません。と事務的に答えた。少しでも余計なことを答えると、記者は嬉しそうに次々と訊いてくるので、なるべく端的に答えた。
学校では、体育館に全校生徒が集められ、校長先生から、マスコミに何を訊かれても答えるな、と言われていた。でも、こうも矢継ぎ早に質問されると、答えないと不自然だし、記者はがっかりする。目の前でがっかりされることは僕の最も不得意とするところだ。だから、端的に答え家に近づくと、僕は、ではこれで、と断ろうとした。
すると、記者が今までと色の違う質問をした。
「君は、テレビゲームは得意かい?」
と。
質問の意図がわからず、僕は少し間を置き「まあまあです」と答えた。
「川で亡くなった子が転校してくる前は、よく友達の家で、みんなでテレビゲームをしていた。君は、春人君と言ったね。君は、そのゲームをほとんどすることはなく、後ろで見てたり、漫画を読んでたりしてたんだってね」
危ない、と感じた。
クラスメイトの何人かは、僕がゲームを苦手なことを知っている。糾弾される。しつこく訊かれ、僕は裁かれる。危険を感じた。
しかし、僕がその場で言葉に迷って、無言で俯くと、記者は「ありがとう」と告げ、一緒に下校してきた道を引き返して行った。
なぜ、記者が僕のゲーム不得意さを知っているのか、誰かがしゃべったのか?それより僕の名前を今の人は知っていた。僕が疑われているのか?
体に震えを感じ、空気にさえ恐れを感じ、僕は走って階段を駆け上った。住宅の廊下も走り、家の扉を開け、そのまま自分の部屋へ直行し、鍵をかけて籠った。
その夜、寝室から母と父の言い争う声が聞こえてきた。
両親は夫婦喧嘩をあまりしない人たちだったので、免疫の付いていない僕と兄は、カップ麺を平らげると早々に部屋に入った。
二日後、父は兄を連れて、家を出て行った。
夫婦喧嘩が原因だろう、ほとぼりが冷めたら帰ってくるだろう、僕は安穏と考えていた。
でも、ひと月たっても、ふた月たっても、父と兄は帰ってこなかった。
その頃、母はやつれにやつれ、医者に通うほどだった。普段何も食べていないのだ。水を飲むことさえつらいような時もあった。僕は、母にお粥を作った。それは、吐きながらだが、完食してくれた。
三か月を過ぎたころだろうか。怖い夢を見て、夜中に目が覚め震えが止まらなかった。夢の中では、秘密基地で僕は姫川と話をしていた。場面が変わると、僕がいじめていたクラスメイトが、教室で僕向かって指をさし、それをクラスメイトと教師が見ていた。また場面が変わると、秘密基地は豪雨で水量が増していた。姫川と話をしていたが、その彼女がいない。僕は一人で川辺に座っている。次の瞬間、体が押されることを感じた。振り返ると、姫川がいた。僕は彼女に突き落とされたのだ。水に吞まれながら必死でもがいている。姫川を見ると、こっちを見て笑っていた。大笑いをしていた。そこで夢から覚め、しばらくベッドの中で震えていた。
今考えると、母は相当思い悩んでいたのだろう、とわかる。久しぶりに出かけたと思ったら、高額な印鑑を買ってきたり、「これであんたの人生は良くなるから」そう言って、占い師から購入したシールを僕の部屋の天井に貼ったりした。
常軌を逸した行動だとわかっていたが、僕は何も言わなかった。掌で潰した虫が弱っていく、その様を見ているようだった。虫は死んでいくのか、それとも回復し、また空を飛ぶのか、わからないが、僕は、じっと見ていた。
そういう生活が続いて、冬を迎えた。その頃僕は苗字が変わった。詳しくは訊かなかったが、離婚したのだろう。祖父母の姓になった。
年が変わってから、専業主婦だった母は、スーパーマーケットで働き始めた。
すると、それまでの不調が嘘のように、見る見るうちに回復した。家では寝室に籠ることも多かったが、外では活発に動き回っているようだった。母が元気になったことが、僕は嬉しかった。
少年時代、僕は罪には問われなかった。
きっと神様が許してくれたのだろう。幾夜も考えて、その考えにたどり着いた。
そして一年後、僕は小学六年生になっていた。何もなかったように。クラスメイトが立て続けに二人亡くなったことなど、まるでなかったように、平和な日常だった。
マスコミからの情報によれば、姫川は不慮の事故、四宮は自殺、ということだった。
クラス替えにより、僕は新しいクラスメイトの教えに則り、標的を定め、仲間をやめることが最大の罪、とでもいうように、標的の子をいじめていた。
僕は、神様に助けられた。
中学に入った頃、平和な生活を送る僕のところに、突然、出て行った兄から電話があった。その内容は、的を得ていて疑問が払拭された。
僕の疑問が、黒電話の受話器から解決されていく。
「母さんな、あの飛び降りがあった早朝、学校に行ってたんだよ」
そうか、僕の神様は母だったのか、と感じ電話越しに頷くと、兄は
「もう会うことないし、このことは一生誰にも言わない。だから、僕と父さんには連絡も手紙もしてこないでくれ」
と言った。
「うん、わかったよ」
向こうが耳をそばだてているのがわかった。僕と兄の最後の会話だ。
「さいなら」
兄はガチャンと電話を切った。思い切り力を入れて受話器を置いたのだろう。僕の耳はしばらくジンジンしていた。
幸せとは、そう感じる心。実際そうだと思う。
僕は幼少期、幸せだった。姫川の件があっても仲間からあぶれることなく、笑顔で生きてこれた。
今は幸せかと自分に問うと、それは否定される。僕は今不幸だ。でもこれは、この思いを全うすれば、消え去る程度のものだ。
姫川を殺す前、数分間だが僕は不幸になった。彼女に思いを打ち明け、拒絶された不幸。
でも、それは姫川の死とともに簡単に色褪せた。
