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蒸気

作者: 短小マン

 昼下がりにコンロに薬缶を掛けっぱなしにしていたら、水がすべて蒸気になっていた。台所に入るともうもうと白い蒸気が立ちこめていて、酷く蒸し暑い。なにをしていなくとも汗がどんどん噴き出す程だ。これはたまらないと窓を開けようとすると虚空から「待ってください」と声がした。驚いて辺りを見回してみるが、誰もいない。だが「ここです」と声は変わらず聞こえてくる。

「誰だ。どこのどいつだ。一体全体、何処にいる」

「此処です。貴方の目の前にいるのです。私は一つの蒸気なのです」

 驚いてみてみると、モクモクと立ちこめる蒸気の中に顔があった。見たところ、顔は四十代の半ばぐらいの中年だろうか。強烈な天然パーマで、瞼が分厚くて、唇は突き出ていて厚く、彫りが深い。色合いは白一色だが、アフリカ系の黒人男性のように見える。

「お前は一体なんなんだ?」

「申し遅れました。私、この街で弁護士をしているトマス・マーガリンというものです。債務問題等を専門としています」

 蒸気は人なつっこい笑みを浮かべると自分は弁護士であると名乗った。だが、古今東西どの文化圏にも、蒸気が弁護士をやっているなんて話は聞いたこともない。いや、そもそも風が吹けば消えてしまう蒸気に弁護なんてできるわけもない。そんな無理難題を押し通そうとするならば、裁判所は常にストーブとしゅんしゅん音を立てて蒸気を吹き上げる薬缶が立ち並ぶ、暑くて湿気の凄まじい不快な環境に成り下がる事だろう。

 私は不審を露わにした。

 すると、流石弁護士を名乗るだけ逢って、トマス・マーガリンの反応は早かった。

「いや、待ってください。別に私も生まれたときから蒸気だったわけではないんですよ。気が付けば、こうして蒸気になって漂っていたんです。その前は、事務所の長椅子で仮眠を取っていた筈なんです。私は全くの人間だった筈なんです」

「に、人間? けれど、人間が蒸気になるなんて聞いた事がない」

「左様ですね。私もキリスト教徒の端くれですが、そんな地獄は聞いた事がない。カレッジでは東洋思想を選択していたので、ブッティストの友人もいた。アジアでは輪廻転生といって、人が様々な動物に生まれ変わったりするという思想があるそうですよ。人間が虫けらに、あるいは虫けらが人間に。こちらでの地獄というのも、向こうの考えでは生まれ変わりの範疇なのだそうです。地獄に生まれ変わるという。なかなかユニークな思想ですよね。けれど、その中に、蒸気に生まれ変わるという話は聞いた事がない。いや、そもそも無生物に生まれ変わる事もあまりない上に、蒸気、いわば湯気ですからね。気温が下がってしまったら、私はただの水滴となって死んでしまう事でしょう。そんな儚い存在に生まれ変わってしまったのだから、私はどんな悪い事をしたのかという話です。けれど、貴方、どうかガスの火を止めず、窓を開けず、換気扇を回さずに聞いて下さい。私は決して悪徳弁護士などではないのですよ。いや、むしろ社会に貢献した善良な弁護士であったのです。どうか聞いて下さい。そして、この儚い命を哀れんでください! 私は真面目に仕事をしていたんです。悪辣な金融機関やヤミ金融、そうしたものに苦しむ人達を沢山救ってきたはずです。採算度外視の仕事をして、可哀想なシングルマザーを救ったことだってあった! ああ、あの麗しいアン・トースト! いや、確かに、少しだけ下心のようなものがなかったとは言いません。幼子を抱えた奥さんを見て、なんて綺麗だと思ってしまったのは事実です。けど、私は不孝に付け込んで彼女に迫ったりはしなかった! ただ、善良な弁護士として努力して、その不当な利子を無効にしただけでした! 私の人生は常にフェアだったんだ! 善なる人から感謝されて、悪人達から憎まれていた! それなのに神よ! どうして私はこんなにも意味の分からぬ状態に置かれなければならないのですかッ!」

 そう蒸気弁護士トマス・マーガリンが叫んだ時だった。

 突然、台所の窓ガラスがぶち破られて、冷たい風が流れ込んできた。冷たい風に身をさらして、トマスは身の毛もよだつ悲鳴を上げる。外から流れ込んだ冷気が、彼を維持せしめる蒸気という性質から、死せる水滴へと変化させ、トマス・マーガリンという個性を破壊しようとしている。

「なぜなのですかッ!」

 トマス・マーガリンは絶望の声を上げながら消えてしまった。

 後に残されたものは、割れた窓と湿った空気、そして窓を破った真っ黒なカラスの死体だけだった。


 後日、私はトマス・マーガリンなる弁護士について、街の弁護士会に尋ねてみたが、そのような弁護士は存在しないと素っ気なく言われた。市役所に行って市民課で尋ねてみても、そのような人間が存在した記録はないという。

 蒸気弁護士が語っていたアン・トーストは実在した。けれど、彼女はトマス・マーガリンなる弁護士は見たことも聞いたこともないと語った。

 何一つ、蒸気弁護士が人間だったことを示す証拠はなかった。


 それから半年後、私が入居しているマンションの貯水タンクの中から、水死体が見つかった。けれど、身体はふやけてぶよぶよに膨らんでいて、その身元が判明する事はなく、身元不明の遺体として処理され、市の共同墓地に葬られてしまった。


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