061 覚醒
「うわ。急に重くなったぞ」
さくらを羽交い締めしていた男が、抱え直すように身体を持ち上げる。
「気持ちよくて腰抜けたんじゃねぇの?」
セーラー服の裾から手を潜り込ませながら答える男。
「……っっうぅ、っく……」
その時、さくらの口から嗚咽のような声が漏れた。
「おい。ひょっとして泣いてんじゃねぇの?」
太股を撫で回してた男が、俯いたさくらの顔を覗きこむように見上げる。
前髪が表情を隠し、逆光となっている顔は影になって見えなかった。
「っくっくく……」
声とともに、操り人形のようにヒクヒクと痙攣するさくらに、男たちの手が一斉にとまる。
その声は泣いている……と言うよりは、笑っているように聞こえた。
その笑い方は、さくらをよく知る者が聞けば、明らかに別人のような笑い方だと感じたであろうほど違和感があった。
酷薄で。狂気をはらんでいるような危うさを感じさせる笑い声。
この状況で発するには、あまりにも場違いな笑い声だった。
「な、なんだ?」
その声に鼻白んだ男が掠れた声を出す。
「…………」
ガツン。
骨と骨がぶつかる鈍い音が、さくらの足下から聞こえた。
それは、さくらの左膝が、しゃがんでいた男の顔面にめり込む音だった。
「ぐぶぁぁ!」
太股を撫でていた男が顔を押さえ、意味不明な悲鳴を上げた。
「あ?」
さくらのセーラー服を捲っていた男が、たたらを踏むように後ずさる。
その間には、さくらの右足。
さくらが間合いを取るために、足で男を引き離していた。
スパッ!
1メートルも離れてない距離。
その隙間を滑らかな弧を描いてさくらの右足が閃く。
しかしインパクト音はほとんどなく、靴のつま先が男の鼻先を掠めただけだった。
「あ?」
キョトンとした男の声。
一瞬遅れて、鼻から鮮血がボタボタと滝のように吹き出す。
「な、なに……」
さくらを羽交い締めにした男がその光景に見入っていた瞬間。
前屈みになったさくらの頭が跳ね上がり、その男の顔面を強打する。
「がはっ……」
さくらはもう一度しゃがみ込み、力が抜けた腕から抜け出した。
地面に流れ落ちる鼻血を避けるように横に回り込みつつ、振り向きざまに膝を繰り出す。
ゴリっとした感触。
さっきまでさくらを羽交い締めしていた男は股間を押さえてうずくまり、口から泡を吹く。
この間わずか十秒ほど。
さくらの笑い声で虚を突かれた男たちが、対応出来ずに地面に這いつくばっていく。
「な、なんだよ。これ……」
ビデオを手にした男が、一瞬のうちに起こった出来事に対処出来ず棒立ちになる。
「ひぃっ……血、血が……」
「ぁぁぁぁっ~~!」
「うごぁ……」
三人の男たちの呻き声に囲まれるようにして立つさくら。
後ろ手に手錠をかけられ、たくし上げられたセーラー服。
白日に晒された白い下着と肌は、返り血を浴びて所々どす黒い赤に染まっている。
乱れた髪は風をはらんで顔にかかっていた。
さくらの視線が辺りを彷徨う。
初めて訪れた場所を確認するような、少しだけ興味が垣間見える視線だった。
そして、その視線は自分の姿に向けられた。
が、しかし。それにはなんの興味もないのか無表情のまま、すぐに地面で悶える男たちに向けられた。
そこで、さくらの表情が変化した。
面白い物を見たかのように口端を吊り上げて笑った。
酷薄そうではあるが楽しそうに笑っている。
この場に似つかわしくない……いや、逆に似つかわしくも感じさせる笑顔。
血と悲鳴に囲まれて楽しくて仕方ない。そんな表情だった。
そして、残ったふたりに視線を向けた。
「や、やめろ! 来るな!」
ビデオを持った手をやたら滅法振り回しながら、撮影役だった男が後ずさる。
ニヤリと笑ったさくらは、まるで足場が悪い地面を駆けるように足下にうずくまる男を気にせずに踏みつけつつ跳躍する。
「ひぃっ……」
バシッ! っと間合いを取った飛び回し蹴りが、男の手に握られたビデオカメラを正確に捉えた。
手から弾け飛んだカメラが、昇降口の建物の壁にぶちあたり破片を撒き散らしながらこぼれ落ちる。
「……え?」
男がそのカメラに視線を泳がせた瞬間。
重さを感じさせない身軽さで、男の目前に着地したさくらのローキックが決まった。
「あぅ!」
堪らず足を抑える男。
さくらは落ち着き払って、無防備になった逆足に再びローキックを浴びせた。
「ぐぁ……」
男は堪らず腰を落とす。
悲鳴を上げる男を冷静に見下ろしながら、さくらはきっちり半歩下がる。
そして、前のめりに腰を落とす男の顔にもう一度膝をめり込ませた。
さくらの攻撃は執拗なまでに『鼻』や『股間』……いわゆる『急所』を狙っている。
一撃で行動不能にし、戦闘意欲を喪失させるために失血を強いる。
最も効率よく相手の戦力を奪うための手段。それを確実に実行していた。
男の鼻から毒霧攻撃のような鮮血が吹き出す。
それは赤い斑点となって、さくらの下着や肌に染みを作っていく。
「うるぁぁっ!」
「?」
最後の膝蹴りを決めた瞬間。
振り上げた膝を戻し足が地面につく前。
五人目の男の横蹴りがさくらの脇腹を捉えていた。
元よりウェイトに差がある分、地面を二転三転するほどの勢いで壁に激突するさくら。
手錠をしていて受け身もろくに取れず、人形のように地面に倒れ伏した。
肩に衝撃。上下感覚が掴めないまま、地面にしたたかに打ち付けられた。
腰と膝と頭、そして肩がジンジンと悲鳴を上げる。
……なに?