僕は彼を殺す。鞄の持ち手をぎゅっと握った。
そのことによって、彼が消えることによって、僕は自身に幸せを感じさせることができるはずだ。
東京へ出てきて、ひと月も経たぬうちに、僕は解雇された。
朝のミーティングで、僕は素人には無理難題なシステムの仕事を押し付けられた。彼の口からは善意は見えず、同僚からは反対意見も出た。素人にやれるわけないと。しかし、彼は会社で「社長」という絶対的な力を持ていたので、同僚の言葉は葬り去られた。
きっと、何か僕に恨みがあったのだろうと思う。入社後、ある日を境に彼の態度が変わっていくのを僕は感じていた。身に覚えがなかったので、気のせいかな?と何でもないことにしよう、と僕の中で思っていた。でも、日に日に彼の僕への態度が悪くなっていき、それでも、疲れているのかな?と思っていた。僕は与えられた仕事はきちんとこなしていた。それでこの結果だ。
一晩じゅう考えた挙句、僕は次の日会社へ行けなかった。足が向かず、一日を後悔と絶望の思いで過ごした。
その結果、僕は解雇されてしまった。
もちろん、出社しなかったこっちが悪いということもわかっている。でも一日休んだだけで、たったその一日が解雇する理由だなんて。
僕は、自分に何か落ち度があったか、探したが、思い当らなかった。もしかすると、東京での仕事ではなく、故郷にいた頃、彼に何かしてしまっただろうか。考えるが、思い出せない。僕は、彼を慕っており敬っていた。交友関係は良好だったはずだ。もしかして、僕の何気ない態度が、彼を怒らせたのではないだろうか。そして、彼は僕を東京へ呼んで、絶望を味あわせることで、僕を地に落とすつもりだったのではないだろうか。
僕にはこの東京で、頼れる人も親しい友達もいない。孤独になった。毎日、生きることを自問自答しながら時間を過ごしている。夜も眠れず、生活リズムは壊れている。それを話す相手もいない。故郷の友達にすればいいとも思うのだが、それを話すことは、僕が「敗者」になったと自分の口から伝えているようなものではないか。
誰に話すことも、頼ることもしなくて、僕の心は孤独を深めていった。
独りが成長していき、大きな実をつけ、僕はその実に「憎しみ」という名前をつけた。
幸せを実感するため、孤独を打ち消すため、これから彼を殺す。
僕は今、彼の会社が入るビルに向かっている。
鞄には、小刀が入っている。小学生の頃、学校の授業で購入したものだ。上京するにあたり、何かあった時のためにと母に持たされた。母は「東京は恐ろしい街、泥棒や恐喝なんて日常茶飯事。被害者にならないために、持っていなさい」と言っていた。
東京とは、なんて人の多い街なのだろう。誰もが目的地に向かい、分け目も振らず、足早に過ぎていく。
足元に小さな花が咲いている。これは、あの秘密基地にも咲いていた花か。姫川が川辺で見つけた花だ。名前は、もう忘れた。僕は、それを踏みにじる。
きっと、また母が何とかしてくれる。僕の所業を、無かったことにしてくれる。
そうだ、彼を刺した後、母に電話をしよう。そうして、今日を過去にし、僕はまた歩き出そう。
濁流のような群衆の中、目的地に向かい、僕は歩調を上げた。
吉川幸子の章
何という不遇なんでしょう。
久しぶりに声を聞いた息子が、また人を殺めただなんて。
息子は誑かされたのです。東京の、悪い人に唆され、故郷を捨て、私とも離れて暮らして、精一杯仕事をしていたはずなのに、悪い人に利用されたのです。
東京とは恐ろしい街だと、私は母に教わりました。その教え通り、ニュースなどでは、犯罪など悲惨なニュースが取り沙汰されています。簡単に人を殴り、殺め、脅し、騙し。とてつもなく、恐ろしい街です。強姦、脅迫、強盗、殺人。
そのループに春人は嵌められたのです。
春人は根の優しい子供でした。
私たち夫婦は、その季節のように、暖かい太陽、優しい風、心を穏やかにする、そのように育ってほしくて「春人」と名付けました。
私たちは春人を愛しました。長男の優介も、弟を大事に思い、私たち家族は愛し合っていました。
春人は冬に産まれました。外は寒さで、息も凍るほどでした。もの寂しい冬を越えて、春が訪れるように、そういう願いもありました。
願い通り、優しい子に育ちました。成績も心配することなく、大学も出しました。
就職はしなかった息子ですが、根の優しい子です。自分が採用されたら、一人欠落する。自分が採用も、入社試験も受けなければ、誰か一人の人生を幸せにできる。そう思っていたのではないでしょうか。
そんな春人に、その優しさを利用するかのように、小学三年生の時、ある女の子が現れました。
彼女の名前は忘れません。姫川葉月。転入生だと聞きました。
名前からして、彼女は五月の生まれということでした。彼女に直接聞きました。
月齢の低い春人に、彼女は傲慢に振る舞っていました。
体の成長も遅かった春人を、春人より背の高い彼女が、連れまわしているようでした。月齢が、人の上下も左右すると、私は悲しい気持ちでいっぱいでした。
彼女は、春人に好意も悪意も持っているように見えました。私はその悪意に惑わされないよう、春人を見守ってきました。
時に春人の気持ちも確かめたくて、彼女のことをそれとなく訊いていました。
「好きなの?」「お嫁さんにしたい?」と。
あんな子が春人の嫁だなんて、考えるだけで悪寒がします。きっと、結婚生活も、彼女に振り回されて、私も追い出されて、孫が生まれても顔一つ拝ませてくれない、そんな女です。
彼女は、計算高い女です。小学三年生にして、その技量を持っている。私はそう確信していました。
春人を、まだ小さい春人を唆し、町はずれの陸橋の下へと連れ込む。何という所業でしょう。きっと怖かったと思います。陸橋の下は危険です。水の流れに足を取られてケガをしないだろうか、彼女に嫌なことをされて、春人の純心が損なわれないだろうか。私は毎日それを心配していました。
彼女は成長も早い方に見え、もう女だったと思います。まだ子供の春人を穢す、それを考えると、居ても立ってもいられず、私はよく陸橋の下を覗き込もうとしていました。
彼女の策略なのでしょう。陸橋の下は、ブルーシートで覆われ、地上からその様子を見ることはできませんでした。かと言って、そのシートを開けて入っていくことも出来ません。心配していることを悟られることもそうですが、その現場を目撃したとしたら、素面でいられそうにありませんでしたから。
それまでは、兄の優介と遊ぶことの多かった子ですが、彼女が現れてから、ずっと、学校が終わっても一緒にいるんです。
元々、消極的な子でしたから、放課後はまっすぐ家に帰ってくることが多かったんです。時折、友人の家に行くことはありましたが、それは学校が休みの日だけで、たいてい家で過ごしていました。
私は侵されていく春人を見ることがつらくて、優介にも、もっと春人と遊ぶように言っていました。兄弟なんだから、仲良くしなさい、と。でも、奔放な性格の優介は、私の言うことなど聞かず、兄弟には薄い壁のようなものができていたように感じます。
優介は、社交的で友人も多くいました。放課後も休日も、外に出て遊んでいました。
男友達が多いようで、近くの公園で日が暮れるまで遊んでいる、そんな子でした。それなら、春人も連れて行って、と言っても、弟を連れていくなんて格好悪い、絶対嫌だ、と私の懇願など受け入れませんでした。
兄弟で、順位があるとは思っていません。
優介も春人も、私の大切な子供です。
手のかかる子ほどかわいい、と言われますが、優劣をつけていたなんて、思ってもいません。
優介は太陽。春人は月。そんな対照的な性格でした。太陽は、自力で光ります。でも、月は太陽の光を浴びないと光らないんです。
だからこそ、優介にはもっと協力してほしかった。なのに、春人はどんどん私の知らない人になっていく気がして、怖かったんです。
何もかも、あの女が悪いんです。私は、彼女を今でも憎んでいます。
「春人君、あんなところで遊んで、危ないんじゃない?」
「あの女の子は、春人君の彼女?」
「初恋なんじゃない?」
散々、近所の人に言われていました。笑顔で振る舞う自分が悔しかった。周りからはそう見えているんだ、と思うと、姫川葉月に負けた気がして、心底悔しかったんです。屈辱で、心の中はいっぱいでした。けれど、泣くことはしませんでした。子供に見せてはいけない。そして何より、それが自分の敗北を意味するようで、悔しくて悔しくて、私は寝室に籠り、布団を思い切り殴ってやり過ごしてました。
今思えば、泣いていればどんなに救われただろうと思います。でも、やっぱり信念が許しませんが。
主人とは、見合い結婚でした。
私の父も、市役所勤務の公務員で、主人は新入社員ということでしたから、私は親に言われるまま見合いをし、そのまま結婚をしました。
主人の顔は普段思い出せません。本当に一緒に住んでいたのだろうか、そう思うときもあります。春人を見て、その面影でなんとなく思い出す程度です。はっきりとした顔はわかりません。靄がかかっているように思い出せないんです。
主人と何をして過ごしたか、それは運動会や遠足や、子供の行事に紐ついて覚えていますが、果たして彼がどんな人だったか、それは考えても思い出せません。考えることもそうありませんが、思い出そうとすると、脳がストップをかけるんです。考えすぎて、記憶の扉を開けたら、何もない空間に放り出された、そんな思いがします。
優介にはもう会えないんです。住んでいる場所も、結婚したかどうかも知りません。
きっと行政で調べてもらえばわかることなのでしょうが、そんなことしません。お腹を痛めて産んだ子ですが、優介は一人でも生きていける。春人は私がいなくてはダメなんです。優劣ではなく、子供の個性の問題なんです。
優介は要領も良い子でした。周りに明るく振る舞って、好かれ、困っている時は助けてくれる人がいる。対して春人は素直な子ですから、媚を売る真似など出来ませんでした。転んで、泣いて周りに助けを借り、また歩き出す子。転んでも泣かず、そうしてその間に周りに置いてけぼりを食らう子。二人とも根は変わらず成長したと思います。
ただ、姫川葉月が現れてから、春人に影が差し、私は心配でなりませんでした。
ある時、私は察しました。
彼女が現れてから一年後の春、春人が思い悩んでいる様子を見せるようになったんです。それまでと変わらず、放課後も休日もおおよそ彼女と過ごしているようでしたが、私にはわかるんです。二人の間に何かあったのだと。
たまに、休日を家で過ごすときも、春人は熱がある時みたいに、終始ボーっとしていました。私が指摘しても、聞こえていないのか、生返事をするだけでした。
このままでは、春人が浸食されてしまう、私の知らない人になってしまう。私は、恐ろしかったんです。せめて休日は家にいなさい、そう言いもしましたが、春人に私の声は届いていないようでした。
その頃の私は、彼女に対して、憎しみはありましたが、殺意は持っていませんでした。
階段って一つ踏み外すと、そのあとは悲惨なんですね。身を持って感じました。
でも、だからと言って、春人を恨んだり、育て方を間違っていたなんて思いません。
春人は、他の子よりも素直なんです。それが春人の個性なんです。
あの年の台風は忘れません。