なにがあった?
ここはどこだ?
「死ね! このクソアマッ!!!」
その声と同時に、脇腹に衝撃。
「かはっ!」
その衝撃で胃液が逆流する。
「……うっ……ぉぇ」
強烈な酸味が口に広がる。
(なん……だ?)
やっと、モノを認識しだした視界には、ものすごい形相で見下ろしている男……男子学生が見えた。
「てめぇ……よくもやってくれたな」
憤った声。その男の足が側頭部を踏みつけてくる。
ギリギリと加わる力と、コンクリートに挟まれた頭蓋骨がキシむ。
状況が掴めない。
視界に映るのは……屋上?
そうだ、確か男たちに囲まれて……その男たちのほとんどが、今の俺と同じように地面に這いつくばっていた
。……助けが……来たのか……な?
「なんとか言え! おらっ!!」
頭から退けられた足が肩口を蹴り飛ばす。
「!!ッ」
痛みで声も出ないまま、反動で仰向けになる。
視界に広がる一面の曇り空。
「げほっごほっ」
口内の胃液が喉に流れ込んで咳き込む。
「てめぇ……ただじゃすまないからな」
男がしゃがみ込んで顔を覗きこんでくる。
男の手が、俺の顎を掴むようにして顔を正面に向けさせられた。
怒りで真っ赤に染まった顔が目の前にある。
その顔に向かって、口内の胃液を吹きかけた。
「……がっ」
堪らず飛び退く男。
へ、へへ。胃液は曲がりなりにも酸だからね。
目に入れば、しばらく開けられないだろう。
間一髪、自分の顔に戻ってくる胃液の霧に目を閉じながら笑いが漏れる。
どうしてこうなったのかはわからないけど、どうやら危機からは逃れられたらしい。
一対五には変わりないみたいだけど、見回したところ、まともに動けそうなのはさっきの男だけのように見える。
残りの四人は動かなかったり、鼻血に狼狽していたり、とても俺に構っている余裕はなさそうだ。
しかし。状況が不利なのは変わりない。
さっきまではなんともなかったけど、今は身体のあちこちが悲鳴を上げている。
……右肩。脇腹。肘。膝。頭もガンガンと痛む。
視界の半分が赤いのは……血か? 自覚はないけど頭を切ってるのかもしれない。
鏡でもあれば確かめられるんだけど。
立ち上がろうと力を込めると、身体のあちこちに激痛が走る。
なにより手が、手錠で固定されて使えないのが痛い。
反動で起きあがろうにも、腹筋に力を込めると脇腹に激痛。逃げるどころか、動くことすらままならない。
「……っっぅぷ……」
胃液の酸味に吐き気が襲ってきた。
顔だけ横を向いて、逆流してくる胃液をなんとか吐き出す。
はぁ……はぁ……。
「げほっがはっ……」
荒い呼吸を落ち着けようと深呼吸すると、喉に胃液が感じられてまた咳き込む。
……今日は……天気……良くないな。
流れる雲をぼんやりと眺める。
あちこちに感じる痛みに耐え荒い呼吸を繰り返しながら、場違いな感想が頭に浮かぶ。
あはは。
今日初めて。
自分らしい自分になれたような気がする。
あちこち痛いし。
吐き気はするし。
気分は最悪だけど。
この身体は「俺」のなんだって。そう思える。
さっきまでと違い、パニックもしてない。
ドキドキと鼓動は高くなってるけど大丈夫。
なんとかなる。
いや、なんとかする。
ここは学校なんだし。
いざとなったら助けを呼ぼう。
声出るかわかんないけど。
グラウンドに人くらい居るだろ。
不意に。
顔に影が出来る。
視界には顔をしかめた男子学生。
逆光で見えにくいけど真っ赤な顔。
怒りに震える体。
殺意が感じられる目。
腕は動かない。
脇腹の激痛で腰から下に力が入らない。
動くのは首と頭くらいか?
ははっ絶体絶命?
いや。手が動かなくても。
足の自由が利かなくても。
声が出なくたって……。
負ける気がしない。
心は負けない。
気持ちは負けない。
「!?」
男の表情が驚きに変わる。
なにか恐ろしいモノを見たかのように後ずさる。
なんだよ。
なにがそんなに怖いんだ?
いいよ。
とことんやろうか。
死ぬ気でがんばればまだ動く。
殺す気でやれば勝算は残ってる。
出来ないことはない。やれないこともない。
ちょっと投げやりな感じだけど、リミッターが外れればこんな感じなのかもしれない。
起きあがるために、まずは仰向けだった体を横にする。痛みを無視して、身体を確かめるように力を入れていく。
男と視線が絡む。表情が無意識にほころぶ。
その笑顔を見た男の顔が、またも恐怖に彩られる。
「おまえたち!! なにをやっているっ!!」
屋上に響き渡る怒声。
バタバタと駆けつけてくる足音。
その中のひとつが近づいてきて、頭の上あたりでとまった。
視線を上げると、泣き出しそうな楓ちゃんが立っていた。すぐにしゃがみ込んで頭を抱えてくれる。
見上げる顔は見る見る歪んで、瞳から大粒の涙が頬に落ちてきた。
「さ、さくらちゃん……」
「うん。大丈夫……だから」
楓ちゃんに笑ってみせて。
安心したのか緊張の糸が切れたのか。
眠るように意識が沈んでいくのを感じた。