台風が去った後は、嘘みたいに快晴が広がるのですが、その時のそれは、私の心とは真逆でした。寂しさや悔しさ、怒り、憎しみ、様々な感情が入り混じって、感覚がなくなる、そういった感じでした。自分の感情がわからないので、きっと表情もなかったと思います。
雨が降り、強風が吹きすさんでいました。毎年幾度となく台風が来ていましたが、その時のものは非常に強く、子供たちが風で飛ばされないか、心配をしていました。
私は、台風の中、買い物を終え、午前中に干した洗濯物が占拠する居間で、子供の帰りを待っていました。
その頃の私は、専業主婦でした。早朝に起き、子供と主人を送り出し、掃除、洗濯、晩御飯の準備にいそしんでいました。途中、だらだらと横になり、ワイドショーを見る時間もあったと思います。都会の犯罪などを知ると、田舎ですが、ここで暮らしていて良かった、そう考えたりしていました。
その日は、どのチャンネルを回しても、台風のニュースばかりでした。
非常に強い台風が、日本列島を縦断しています、とのことでした。こんな日だから、学校も早く終わり、子供たちは連れ立って帰ってくるかもしれない、そう思いました。室内に洗濯物を干していたら、子供が嫌がるかもしれない。愛する子供が早く帰ってくるかもしれない期待と、鬱陶しい洗濯物のことだけ考えていました。
優介は、早い時間に帰ってきたのですが、春人はこの天気の中、一向に帰ってきませんでした。私は、心配で、探しに行こうかと思っていました。台風にわが子が連れ去られたとしたら…。居ても立ってもいられませんでした。考えていると、家の電話が鳴りました。主人からでした。今回の台風は強いので、万が一のために窓を閉鎖しておいてほしい、と。私は、そんなことより、まだ春人が帰ってこない、と大声を出しました。けれど、主人は取り合ってくれず、この雨の中探しに出るのは危険だ、入れ違いになるかもしれない、もうじき帰ってくるよ、と楽観的に返事をしました。私は納得できず、電話を切り、傘を持って外に出ようと、玄関の扉を開きました。
すると、扉の向こうには、愛する春人が立っていたのです。自分も今、ノブを回そうとしていた、とでも言うように、右手を出していました。
思わず、傘を離し、春人を抱きしめました。よく無事に帰ってきた、と。涙が溢れ出そうになりました。そこで私は、自分が余程心配をしていたのだと自分の感情を理解しました。
心配と同時に、強い怒りが湧いてきました。なぜ、こんな日にこんな時間まで帰ってこなかったんだと。優介も帰ってきているので、学校が早く終わったことは知っていました。こんな日まで、ふらついて何をしているのだ、と。
気が付いたら、春人の頬を叩いていました。そうして、感情に任せ、春人をもう一度抱きしめました。きつく、きつく。後にも先にも、子供を叩いたのはこの一度だけです。
春人は、雨に濡れずぶ濡れだったので、私はお風呂を沸かしました。すぐ入るように、部屋に声をかけましたが、返事はありませんでした。私も叩いた後ですから、気負けしてそれ以上は声をかけませんでした。お風呂には蓋をして、いつでも入れるようにしました。
しばらくして、電話が鳴りました。主人が反省の電話をくれたのか、と思い、受話器を取りました。
しかし、相手は女性でした。彼女はこう言いました。
「姫川葉月の、母です。春人君、帰っていますか?」
姫川葉月と聞き、私の心は穏やかではありませんでした。あの女を産んだ母親だ。なんて、憎らしい声。うちに電話を寄越すなんて、どんな神経だ? 私はぶっきらぼうに答えました。
「ええ、春人は帰ってきていますが」
相手は慌てている様子でした。電話越しにわかります。息が早く、一言ごとの単語が区切られるのです。
「葉月が、うちの娘が、まだ、帰ってこなくて」
それがどうした、という具合に私は相槌を打ちました。
「いつも、春人君の、話を聞いていて。いつも、葉月が、話していて」
「はあ」
「春人君なら、何か、知っているかも、しれない、と思って、電話したんです」
私は、春人が彼女を連れ去った容疑者にでも思われているのか、と怒りがこみ上げてきました。
「あのですね…」
異論を唱えようとした時「わかりました」と電話口に聞こえました。
「一緒じゃないんなら、いいんです。夜分に、失礼しました」
と。夜分と聞いて、時計はまだ十八時を指しています。私はそれに引っ掛かり、でも、すぐに別の思いが産まれました。
もしかして、今日も一緒だったんじゃないか。
と。考えれば、いつも一緒にいるので、台風の今日だって一緒にいたとしてもおかしくないのです。もしかして、春人は彼女を置いて帰ってきたんじゃないか、と考えました。
受話器を置いた後、すぐに春人の部屋へ向かいました。
ドアを開けると、春人はベッドに横になっていました。
冷静を装い、春人に話しかけました。
「姫川さんから電話があったんだけど、葉月ちゃんまだ帰っていないんだって。こんな台風の日に。心配よね。葉月ちゃん、何も言わず出て行ってて、お母さんすごく心配してるみたい」
春人はベッドを起き上がり、こちらに目を向けました。まさか、とも思いましたが、念のため訊きました。
「今日は葉月ちゃんと一緒じゃないわよね?」
春人は何も言わず、私を見ていました。その時、勘が働きました。
「一緒だったの?なんで春人だけ帰ってきてるの?」
春人は、まるでいたずらが失敗したときのような顔をしていました。
「雨が強くなったから、僕だけ帰ることにして。姫川はまだ遊んでるって」
その言葉に、偽りを感じたくなかったので
「そうなの?」「この台風なのに?」
と、わかった振りで、私は応えました。畏れを感じました。春人が、愛する息子が、違う人になっていく。隠し事をしているのは明白でしたが、それ以上訊けず、部屋を出ました。
そのあと、二十時頃でしょうか、みたび電話が鳴りました。携帯電話がまだ普及していない時代ですから、家の電話が鳴ることは日常茶飯事でしたが、三度も鳴ることなんて珍しいんです。嫌な予感がしました。
電話の相手は、春人のクラスメイトの母親でした。姫川葉月ではなく、別の子供の母親です。
連絡網を回しているんだ、と言っていました。相手の声は、震えていました。
「クラスの姫川さんが、亡くなったそうです。今夜、姫川さんのお宅で、お通夜があるそうです。台風ですが、列席をお願いします」
自分の勘が当たったことを悟りました。そうですかと、沈痛を装い、電話を切りました。
パニックになる心を落ち着かせ、考えを巡らせました。最善の策を取ろうと、懸命に考えました。誰かに相談するわけにはいきません。こういう時、私のような立場の人がいたら、きっと配偶者に相談するんだと思いましたが、私は、主人に子供のことを考えてほしくなかった。私の血を分けた子供。もちろん、主人の血も入っています。しかし、私と主人は元々他人です。他人に、自分の子供のことを相談はできません。しかも、電話した時に、私に出かけるな、と言った人です。話がわかるとは思えませんでした。
自分の罪にしてもいい。それで丸く収まるなら。
その時にはもう、春人が罪を犯したのだと理解していました。僅かばかりの可能性ですが、無実であることを願う気持ちもありました。
春人は、今崖にいるのです。そこを飛び降りるのも、立ち去るもの、春人次第です。でも、春人はまだ子供です。正常な判断が出来ないこともあります。
だから、私が道を作らなけらばならなかったのです。
目の前に、なるべく穏やかな、まっすぐな道を作ってあげたかったんです。
すべては、姫川葉月が現れてから起こったこと。彼女が元凶の源です。心優しい春人は、彼女に崖に連れていかれ、そうして彼女は何かしらの理由で崖から落ち、春人はひとりぼっちにされたのです。
その心情を思うと、我を忘れそうでした。
でも、私は決心しました。
春人を救う。
叫びだしそうな心を抑えて、策を考えました。
もし、警察が来ることになったとして、真っ先に聞かれるのは、春人のアリバイ。そうだ、アリバイを作ればいいんだ、そう思いついて、その先を考えました。理路整然と言えるように、不自然な点が出ないように、綻びが出ないように。
私は以前、恩を売ったことがありました。ひと月ほど前のことです。春人のクラスメイトの母親で、寺川さんと言いました。
寺川さんの息子は、うちの春人がひどいことをしたと言って、学校に行かないことがありました。その日、昼間に掃除を終え、洗濯物取り込もうかと考えてるときに、電話が鳴りました。
寺川さんの第一声は「春人君のお母さんですか?」口調が強い感じでした。
私は、そうだ、と答え、それが何か?と話を促しました。
彼女は、春人が寺川君に、侮辱するような替え歌を歌って、その苦痛から学校へ行けなくなった、と高圧的に言いました。
はじめから、春人を悪人のように責める口調に、私は怒りを覚えました。
「あなたが何をおっしゃりたいか、わかりましたが、お宅のお子さんが学校へ行かないのと、春人とは無関係です。もし、本当にそういうことがあったんだとしても、それはその程度で負けるあなたのお子さんのほうが悪いんじゃないですか?」
私の言葉は、彼女に油を注いだようで、彼女は直接会って話したい、と言ってきました。
私も、子供を非難されたことが気に入らなかったので、合意しました。
近所では他人の目があるため、隣町で待ち合せました。暑い中、自転車を漕いで、指定の喫茶店まで向かいました。
対峙する寺川さんは、小さく、痩せていました。私の方が、頭一つ大きいくらいでした。彼女は、怒っているというより、怯えているようでした。面と向かって座っているのに、こちらの目を見ないんです。その手も震えていて、コーヒーをかき回すスプーンもぎこちなさを感じました。
夏だというのに、長袖のカーディガンを着たその姿は、私よりだいぶ年上に見えました。
私は、戦意もあらかた喪失し、問題を解決しようと、彼女に話しかけました。
春人が歌ったとされる替え歌と、今日の寺川君の動向を事細かに聞くつもりでした。彼女に問うと、ぽつりぽつりと話し始めました。
替え歌は、当時テレビCMで流れていた流行歌をもじった、誰にでも思いつくようなものでした。本当に、それだけが原因なのか、疑うような内容でした。
私には、真意は他にある気がしてなりませんでした。
彼女を宥めるように、言葉を選び、春人以外に原因はないのか、訊きました。彼女はまだもじもじしていて、なかなか応じようとてくれませんでした。
早くしなければ、子供たちが帰ってくる時間になる、家事も午後分が残っている、私は応えず黙っている彼女に、次第に苛立ち始めました。
「あなたが会って話したいというから、時間を割いて来たんです。早くしてくれませんか?言わないんだったら、私は謝らないし、春人も責めません」
彼女は目を見開き、ようやく話し始めました。
その内容に、愕然としました。春人は濡れ衣を着せられ、きっと学校では祭り上げられているというのに、何という陳腐な話。
彼女はご主人とうまくいっておらず、手をあげられることもある、子供も何を考えているのかわからない、家庭と子育てに悩まされ、その傷口に、自分の子供がいじめられているらしい、と聞き、今朝、子供を学校へ行かせなかったとのことでした。クラスメイトの母親に聞き、春人が替え歌を歌ったことを知ったとのことで、他は母親同士で面識があるため表に出せず、だから直接的な原因として、春人の名前を出したということでした。
冗談じゃない。
気づいたら、コップの水を浴びせていました。
私は怒鳴り、立ち上がりました。胸倉を掴んでやりたい気持ちを抑え、椅子を蹴り、その場を去ろうとしました。
彼女は「申し訳ない」と平謝りするだけ。
冗談じゃない。汚点がないとは言えないけれど、春人は利用されただけ。目の前の女に、腹いせに使われただけ。あなたの子供も傷ついたかもしれないが、春人だって今日学校で何と言われているか、だいたいそんなことを理由に子供を休ませて、何が楽しいのだ。子供を使って、鬱憤を晴らしたかっただけではないか。学校に電話までして、いい大人が何をやっているのだ。
罵倒したい気持ちを押し殺し、私は店を出ました。
夏の盛り、コンクリートから湯気も出るくらいでした。全速力で自転車を漕ぎ、早く春人に会いたいと願いました。早く抱きしめてあげたい。脚がちぎれるくらい早く、ペダルを漕ぎました。
私は、寺川さんの家に電話をしました。
最初に出たのは、子供で、母親に取り次いでくれました。きっと、今の子が春人のクラスメイトだ、そう感じました。
寺川さんは、ひと月前に聞いた、おどおどとした、しかし警戒心を携えた声でした。
私は、思い描いたシナリオを伝えました。春人は、放課後、寺川さんのお宅で遊んでいて、それを、何か訊かれたらあなたが証言をして、と。
彼女は訝しがっている様子でした。しかし、前回のことを思い出してか、了解してくれました。
ひと安心。
高鳴る鼓動を抑え、何も知らない良い母を演じようと思いました。
春人の部屋に入って、所在なさを繕い、視線を泳がせました。漫画を手にしている目の前に立って、言葉を迷っている風を装いました。
春人は勘の良い子です。すぐに私の異変に気付いた様子でした。
顔を上げ
「なに?」
と。
私は芝居を続けました。
時に嗚咽を交え、時にか細い声で。芝居の経験はありませんが、なかなかのものだったと思います。自分の演技に感心しました。純粋な春人は、それを信じているようで、私の言葉を一字も逃さず聞いていました。
それから、連れ立ってお通夜へ出向きました。涙さえ流しそうな良いクラスメイトの母親を演じました。姫川葉月の母親は、沈痛な面持ちで、祭壇のそばに座っており、喪服より暗い胸の内が室内を漂っていました。私の心は、満足と達成感でいっぱいでした。線香の匂いが、現実味を帯びていて、声高らかに笑いたい気持ちを押し殺しました。神妙に手を合わせる振りをして、早々と会場を出ました。
それでも、少しの混乱はありました。気持ちを落ち着かせるため、私は家事をも半端に、自室に閉じこもりました。
起きてしまったことと、これからのことを考えると、絶望よりも、焦燥感が襲いました。
これから、うまくやれるだろうか。失敗したら、春人の人生がめちゃくちゃになってしまう。この問題は、今、私の中にあって、ヘマをすると何もかもがなくなってしまう。
私は混乱して、真面ではなかったので、誰かと会話するのも怖かったんです。
一度失敗したんだとしても、人生は決められません。切り取ると、その場面は不幸でもあとがどうなるかなんて、誰にもわかりません。折れ線グラフのように、底まで落ちたとしても、そのあと上がれば、不幸なんてあっという間に忘れます。
思っていた通り、警察はやってきました。
春人は、私が教えていた通り、寺川君の家に遊びに行っていたという趣旨を伝えました。
私は、気丈に振る舞いました。臆することなくいようと決めていました。けれども、悼んでいる芝居もしました。無関係な母親を演じたのです。
疑っているような気配もありましたが、嘘は言い続けると本当になる、って本当ですね。最後には、納得したように帰っていきました。
私の演技に、春人の嘘。警察って案外簡単なのだ、と感じました。
だって、公務員ですもんね。決められた仕事を行い、決められた範囲内で動く。好都合でした。
私は、小芝居がうまくいったことに歓喜を覚えました。人知れず、自室で涙が溢れたことを覚えています。これで、春人の人生はうまくいく。そう実感していたのです。
計画が曇ったのは、その数時間後でした。
春人のクラスメイトの女の子が訪ねてきたのです。
シノミヤという、ボブカットの細長い女の子でした。
私は、応対する春人と彼女を、自室のふすまを開けて見ていました。
彼女は知っている様子でした。
春人をあの日見たんだと主張していました。彼女に恐怖を感じました。私は居ても立ってもいられず、少しだけ開けていたふすまを全開にし、彼女に怒鳴りました。
彼女は、このまま放っておけば火の粉になる。導火線に着火して、せっかくうまくいきかけた春人の人生が狂ってしまう。
それで、私は彼女を殺すことを決めたのです。
私の中に、鬼がいます。
でもそれは、幸せを祈る鬼。良い鬼なんです。
春人の幸せを切に祈っていました。
そのためだったら、何だってします。殺人だって、そのためには、たやすいことです。
あとは何にでもなる。
誰にだって、その感情はあるんじゃないでしょうか?大切なもののために、よく命を差し出すなんてことを言う人がいますが、死んでしまったら元も子もないです。この目で幸せを見届けて、それで満足する。それが人間なんじゃないでしょうか。
男の人は良いですよね。家庭で何があっても、仕事をして忘れられる。
女は、そうはいきません。狭い世界で生きているのです。家庭がすべてなんです。
だから、家庭の不幸は、すべて自分の不幸なのです。
打破するために、私が取った行動は賛同されるべきものであって、非難されるものではない、それは揺るぎません。
私は、シノミヤを殺しました。
三階建ての校舎から落としたのです。
あっけないもので、彼女は落下した後、身じろぎもしませんでした。
テレビか何かで見たのだと思います。自殺するには、六階以上から落ちないといけないと。
でも、学校の校舎って、天井が高く作られているからか、頑丈な骨組みになっているからか、三階建ての屋上から落とすだけで良かった。あの時の達成感は忘れることが出来ません。
すべては、春人の幸せのため。邪魔するものは排除すれば良い。どうせいつかは死ぬのだから、早まったって、私たちには関係ありません。それより、一秒でも早く私たちが幸せになることが大事です。どうせ幸せになることは決まっているのだから、早めたって悪くは言われないはずです。
私はあの晩、シノミヤの家に電話をかけていました。学校の連絡網で、「四宮幸」という名前を知りました。私は、自分の名前と彼女のそれに、同じ文字が入っていることに嫌悪感を抱きました。なぜ、春人を責めた女と同じ文字が入っているのか。私は、幸子です。幸せになるために産まれてきて、これからも幸せを掴むんです。彼女とは、幸せの度合いが違います。
電話口に母親が出て、春人に頼まれたからと言って、彼女に替わってもらいました。
四宮幸の声は、猛々しいものでした。闘争心がむき出しなのが、電話を越えて感じられました。
私は、そんな状況だったので、弱った風を装いました。
彼女は、罵詈雑言を私に浴びせました。それでも、私は彼女の言葉を受け止めたように、悲痛な声で返事をしました。
「姫川さんのことで、話したいことがある」
私は、か細い声で、でも、きちんと四宮幸を動かせるために、演じました。
「私も殺す気なんですか?」
「そういうことじゃなくて、四宮さんの誤解を解きたくて」
「誤解なんてあるわけないでしょう!春人君が葉月ちゃんを殺したんです!」
「…はぁ…。電話だけじゃ無理ですよね。誤解が解けそうにないので、明日早朝に学校の校庭に来てくれませんか?」
「…」
「お願いします。このままだと、春人が疑われ、それは誤解なのに…。警察に捕まってしまうかもしれないんです。真実が明らかにならないまま、少年院に入れられることになったら、私…」
「…わかりました。明日の朝ですね」
「ありがとうございます。早朝四時でお願いします」
早い、と四宮幸はごねましたが、その時間じゃないと無理な検証があるんです。と強引に彼女の首を縦に振らせました。
早朝、彼女は警戒心を携え、現れました。
「話って何ですか?私は確実に葉月ちゃんと春人君が一緒にいるところ見ているんです」
そんな言葉だったと思います。気が張っていたので、言葉の詳細までは覚えていないのですが、そういった類のことを言っていたと思います。
私は彼女を制し、持っていた石で、思い切り頭を殴りました。どうせ、これから落下する体だ。投身自殺は、頭から落下するのだと、私は知っていたので、彼女の頭が割れていたって、気にはしませんでした。彼女の遺体のそばに、その石を置いておけばいいのです。落下して、地上に達したときに運悪く石にぶつかった。よくあることだと思いました。
血は溢れ出ました。手にはめておいた私の軍手も、真っ赤に染まりました。とりあえず、頭からの出血を残さないため、傷口にティッシュを詰め、頭を丸ごと二重にした袋で覆いました。近所のスーパーの袋です。そのあとで、校庭に散らばった血も、持ってきたスコップと袋で何事もなかったようにしました。軍手も新しいものに変えました。靴は、跡が残らないように、ビニール袋で覆い、その下にタオルを敷いていました。
彼女が気絶していたので、私は彼女を持ち上げ、運びました。私と同じくらいの長身の彼女を運ぶのはずいぶん体力を使いました。
彼女は息をしていて、担いでいる時にその体温を感じました。私は、重いものを運ぶのに慣れていなかったので、全身汗だくでした。
屋上まで運んで、靴を脱がせました。あとは縁に載せ、落下するのを待ちました。
寝返りを打てば、自分から落下する。それは、彼女の意志でなくとも、私は咎められることはありません。私は、彼女に怪我をさせ、屋上に連れてきた。それだけです。
彼女は気絶から、息を取り戻したようで、低い唸り声をあげました。それと同時に、落下しました。最後は、私が手を下したのではなく、彼女の寝返りの時の体重移動と偶然が重なった、事故だったのです。もちろん、靴も、彼女が寝ていた場所に並べて置きました。
そうして、私も地上に出て、彼女の頭の袋とティッシュを抜き取り、彼女の頭を持ち上げ、そこに彼女を殴った石を置きました。
それでも、まだ六時前。登校してくる人もおらず、当直の先生も睡眠中のようで、私は誰にも見られず、計画を遂行できたのです。遺書があれば良かったのですが、そうもいきません。抵抗される前に、必ず行うために、気絶させる必要があったので。
スコップ、ビニール袋、袋に入れた土、それと軍手と靴は、持っていたリュックサックに入れて持ち帰りました。校門近くの大きな木の陰に移動し、着ていた服や靴とそれを覆っていたビニール袋とタオルもリュックサックに入れ、新しいTシャツと短パン、スニーカーに身を包みました。重い体を運んだせいか、昂揚感かわかりませんが、汗は引いていきませんでした。
子供が起きてくる前に家に戻り、急いで朝食を作り、寝ていた子供と主人を起こしました。
近所は大騒ぎをしました。
川に流されて死んだ子の親友が、屋上から転落死。
マスコミも取り上げ、どこに行ってもそのニュースを見聞きしました。
学校にも、記者やテレビカメラが押し寄せているとのことで、私は子供のことを心配しました。
学校を出るや否や、マスコミに追い回されるのではないか、春人はクラスメイトとして囲われないか、心配しました。
だって、まだ小学生です。近しい人たちの「死」によって、春人の心が壊れないか、心配でした。
優介は何があってもうまく躱し、生きていける社交性がありますが、春人は逆で何かがあったら抱え込むんです。それが、見ているこちらからしたら、もどかしいんです。
主人は、私の行動を把握しているようでした。
リュックサックに入れていた服や、四宮幸の血がついた袋やティッシュ。それらを見つけ、私を問いただしました。
私は、自分がやったことを認め、名乗り出る気はないと伝えました。
主人は怒鳴りましたが、それより私は、姫川葉月が死んだ時より、大きな達成感を感じていました。
四宮幸の死を見届けた。直接手を下したわけではありませんが、目の前で人が死ぬ様はなかなか見られるものではありません。鼓動が体から抜け出し、まるで蝉の抜け殻を見ているような気持ちでした。
貴重な経験が出来たと思います。主人は、優介を連れ、出ていきました。頭がおかしい、と言っていました。お前と春人は、頭がおかしい、と。
私は非難されたことに、憤りを感じましたが、このくらいで出て行くのだから、この人は私には必要な人ではない、そう思いました。
私は、春人を一人で育てることになりました。
元々、主人は子育てに無関心な人だったので、私にとってはさほど変わらず、優介がいない分、家が大きく感じる程度でした。
主人は出て行ったものの、離婚については何も話していなかったので、私は春人と公務員住宅に住み続けました。
周囲の人間を殺したこと、主人と優介が出て行ったこと、春人を一人で養うこと。それは私の「無意識」を駆り立てました。
意識は健康なのですが、無意識が事実を理解して、私の心は不安定になりました。
ご飯も喉を通らず、睡眠も不規則になり、体重もどんどん減っていきました。
せめて、金銭的に主人が援助してくれれば、問題も少しは軽くなるのに。そう思っている矢先、主人から手紙が届きました。「居所は言えない。君たちの問題は、君たちで解決してくれ」との内容でした。消印は見ませんでした。同封されていた離婚届に判を押し、役所に持って行きました。
それで何かが吹っ切れたのだと思います。主人と言う盾がもうないのだから、私は自分の力で春人を育てていく。春人と二人で歩いていく決心がつきました。
私は、女手一つで春人を育てました。新しい家を借り、そこで親子二人きりで暮らしていました。
春人は、私の思い通り、素直で優しい子に育ちました。私の言うことを真剣に捉え、行動し、思春期もありませんでした。私たちは、愛し合って生活をしていたのです。
何かが間違っていた、とかそういうことは思いません。二人きりの家族として、私たちは精いっぱい生きてきました。
春人は、ある人に唆され、すべてを置いて田舎を出て、そうして地獄を見たんです。
警察は、春人を責めますが、それはお門違いです。人は産まれるべくして産まれて、死ぬべくして死んでいくんです。その人は、必然的に死んだのです。きっと、春人を不幸にした罰だったのです。
神様は、春人に大変な試練を与えています。それは、生きることに挫折しそうな、困難な試練です。私は、その春人の人生を照らしてあげたかった。親として当然でしょう。彼の行く道を照らしてあげたかった。
幸せとは、自分が決めること。たとえ、階段を踏み外したって、そのあと目的地に辿りつければ、過去なんて一瞬で忘れます。たとえ、汚点が付いたとしても、生きている時間にすれば、そんなもの思い出しもしないくらい、一瞬のことなのです。
その一瞬のことで、誰かを傷つけたとしても、自分が幸せになるのなら、それはそれで良いのです。傷つけられた方も、後々、一瞬に感じ、笑い話にもなることでしょう。
私は手段を選びません。春人が幸せになるのなら、手段は選びません。
殺人だって、ためらいなく犯します。それが、私の愛なんです。
エピローグ
彼から流れる血は赤かった。こんな人間でも、血は赤色なのだな、と思った。その色が吹き出すことが楽しくて、僕は何度も何度も彼を刺した。きっと、もう息もなかっただろう。慌てふためく社員たちが僕を制そうと、僕の体を彼から離そうとするが、そんなことさせはしない。逆らう者には、小刀を示す。そうすると、みなたじろいでくれて、僕は作業に戻る。彼のせいで、僕の人生はめちゃくちゃだ。僕が感じた、怒り、憤怒、憎しみ、絶望、すべてを味あわせるためにも、僕は何度も彼を刺した。
しばらく刺し続け、満足したので、僕は母に電話をした。久しぶりに聞く声の懐かしさに涙が出そうになった。
そのうちに、警察がやってきた時には、僕はもう達成感で満たされていたので、抵抗することなく取り押さえられた。合計三十回ほど彼を刺したと思う。人を刺すと昂揚感が味わえた。姫川の時と同じだ。
興奮している僕に手錠をかけ、警察は車に乗せた。
気が付くと取調室にいた。僕は訊かれる前に、自分から話し始めた。
上京してからの経緯や、彼との関係、すべて正直に話した。彼を憎んでいて、その彼を殺すことで、僕が幸せになることも話した。
「僕には母という神様がついているんです。今回のことも、母がどうにかしてくれます」
取り調べをしていた警察官はあっけにとられているようだった。
無理もない。母という神様に守られていることは、これまで口外してこなかったし、母は僕だけを守るのだ。
「神様に守られているんです」
僕は、彼という呪縛から解放され、輝かしい未来に心を躍らせた。
終